アメリカンコーヒー

甲斐遼太

第1話/全1話

 夜は好きだけど、嫌いだ。

 夜の東京から隠れるために、昼間のように騒がしく眩しい大通りから細い路地に抜ける。

 ざらざらとした耳障りな喧騒から逃げ出すために、イヤホンの音量を上げる。

 ちくちくとした目障りな街光から身を守るために、目を強く瞑る。

 それでも歩みは止めない。

 何度も何度も通った路地裏だ。耳を塞いでいても、目を閉じていても、不安はない。

 イヤホンの向こうから聞こえてくる都会の雑音と、瞼の上から透けて見える下品な街明かりがなくなって、だいたい三十秒。かたかたという小さな機械音が右耳に、ほのかな白い光が瞼を通して右目に届き始める。

 音と光が真横に来るまで歩いて、ようやくイヤホンを外し目を開ける。

 そこにあるのは、古びた自動販売機だ。

 財布から二百円を取り出し、入れる。古い型だから電子決済は対応していない。

 買うのはいつも決まっている。一番下の一番右。ブラックのホットコーヒーだ。

 お釣りとコーヒーを取り出し、自販機の横の壁にもたれる。

 プルタブを引く。ぷしゅっという音とともに、香りが広がる。

 中身を口に含む。舌の上でちょっとの間だけ転がして、深い苦みが鼻に抜けるのと同時に飲み込む。まだ少し冷える春の夜には、ホットコーヒーの温かさが心地よかった。

 でも、やっぱり、まだ。

「にがい、な」

 いつまで経っても慣れることのない苦みは、今日からちょうど三年前、卒業を控えた中学三年生の春の、はじめてこの自動販売機でコーヒーを買ったあの日のことを否応なく思い出させる。


 *


「知ってる? アメリカンコーヒーって和製英語だから、アメリカに行ってアメリカンコーヒーって言っても伝わらないんだって」

 詩奈は細く暗い路地裏にあった自動販売機でホットコーヒ―を買いながら、そんな雑学を披露した。古い自販機だ。内部からかたかたという音が鳴っている。

「俊太はどれにする?」

「自分で買うよ」

「ううん、こんな変なところまで付き合ってもらっちゃったお礼だから」

 頑なに奢ろうとする詩奈を説得するのも面倒で、適当に答える。

「……同じやつで」

「はーい」

 がたん。詩奈が軽くかがんで、二本のホットコーヒーを取り出す。片方を受け取って、プルタブを引く。鼻を刺激するコーヒー特有の苦い香りに、小さく顔をしかめる。

「苦いの嫌いなの? ほかのやつにすればよかったのに。もう一個は買ってあげませーん」

「別に嫌いじゃない。それで、なんでこんな変なところに連れてきたんだ」

 あ、話逸らしたー、図星なんだーという詩奈の声は無視して、コーヒーをひとくち飲む。顔をしかめないように注意した。

 にまにまとこちらを見ていた詩奈も、プルタブを引いて口をつける。そして狭く暗い路地裏の夜空を見上げる。

「なにか用があるわけじゃないんだ。こうやって、東京のど真ん中の静かな路地裏で、俊太とコーヒーでも飲みながら話していたいなって」

「なんだそれ」

「ふふ、自分でもわかんない」

 詩奈は普段からこういうやつだった。よくわからないことを言ってよくわからないことをする、明るい女の子だった。彼女といれば、悲しいこともつらいこともちょっとだけ和らぐような気がする、そんな素敵な女の子だった。

 詩奈はふうっと大きく息を吐くと、空を見上げたまま話し始めた。

「私ね、はやく大人になりたいんだ」

 詩奈は、明るい女の子だった。だから、大人になりたいと言った詩奈の表情を見て、俺は衝撃を受けた。

 詩奈は、皮肉めいた、諦めのにじんだような笑みを浮かべていた。

「はやく大人になりたいって、ずっと思ってた。みんなとばかみたいに騒いで過ごす毎日は楽しいけど、どこかずっと不安を感じてた」

 学校での詩奈は、男子も女子も関係なく全員から好かれていた。授業中も休み時間も関係なく彼女はクラスの中心人物だった。ちょっとやりすぎて先生に叱られているときも、どこか楽しげだった。先生たちすらも詩奈のことを悪く思ってはいなかったのだろう。それくらい、彼女は完璧だった。

 そんな詩奈が、不安を感じていたなんて、俺には信じられなかった。

「こうやってどんちゃん騒ぎして過ごせる時間は限られてる。それがわかっていたから、私はずっと不安だった。こんなになかよしになれたのに、みんなとはいつかきっと離れ離れになっちゃう。それがわかっていたから、私は不安だった」

 自販機は相変わらずかたかたと音を立てている。夜の東京の喧騒は、耳を澄ましても聞こえてこない。静かな春の夜の空気が、ふたりと古びた自動販売機を包んでいる。

「だから、私は大人になりたかった。ばか騒ぎを楽しいと思わないような成長した大人になれば、お別れをさびしいと思わなくて済むと思ったから。お別れの不安なんて飲み込んでしまえるような大人になれば、不安なんて無視してみんなとの時間を心から楽しめると思ったから。でもね、なれなかった」

 ちびちびとコーヒーを飲みながら、詩奈の告白は続く。

「結局私が大人になるよりも前に、みんなとのお別れが来てしまった。それで、なんだか俊太に話を聞いてほしくなって、連れてきたんだ」

 またふうっとひとつ息を吐いた詩奈は缶コーヒーを傾けると、目尻に諦めの香りを残したまま、それでもこちらに笑いかけて言った。

「それで、俊太はどう思う?」

 詩奈に比べてだいぶ減りが遅いはずの缶の中身を少しでも減らすためにコーヒーを煽り、考え込みながら俺は口を開いた。

「詩奈は、大人だなって、感じた」

「その心は?」

「俺が思う大人は、未来から目を逸らさない存在だ。将来どんなにつらいことが待っていようとも、そのことを正面から受け止めて、何かしらの対処法を探す。そんな存在が、俺は大人なんだと思う。詩奈は、卒業して仲の良い友達と離れ離れになるのが嫌だったから、その対処法として大人になることを選択した。この行動は、俺には大人な行動に思えるよ」

「なかなか嬉しいことを言ってくれるじゃないですか」

 そう言った詩奈は、しかし言葉とは裏腹に、嬉しそうな表情ではなかった。

「俺は、大人にはなりたくないと思って生きてきた。責任を背負わず気楽に生きていられる子どもの時代が、できるだけ長く続けばいいと思っている。これは、将来から逃げ出そうとしているってこと。だから、俺は、大人じゃないんだと思う。将来と真摯に向き合おうとした詩奈は、俺に比べればずっと大人だよ」

 詩奈は飲み干した缶を自販機の横のボックスに捨て、こちらに向き直る。真顔だった。

「私はね、俊太みたいな大人になりたいと思ってた」

「どういう意味」

「頭の回転が速くて、私みたいなトラブルメーカーにも冷静に接してくれて、どんなことが起きても動じない懐の深さがある、そんな俊太みたいな、かっこいい大人になりたかった。でも、俊太は、自分を大人とは思ってなかったんだね」


 *


 詩奈とは、あれから一度も会っていない。

 仲違いとも言えないようなささいなすれ違いを起こした会話のあと、俺たちはばらばらに帰路につき、翌日の卒業式でも話すことはなかった。送ったメッセージには既読がつかなかった。

 別の高校に進学してからは連絡する理由も言い訳も思いつかなかった。それでも未練がましく、俺は例の自販機に通うようになった。

 夜の繁華街から逃げ出すように路地裏に入り、古い自動販売機でコーヒーを買って飲む。これがいつの間にか習慣になっていた。

 別に、ここに来れば詩奈に会えるのではとか、そんなことを思っていたのではない。なんとなく、この場所に来れば大人になれると、根拠のない漠然としたことを考えていただけだ。

 高校の卒業式を終えて数日経った今日も、結局好きになれなかったブラックコーヒーを顔をしかめながらなんとか飲み干して、いつものようにボックスに投げ捨てる。

 ふと、足音が聞こえるのに気づく。

 この場所で自販機のかたかたという音以外が聞こえるのは久しぶりだ。それこそ、詩奈の声を聞いて以来だろうか。

 足音のする方を見る。よく見知ったような、でもなんとなくここ数年は見ていなかったような、そんな姿の人間がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

 その人間は、俺の正面に立って、こう言った。

「大人になりたくないと騒いでいたコーヒーも飲めない少年は、ちゃんと大人になれたかい?」

 相変わらずのふざけた口調に苦笑しながら、思う。

 夜は苦い記憶を思い起こさせるから、嫌いだ。でも、悪いことだけじゃなくて、良いことが起きるのも、決まって夜の気がする。だから。

 夜は、嫌いだけど、大好きだ。

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