終章

第25話

 椛島美琴と若菜水鳥の養子縁組に纏わる話をした週の、週末。


 朝の九時過ぎ。慌ただしく業者が出入りをし終えた紅音と水鳥の家には、美琴が様々な伝手を経由して割安で仕入れた高級家具・家電が次々に運び込まれていた。


 冷蔵庫は今まで使用していたものよりも一回り大きいものを。テレビはより薄型かつ大型に。電子レンジには紅音が首を傾げるような多機能が搭載されて、愛着も特に無いベッド類は全て高級品に一新。それ以外にも包丁や絨毯、クッションなどもちらほらと。


 どうして急に、こんな宝くじの一等が当たった人のような真似をしているかというと、原因は美琴だ。まだ裏で手続きを進めている段階ではあるものの、晴れて水鳥の義母になることとなった彼女は、水鳥の意思を組んで住居は今まで通りとしてくれた。それだけではなく、今までの身内の非礼への詫びと言って、早速、水鳥への金銭的な援助を始めたのだ。


 結果が、これである。紅音も美琴も満足そうにその光景を眺め、唯一、金銭感覚がこの中では常識寄りである水鳥だけ、未だに及び腰であった。


 業者が撤収したのを見送ってから、美琴は上機嫌にテレビを点けてみる。


「うんうん、私の義娘ならこれくらいの家電は使ってくれないと」

「あの、本当に良かったんですか? こんな、知り合いから買ってるとはいえ凄い額じゃ……」


 満足そうに頷く美琴の顔を水鳥が覗くが、美琴はヘラヘラと笑って肩を竦めた。


「大丈夫、大丈夫! 私みたいな仕事してるとね、お金はあっても使う時間が無いの!」

「それはそれで心配ですけどね。もう少しご自身のお身体を労わってあげてくださいな」


 紅音がリモコンでポチポチとチャンネルを変えながら薄笑いを向けると、「あら、優しいのね?」と美琴も不敵な笑いを返す。


「それとも将来のお義母さんに今から媚を売っているのかしら?」


 そんな風に将来の姑が顔を覗き込んでくるので、紅音は下からニヤリと覗き返す。


「何やら含むような言い方ですね。私の媚は今が安いですよ? 金持ちは割引シールが貼ってある弁当を買わないから分からないかもしれませんけども」

「あら、そう。ま――冗談はさておき、家族ができたことを省みるくらいの分別はあるわ」


 軽口の応酬を済ませた後、口を押さえて目を細めた美琴はそう呟く。


 それはつまり、過労で倒れでもしたら水鳥に迷惑が掛かることを承知しているということだろう。話を聞いていた水鳥は、相変わらずの無表情で「私のことは気にしないでください」と言いつつ、「でも私はお義母さんのことを心配しますからね」と釘を刺した。


 そんな水鳥に何か込み上げるものでもあったか、美琴はぐっと目を瞑ると、わしゃわしゃと水鳥の頭を撫で回す。水鳥は犬と猫を足して二で割ったように心地よさそうに目を瞑る。


「それで、二人は私が買ってあげた家具を使う間もなくお出かけかしら?」


 恩着せがましい美琴の言葉を受け、面々は紅音と水鳥の服を見る。


 それぞれ部屋着としては少し華美な格好をしていた。梅雨のはずが快晴続きの近頃、少し蒸し暑い外気温にピッタリの涼しげなファッションだ。両手を軽く上げて足許をぷらぷらさせる紅音と、服を摘まんでお淑やかに服装を見詰める水鳥。そして二人で顔を見合わせる。


「一緒に旅行に行くって約束したもんね!」


 ――その時は、紅音も来てくれたら嬉しい。


 紅音がニッコリといつかの約束を思い出しながら言うと、水鳥は食い気味に頷いた。


「約束、守ってくれてありがとね。凄く嬉しい」


 水鳥の表情はピクリともしないが、それが無表情でないことは――などという但し書きもいい加減に鬱陶しくなってくるくらいには、彼女の感情は確かに伝わっている。けれども、これから約二年間の間に、彼女は自分の定めた制限時間に従って、表情豊かな人間にならなければいけない。そうでなければ少なくとも一年間はお別れで、みっともなく泣きながらそれを嫌がった思春期の小娘二人にとっては、それは何としても避けたいのだから。


 紅音は真っ直ぐに水鳥を見詰め、水鳥は色んな感情を込めた目を返す。


「妬けるわね」


 と、美琴は頬に手を当てながら目を細めて呟く。


 すると、水鳥は普段より少し目を開けて高揚を仄めかしながら美琴を見詰めた。


「お義母さんは、お土産。何がいいですか?」

「あら、もしかして買ってきてくれるのかしら?」

「当然ですよ、行きにコンビニに寄るので! ガリガリ君でいいですか?」


 紅音がヘラヘラと横槍を入れると、即座にその頬を美琴の両手が抓った。


「いひゃいいひゃい」

「貴女って実は割と生意気な小娘よね」

「冗談です、冗談ですやんか!」


 紅音は必死に美琴の両手を離し、ジンジンと赤くなる頬を押さえて薄笑いを向ける。


「まあ……私も色々とお世話になりましたし。良いものを探しておきます」


 すると美琴は苦笑しながら溜息を吐き、両手を伸ばして二人の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「無事に帰ってきて、写真と土産話をくれればそれでいいから」


 そんな風に大人の対応を見せられた、余計に意地になるというもの。少し高めでお洒落なものを大量に買って帰ってやろう――などと紅音が胸中に企んでいると。


「これから、ちゃんと家族になっていきたいから」


 そんな風に美琴が付け加えるので、紅音は出かけていた軽口を飲み込んで微笑んだ。


 きっと同じような表情を浮かべたいだろう水鳥も、美琴の顔を見て伝える。


「今度、お義母さんの都合がつく日を見付けて、一緒に旅行に行きましょうね」


 すると美琴は意地悪な笑みを浮かべて紅音を一瞥し、


「その時は親子水入らず?」


 なんてふざけたことを言う。当然、それが冗談と分かる水鳥も「どうしましょうか」と細めた目を紅音に向けるので、水呼ばわりされた紅音は鼻で笑ってやる。


「私、知ってますよ。嫁姑問題ってやつですよね」


 そんな軽口を叩き合っている内に、いつの間にか出発時刻が近付いていた。――チラリと誰かが一瞥した窓の外の空は、梅雨を忘れたように心地よい蒼が広がって、落とし物をしたように白い雲を散在させている。そろそろ、紅音と水鳥の最初の夏が盛りを迎えようとしていた。






 時を同じくして、都内某所にある個人経営の洒落た喫茶店で、七緒はアイスコーヒーを楽しんでいた。個人経営というと年季が入った店を想像しがちだが、この店は一言で言うと『昭和レトロ』。清掃は行き届いて備品のそれぞれは清潔かつ新しいものの、薄暗く、デザインや配色の妙によって、実際にその時代を生きていた訳でもないのに、ノスタルジーに浸らせてくれる。


 すると、カランという鈴の音と共に待ち合わせ人がやってくる。


 朝日が扉の開閉に合わせて店内に伸び縮みする中、現れたのは雪子だ。


 後見人の最後の仕事として児童相談所の職員と諸々の擦り合わせに奔走している彼女は、本業のゲーミングチームのオーナー業も小休止して、休日を謳歌している。身体をぐぐ、と伸ばして臍を晒しながら店内を見回した彼女は、ヒラヒラと手を振る七緒を見付けると、愛想よく接客に来てくれた老齢の女性に七緒を指して待ち合わせの旨を伝える。


「お待たせー」

「先に頂いてるわ」

「気にしないで。私はどうしよっかなー」


 そう言いながら頬杖を突いてメニューを眺める雪子の姿を、七緒は暇潰しに眺める。


 やがて、彼女はプリンアラモードとアイスティーを店員に注文。それから、ぐぐ、と猫のように腕を持ち上げて背中を伸ばした後、ぐて、とテーブルに手を付いた。


「お疲れ様。ありがとね、諸々。本当は私も手伝えたらいいんだけど」


 ここ最近の彼女の忙しさは後見人問題の手続きによるもの。そして、決断は彼女の意思であったとしても、水鳥の話を彼女に持っていったのは七緒だ。本来であれば七緒が意欲的に協力をするべきなのだが、手続き上、七緒が介入できる余地はあまりにも少ない。


 そんな事実に対する罪悪感を声に滲ませると、雪子は飄々と演じてみせる。


「言ったでしょ、私自身があの子達の味方になりたいと思ったから頑張ってるの」

「……そうね。うん、じゃあ、お礼じゃなくて労い。この席は私が出すから」

「それも別にいい――けど、それも拒んだら君は五月蠅そうだから、それで」

「あら、流石に私のことはよく分かってるわね」


 七緒が頬杖を突いてニヤリと笑うと、「何年来の付き合いですか」と雪子は苦笑。それから彼女は、厨房から聞こえるカラカラとグラスをかき混ぜる氷の音を一瞥して、話を変える。


「それより、聞いた? あの二人、今日から二泊三日の旅行だってさ」

「聞いた? って何よ、後見人の貴女経由で私が聞くのが正規のフローでしょ」

「いやいや、もう実質的に保護者は美琴さんだよ。あの人、張り切ってるから」

「……最初に話が来た時は、あんな底抜けに良い人だとは思わなかったわ。悪い事した」

「だから『色々考えて話を持ってきた』って言ったじゃん。まあ、気持ちは分かるけどね。大丈夫、向こうも水鳥ちゃんのご両親の件を承知で、その対応も予想してたから」

「まあ、それはそれとして、今度どこかご馳走でもしようと思うわ。凄く仕事ができるみたいだし、個人的に色々と話も訊いてみたいから」


 若くして渡米したかと思えば、今度は日本支部長を任されて帰国した女傑だ。それに配信業にも関与しているということで、勿論、守秘義務には細心の注意を払う必要はあるが、お互いにそこには踏み込まないようにして、仕事のマインドなど話し合える部分は多いだろう。


 ――なんて期待をしていると、ジト、と珍しく湿った雪子の目が七緒を貫く。


「……何よ」


 七緒が眉を顰めると、頬杖を突いた雪子は子供っぽく唇を尖らせてそっぽを向く。


「別にぃ? 美琴さんには凄く気を許してるんだなって」

「……あのね、私と美琴さんはそういうのじゃない。もっと大人の関係なの」

「大人の関係⁉」

「ぐっ、言葉選びが最悪だったわ。そうじゃなくて、こう……色っぽいのじゃなくて」


 そんなやり取りをしていると、「お待たせしました」とプリンアラモードとアイスティーが到着。二人は一旦口論を置いておいて会釈とお礼を伝えながらそれを受け取る。そして、七緒がアイスコーヒーを一口飲むのと同時、先ずは雪子もアイスティーを一口。結露が輪を作る。


「それよりさ、話は戻して。あの二人は三日間配信しないみたいだけど、大丈夫なの?」


 雪子が話題を変えてくれるので、七緒も素直にそれに乗っかる。乗っかりつつ――雪子がまだ手を付けていないプリンアラモードのスプーンを奪って、勝手に一口。


「んぐ……美味しいわね、これ。それで? 大丈夫って何が?」

「……ほんとだ、卵のコクが深いね。ほら、アレ。恋愛沙汰というか」

「ああ、二人の関係性を邪推されるんじゃないかって?」

「邪推っていうか事実だと思うけど、まあ、そういうことだよね」


 雪子は背もたれに寄り掛かりながら、片手でプリンにスプーンを刺す。


「直近では胡桃沢ちゃんの件でコラボしたし、紅音ちゃんは甘党あずきのファンだって公言してる。そこに加えて紅音ちゃんは精神疾患の勉強会なんてのをやってたし、加えて今回だもの」


 七緒は遠い目でアイスコーヒーを一口。――実際、推理する材料は揃いつつある。


 とはいえ、確たる証拠は出ていないし、確たる証拠を出さない程度には、二人の振る舞いは中々リスクヘッジができている。それに、同性同士というのも肝だ。割合をそのまま額面通りに受け取ると、それぞれの恋愛沙汰にアンテナを張っているのは九割が異性。すると、必然的にその層は異性の面影を探ろうとする。性的少数を都合の良い隠れ蓑にしている点を自覚すれば、あの二人はそれを好ましく思わないかもしれないが、事務所的には都合が良い。


「別に事務所として色恋は禁止してないし、穂積さんは知っての通り恋人が居ることを公言してるし、定期的にガチ恋勢の脳を焼いてる。若菜さんも色恋営業はしてないから、そういう層も多くはない。それに――大抵は異性のファンだから。あんまりこういうことを言うべきじゃないんだろうけど、同性の恋人の発覚は『競争に負けた』のではなく『そもそも土俵に立っていなかった』って事実の認識だから、あんまり燃えにくいと思う」


 「はへー」と雪子は気の抜けた生返事を出しながらパクパクとプリンアラモードを食べている。この女は、話を振っておいて聞く気があるのだろうか。七緒が冷たい目で睨み付けると、「食べたいの?」と雪子はヘラヘラと笑う。ので、七緒は彼女に向けて口を開ける。


 すると、動きを強張らせた雪子は瞬きを繰り返して七緒とスプーンを見比べる。何を今更、さっきも間接キスを気にしていなかっただろうに、と見ていると、雪子は恐る恐るプリンを掬って七緒の口に差し出す。パクリと一口、七緒はその自然な甘味に舌鼓を打つ。


「……変な期待を持たせないでほしいのですが」


 変な汗を浮かべた雪子が不満を吐露するので、七緒は頬杖を突いて溜息を一つ。


 変な期待とは、即ちそういうことだろう。相変わらず自分のことが好きなのだろうか。


 よくもまあ、こんな不愛想で仕事もできない女に惚れるものだと呆れた七緒は、試しに一つ、以前から気になっていたことを訊いてみる。


「若菜さんの件でもう少し恩着せがましくされたら、私も折れてたかもしれないけど?」


 すると、雪子はむ、と唇を尖らせて言い返す。


「失敬な。水鳥ちゃんの件は君とは無関係に大事なことだったし、君をそんな風に振り向かせるのは私の主義に反するの。私のことを何だと思ってるのさ」

「うーん、酒カス?」

「こら、なんてことを言うんだ! 最近禁酒してたのに!」


 それは素直に偉い。七緒は口の中で褒めた後、溜息を吐いて頬杖を外す。


「まあ、そうね。ごめんなさい、貴女に失礼な発言だったわ」

「そうだとも。私はね、ヘラヘラしてるけど純愛主義なんです!」


 身振りと共に力説をされるので、七緒は「あ、そう」と冷めた返事をする。


 しかしながら――まあ、何だろうか。色々とあった。最初に若菜水鳥を守ると決めてから、どことなく落ち着かない日々を送ってきたが、それが先日、ようやく一段落ついたような感覚だった。開放感と、それから、目の前の後見人の尽力を感じながら、再度、溜息。


「――ちょっと、手、見せて。変なの付いてる」


 ふと、七緒は言いながら身振り手振りで振っていた雪子の右手を引っ張る。「へ? どこどこ?」と間抜けな声を上げながら自分の手をマジマジと見詰める雪子。七緒は、そんな彼女の視線を遮るように雪子の手を包むと、それをそのままテーブルに置いて、上に手を重ねた。


 頬杖を突きながら、すりすり、と、その手を撫でてみる。


 すると、雪子は現実を理解しかねたように瞬きを繰り返す。それから、酒を一気飲みでもしかたのように、あっという間に頬を紅潮させて声にならない声を絞り出した。そんな様が少しだけ可愛らしかったから、七緒は鼻で笑った後、指と指を絡めてやる。


「まあ、その……貴女は自分の意思で若菜さんの後見人になったって言ったけど。話を持っていったのは私だし、貴女の意思はさておいて、私は貴女に感謝をしてる。それに、物好きだなぁとは思うし、別に本気で応える気も今のところは無いけれど、貴女の好意も嫌じゃない」


 「だから」と真っ赤な顔で狼狽える雪子に、七緒は挑発的な笑みを向けた。


「明日の朝までなら、恋人になってあげる」


 パクパク、と酸素を求めるように口を開閉する雪子の様が可笑しくて、七緒は頬を綻ばせてしまう。すりすりと絡めていた指が徐々に強張っていき、熱く、汗ばんでいく。「あの」と辛うじて絞り出した雪子の声が震えていたので「なに」と七緒は揶揄うように言う。


「明日の朝まで、というと、その、夜は、ええと、その」


 しどろもどろな雪子に、七緒はついつい、意地悪をしたくなる。


「あら、わざわざ聞いちゃうの? そういう意味だと思い込んじゃえばいいのに」

「ご……合意は、大事と存じます」

「ヘタレ」


 七緒が目を細めて小馬鹿にしてやると、雪子は悔しそうにぐ、と目を瞑った。


 すると、反抗するように彼女の手が七緒の手を握り返し、一転して真剣な眼差しを送ってくる。七緒は少しだけ早くなった心臓を薄笑いで誤魔化しながら流し目を送る。


「あんまり退屈だったらすぐに忘れちゃうからね」

「わ……忘れられない一日にするから。絶対に」


 そう告げる雪子の表情が真剣だったので、本当に私のことが好きなんだなぁ、と七緒は満更でもない気持ちを抱きつつ、それを小悪魔な笑みで塗り潰した。


「そ、あんまり期待しないでおく」






 美琴と別れた紅音と水鳥は、最寄り駅から東京都内のターミナル駅まで向かうと、そこで予め席を購入しておいた新幹線に乗車した。お互いに中学校の修学旅行以来であり、扉を抜けて乗り込んだ瞬間、ここから旅行が始まったような感覚を楽しむ。


 三連休の昼前とはいえ、ゆっくり移動時間を楽しもうという水鳥の提案で選んだ各駅停車の新幹線は、想像していたよりも人の気配が少なかった。グリーン車ということもあるのだろう。見渡す限りは数人しか人の姿が見えず、しんと静まり返った空間に、若者の談笑と駅の雑音が入り乱れて、丁度、雑談をしやすい程度のBGMとなっていた。


 黒マスクにサングラスという如何にも胡散臭い格好の紅音は俯きながら、水鳥は堂々と、購入した座席に横並びに座る。水鳥が窓側で、紅音が通路側。着席するや否や、水鳥は窓に貼り付くように近付いて、その景色に感嘆の息をこぼす。


「綺麗――」

「まだ出発してないから」

「――に拭かれた窓」

「野生の窓フェチだったかぁ」


 勿論冗談である。早々に飽きた水鳥は、先程購入した駅弁を早々に取り出した。まだ時刻は昼飯よりも随分と早いが、待ちきれない様子でそわそわと開け始める。


「もう食べるの?」

「人生で一度でいいから、公共交通機関で食事を摂ってみたかったの」

「凄い部分に背徳感を覚えてるね。別にこれから何度でも機会はあるだろうに」

「何事も初めはワクワクするでしょ。紅音も食べよう」


 言われてみれば、紅音も駅弁なるものは初めてである。まだ朝ご飯が胃の中に残っているような気もするが、まあ、お菓子も大量に持ってきているし、いいだろう。苦笑しながら紅音も駅弁を取り出すと、乗車早々、昼前、まだ動く気配のない新幹線で駅弁を食べ始める少女二人組という、何とも奇怪な光景が繰り広げられることとなった。


 さて、人生初の駅弁を堪能している内に、定刻を迎えた新幹線は発車する。


 アナウンスを経て、新幹線が動き出した瞬間、水鳥は弁当を咀嚼したまま、今度こそ窓に貼り付くように景色を眺める。電車では思わず日常風景に組み込んでしまいそうな景色も、旅行で、高い金を払って乗った新幹線から見る景色になった途端、絶景に思えた。


 そうこうしている内に二人は駅弁を食べ終え、お菓子を出したりスマホを置いて映画の準備をしたりと、これから始まる長い旅路を満喫する姿勢を取る。


「楽しみだね、海。この時期だと少し冷たいのかな?」


 遠い目で窓の奥を見る水鳥がそう呟くので、紅音はもしや、と尋ねる。


「もしかしてだけど、海も初めて?」


 すると水鳥は「うん」と、軽々と頷いた。


「うお、リアル進撃の巨人だね――知ってる? 南極の海は塩じゃなくて砂糖が溶けてるの」

「相変わらず私でも分かるような嘘を吐くね」

「海の家って建築基準法の対象外だから、理論上は一億階建ても建てられるんだって!」

「今度は絶妙に嘘か分かりにくい嘘を吐くね。私以外に言っちゃ駄目だよ」


 そんな他愛のない談笑をしていると、ほんの数日前までの絶妙な空気感が嘘だったかのように感じられる。しかし、まだ少しだけ忘れられない胸の苦しみが、その記憶を真実だと語っている。けれども――これから、少しだけ離れた以上の距離を、縮めていけばいい。


「映画でも観ようか。何観る?」


 紅音がスマホスタンドに自分のそれを置いて、ワイヤレスイヤホンを取り出しながら気負いなく提案すると、水鳥も軽い調子で「うんとね」と、スマホに表示された映画をジッと見定める。その際、彼女は前のめりになって、手を座席に突いて。


 その時、二人の手が触れ合った。


 瞬間、静電気でも起きたかのように。或いは途端に磁性を帯びたかのように、バッと二人の手が反発する。紅音は目を丸くして触れられた手で胸を押さえ、水鳥は相変わらずの無表情で、けれどもその手を確かめるようにもう片方の手で撫でている。


 数秒の気まずい沈黙の中、きっと、お互いの脳に過るのはあの霊園での出来事。


 そして、水鳥の養子縁組についての話し合いで告げた、紅音のあの言葉。


 紅音は戸惑いから思わず顔を背けてしまうも、すぐ、水鳥の両手が紅音の顔を掴む。


 そして、困惑する紅音の顔をぐい、と無造作に自分の方を向けると「よし」と言って自分の手を差し出した。握れ、ということだろう。紅音は思わず、参ったと笑って手を返した。


 そして、今度はお互いに相手を求めて、手を握り合う。


 柔らかい手だった。そして、その手は紅音よりも少しだけ温かかった。


 紅音は一足早く夏を迎えたように火照った首筋を扇ぎながら、何気ない素振りで天井を見上げる。水鳥は言葉を求めて青空を眺め回した。


 しかし、いつまでもこの宙ぶらりんの関係を続けるのも何だか嫌だったので、紅音はふう、と溜息を一つ。そして、車内を見回し、最も近い客でも八席離れていることを確かめてから、抑えていた声量をもう一段階抑えて、こう切り出した。


「そういえば、その。何となーく慌ただしくて忘れてたんだけど」

「うん」

「こ、告白」

「うん」


 僅かも表情を変えずに相槌だけを繰り返す水鳥。紅音は苦しくなりながらも言い切る。


「返事をしたつもりなんだけど、その……つ、伝わってる?」


 養子縁組の件で最後に話し合いをしたあの日、紅音は水鳥を愛していると言った。


 状況から勘案すれば、その言葉は恋愛感情の告白と解釈できるはずだが――結局、あの日以降、慌ただしく色々なことをする必要があったので言及する暇が無かった。そうして今日を迎えてしまった訳だが、彼女はあの返事を、どう受け止めたか。そもそも、あれを告白の返事として解釈できたか――できたよな? だって、泣いたもんな?


 そんな風にビクビクと祈っていると、水鳥はあっけらかんと頷く。


「うん、伝わってるよ」


 そんなことを平然と言うので、紅音は胸を撫で下ろしつつ、恐る恐る質問を重ねた。


「……じゃあ、その、つ、付き合ってるの? 私達」


 すると、水鳥はコテンと首を傾げた。


「いや、愛の告白と交際の申し込みは別じゃない?」

「はい⁉」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまうと、車内の視線が幾つかこちらに向いた気がした。紅音はケホンと軽い咳払いをして会釈を繰り返して詫びた後、動揺を隠しきれずに訊く。


「じゃ、じゃあ交際は別口で申し込まないといけないの? 市役所か?」


 すると水鳥は変わらぬ真顔でこんなことを抜かした。


「冗談だよ」

「冗談かよ! 冗談を真顔で言わないでもらえますか」

「それも冗談?」

「ごめん、完全に頭からすっ飛んでた」


 目の前の彼女が感情豊かであるという認識が強すぎて、すっかり無表情の件が精神疾患によるものだと忘れていた。流石に申し訳なくなって詫びるも、水鳥は全く意に介した素振りも見せず、それどころか、心なしか柔らかい表情で紅音の顔を覗き込む。握っていた手を少しだけ離すと、薬指を繋ぎ直して、ニギニギ、と二回ほど力を込めた。


「ごめんね、私も養子縁組の色々で完全に頭から抜けてた」

「いや、そういうことなら全然……いいんだけど。返事が気になって」

「そうだよね、紅音も私のこと、好きなんだもんね」


 改めて言葉にされると恥ずかしくて、紅音は肘掛けで頬杖を突いて耳を赤くする。


 しかし、どうやら水鳥は頬の紅潮も出にくいのか、平然と紅音を見て断言した。


「私も紅音のことが大好きだよ。相思相愛だね」


 何だか脳がグツグツと茹で上がっているような熱気を感じながら、紅音は湯気でも出そうな顔を俯かせて呻く。やっぱり彼女は世界で一番可愛い。なんて思いながら。


「それで、どっちが付き合ってくださいって言う?」


 不意に水鳥がそんなことを確認してきた。紅音は真っ赤な顔で言い返す。


「結局告白は必要なんだ……なんかもう、別によくない? こう、自然に付き合う感じで」

「よくないよ。それじゃあ別れる時も自然解消することになっちゃうよ」

「なんで付き合う前に別れる時の話をするのかね、君は!」

「人が生まれた時に泣くのは、生まれた瞬間に死が確定するからなの」

「深いなぁ……要らない深さだ。市営プールが十メートルの深みを持ってる」


 紅音は溜息を吐くと、諸々の負い目を思い出して目を瞑る。


「分かった――まあ、散々待たせたし、散々振り回したから。私が言うよ」


 すると、それを期待していたらしい水鳥は「うん」と繋いでいた指を離して、両手を膝の上に。僅かに目を開けてそれを見た紅音は、それに倣って膝上に手を置いた。


 緊張に、ごくりと喉が動く。唾液の分泌が止まらない。手汗も止まらない。どこにそんな水分があったのかと訊きたくなるほど変な汗も出てきて、その癖、心臓は有り余る血液を体中に巡らせるために忙しなく動き回っている。顔が熱い。機関車トーマスに出てきたら、顔を合わせた機関車が赤信号と誤認して止まってしまいそうなくらいに、真っ赤だ。


 本当に、どうしてこんな目にと内心で愚痴を言いながら、紅音はもう一度唾を呑む。


 そして、弾みを付けるように深呼吸をすると、水鳥の顔を見上げて、囁いた。




「貴女が好きです。私と交際してください」




 答えが約束されていても、それでも緊張はするもので――しかし、相思相愛で最愛の彼女は、全く緊張する素振りも見せずに膝上に置いた手を伸ばし、紅音の手を握り返す。


 すると、その手も少しだけ汗ばんでいた。存外に緊張していたらしい。


 しかし、それを表には出さず、水鳥は紅音の双眸をジッと見詰めて答えた。


「喜んで」


 紅音はぐっと目を瞑って思い切り息を吸うと、身体を丸めながらそれを吐き出した。


 やっと、ようやく、全ての憂慮が払拭された開放感に溜息が止まらない。どこにそんな空気があったのかという空気を大量に吐き出し、「よかったぁ」と呻いた。


「緊張してたんだ、可愛いね」


 などと、彼女が揶揄うようなことを言うので、紅音は不貞腐れた顔を上げる。


「人に言わせる側だったからって、呑気なもんだね」

「そんな風に言わないでよ。代わりに、キスは私からするから」


 後半の声をぐっと潜めて囁いた水鳥に、紅音は「へぁ?」と間抜けな声を出した。声は上擦ったが、それほど大きくなかったのは先程の反省を活かしてか。


 ――キス。それは接吻の意であり、愛情を示す為に唇を付ける行為を指す、この場合のキスとは恐らく、唇と唇のキスであり、間違ってもスズキ目スズキ亜目キス科の魚類ではない。


「しないの? やっと交際できたのに」


 水鳥は紅音の動揺の理由も分かっているだろうに、すっとぼけたように首を傾げる。


「やっ、やっと交際できたけど……それはそれとして、心の準備というか場所というか」

「大丈夫、誰も見てないよ。それに、心の準備が必要なら、今、して。私、この日に備えて勉強してきたんだから」


 水鳥は身構える時間を渡さないように、握った紅音の手を離さず、そのまま弄ぶようにニギニギと力を込めている。何だか遊ばれているような気がして仕方が無い。


「見てないとはいえ……流石に、白昼堂々は気が引けるんだけど」


 尚も紅音が食い下がると、水鳥は「そう?」と虚空を凝視した後、妙案を閃いたようにパッと紅音の手を離す。何だか嫌な予感がしていると、彼女は旅行道具が大量に入ってパンパンになっているリュックから、どうにかバスタオルを一枚、取り出した。


 まさか、と紅音が思っていると、彼女はそれをふわりと紅音の頭に掛ける。そして、その中に自分も入ると、暗幕の薄い暗闇の中、彼女の琥珀色の瞳が爛々と獲物を見ていた。


「何だかいけないことをしてるみたい」


 平坦な声がそんな冗談を言うので、紅音は覚悟を決めながら「してるんだよ」と返す。


「それじゃあ毒を食らわば皿まで、だね――目、瞑って。恥ずかしいから」


 彼女の羞恥心はどこにあるというのか。紅音はツッコみたくなる気持ちを堪え、目を瞑る。


 新幹線の駆動音。隣の通路を誰かが歩いてこないか心配になりながら、紅音はバクバクと跳ねる心臓の音に紛れて、水鳥の呼吸音を聞く。そして、呼吸音を介して、彼女の激しい鼓動の音も聞いた。熱い吐息がバスタオルの中で交錯する中、紅音は熱に浮かされたように、水鳥を求めて、少しだけ顔を前に動かしてしまう。すると、「駄目、私がするの」と水鳥に怒られた。


 そして、次の瞬間。水鳥が紅音の肩と頭を強く抱き寄せ、唇と唇が触れ合った。


 紅音は、初めてのキスの感覚に眩暈を覚えた。気絶しそうになる。粘膜という、人間が基本的には他者に見せない部分を、擦り合わせて、唾液と体温を交換し、愛情を与え合う行為が倒錯的でない訳がない。必然、紅音は思わず舌を出してしまい、それに水鳥の舌が応えた。


 酸欠になりそうなほどの口づけをバスタオルの中で交わした後、流石に息苦しくなった二人は、示し合わせたように唇を離す。そして、バスタオルがはらりと二人の間に落ちた。


 紅音は真っ赤な顔で息を乱しながら、首に貼り付いた髪を払いつつ周囲を確かめる。幸いにも、誰にも見られていない。水鳥は唇の端の唾液をハンカチで拭うと、言った。


「続きはホテルだね」


 今晩のことだろう。紅音は一気に煽られてしまった自分の期待が何とも情けなく思えて、真っ赤な顔を覆いながら「私は、もう駄目かもしれない」と呻き声を上げる。元々はVtuberのファンだったはずなのに、気付けばその中の人に、すっかり惚れ込んでしまった。


 更に元を辿れば、配信業で二億円を稼いで、早々に労働から脱却したかったというだけなのに。それが転じてVtuberのルームメイトになって、その人に惚れて。


 しかし、水鳥はそんな紅音と腕を組むと、肩に頭を乗せて上目遣いに見た。


「何が駄目なの?」

「君が好きすぎて駄目なの!」

「おお、惚気だ。配信で言ってもいいからね」


 『恋人と同棲している』なんていう魔除けの設定を思い出し、紅音は目を瞑って唸る。


「あーあ……全部嘘のはずだったのになぁ」


 紅音が満更でもない顔で呟くと、水鳥は腕を組んだまま、その手をそっと握る。


 最初は、薬指を繋ごうとした。けれども何かを思い直したように、手を握る。『もしも、どう言語化していいか分からない感情があったら、その時は指じゃなくて手を握って』と、丁度、その言葉を思い出した紅音に、水鳥は囁くようにしてこう尋ねた。


「ねえ紅音」


 紅音は自然と優しくなってしまう声で相槌を打った。


「うん?」

「今の私の気持ち、分かる?」

「面倒くさい彼女みたい」


 紅音が犬歯を覗かせて目を細めると、水鳥は無言で紅音の中指を中指で締め上げる。


 「痛い痛い、ごめんなさい!」と素直に謝れば、何とか、中指は解放された。


 やれやれ、と紅音はだらしなく頬を緩めながら、肩に頭を預ける最愛の人を見た。何度見ても、表情は出会った時から変わらずに真顔だ。無表情で、見る人が見れば不機嫌に見えるかもしれない。けれども、パンパンに要らないものまで詰まったリュックを足下に置いて、バスタオルを被ってまでキスをしようとして。腕を組んで、手を握って。


 本当に、彼女は彼女が思っているよりもずっと、分かりやすくて魅力的な女の子だ。


「――浮かれてる」


 1+1を訪ねるような算数の問題に、呆れながら2を書き込むような。正答であるか否かを聞くまでもない回答を、紅音は笑顔で言ってみる。


 すると、ほんの少しだけ、水鳥の表情が緩んだような気がした。


正解せーかい




――了

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