第3章 「倫理の審問(モラーリタス)」 2話
ルミナ・アークトゥルスの冷たく鋭い瞳はずっと私を捉えている。
私は何から話せばいいかわからず、長い沈黙の代わりに雨音が作戦会議室を支配していた。
何か話さねばならない。
彼女の倫理の天秤は容赦なく傾く。
それはもう目の前まで迫っている。
「まず論理的な逃避とはどういう意味ですか?」
私は攻撃的になりそうな声色を必死で抑えた。
「カイン・アリスト。あなたは聖団の教義を知っていますか?」
「正確には知りませんが、『未来を生きることを祈ること』くらいに解釈しています」
「概ね正解です。『未来を生きる意志』を持つことが聖団の教義です」
あまり違いがないように感じる。
私は顔をしかめて意味を考えようとしたがすぐに答えが明かされた。
「『祈ること』よりも『意志を持つ』ことに価値があるのです。祈りが形骸化してはいけない」
「祈ることで意志が存在することを確認するのですね?」
「そうです。ただ祈るだけでは不十分です。未来を生きる意志を感じ取ることが重要なのです」
なるほど。聖団の信仰心というのはいわば希望を願う心そのものというわけか。
その心の動きを日々感じるために祈りを捧げるのだろう。
「聖団の教義は理解しました。しかし論理的な逃避に繋がる理由が曖昧でわかりません」
「あなたの論理は誰かを守れますか?」
ルミナ・アークトゥルスの瞳は未だ私を捉え続けている。
鋭く、私に審判を下すように細部まで見つめている。
けれど『誰かを守れますか?』という声は少しだけ悲しい声に聞こえた。
その悲しさの正体が気になったが今はそれどころではない。
私は目の前の問いに意識を戻した。
私の論理は誰かを守れるだろうか?
『透明な亡霊』の時と同じように犠牲者と瓦礫の山を作るだけではないのか?
心の中の泥が舞い上がるのを感じる。
そもそも研究所の術式は他人を守るようにデザインされていない。
なぜなら自分以外は不確定要素だから。
不安定なものを術式に持ち込めないから。
何よりその答えはもう既に出ているのだ。
恩師シグルド・クライヴが守れなかったことを知っているから。
術式を持たない人間ではアビスに対抗できないという論理が楔として私に打ち込まれている。
「私にはわかりません。私が知っているのは他人を守れない無力感だけです」
「それが答えです。論理では誰かを守れません。その事実から目を反らすことを逃避と言うのです」
私の心臓は重い雨音に共鳴するように軋んだ。ルミナの指摘は論理的に正しい。
術式を持たない人間ではアビスに対抗できない。
誰かを守れないという事実から目を背けてはいけない。
私の心は完全に濁っていた。
目を背けることができない事実を目の前にして私は大きく息を吐きながら俯いた。
論理では誰かを守れない。
というか私は誰かを守りたかったのだろうか?
師匠は間違いなく守ろうとした。
しかし私はどうだ?
誰かを守るために研究所から飛び出したのか?
それともただ師匠の背中を追っていただけだろうか?
今まで正確に定義をしてこなかった。
漠然と誰かを守るためには研究所の硬直した論理では駄目だと思っていた。
根本的な解決ができないと思ったのだ。
そうだ。
根本的な解決をすることが目標のはずだ。
私の目標はアビスを根絶するか、誰でも絶望に抗えるような『システム』を作ることだ。
ただ私が誰かを守り、戦うだけでは不十分だ。
それでは今までと何も変わらない。
目の前のことで手一杯になるだけだ。
それを伝えなければならない。
真っ直ぐに、私の『未来を生きる意志』を持つことを証明しなければならない。
私は息を吸い込みながら顔を上げた。
もう泥は沈んでいる。
水は澄み渡っている。
「確かに私が誰かを守ることはできません」
私は認めた。自分の限界と、論理の限界を。
しかし私は言葉を継ぐ。
「けれどどうやって絶望に抗い、希望を目指すかという道のりを示すことはできるはずです」
その瞬間ルミナ・アークトゥルスの青い瞳に、静かな炎のようなものが灯ったように感じた。
「その道のりを歩きやすくするのが論理です。私自身は誰も救えないかもしれませんが、私の残す論理が誰かを救います」
この答えが正解なのかはわからない。
結局救えない誰かがいることには変わりない。
絶望に飲まれてしまう責任を私自身が背負わず逃げているだけかもしれない。
けれど私は希望の道のりを歩く誰かが挫折するところを見たくはないのだ。
だから少しでも支えになるような論理を残しておきたいのだ。
「カイン・アリスト。あなたは守るのではなく、それぞれが絶望に抗うことが大切だと思っているのですね?」
「そうです。それぞれが抗うためにひとつの指標として論理を残すのです」
「それぞれの人が自らの意思で希望を目指すことをあなたは願っているのですね?」
彼女の視線はまだしっかりと私を捉えている。
しかしその瞳は先程までの冷たいものではなかった。
「はい。その意思が砕けないように論理で支えるのです」
私のその一言で初めて彼女は視線を落とし、静かに深く息を吐いた。
今初めて言葉にして思った。
私は論理だけの世界に生きてきた。
しかし論理は世界や人の中心にあるものではないのかもしれない。
論理は世界や人を支えるのが本当の役割で、本質は違うのかもしれない。
私はただ論理以外の世界を知らないだけかもしれない。
「カイン様。あなたは『未来を生きる意志』を持っています。それが生きることだと知っているのですね」
「私は『未来を生きる意志』を正確に理解はできていません。けれど誰もが幸福であれるよう願っています」
その言葉を聞いたアークトゥルス助祭は少しだけ表情を柔らかくした。
鋭かった目が温かみを取り戻したように感じる。
どうやら倫理の天秤は傾いたようだ。
アルモニコ司教が厳粛な対話の決着を見届けたように深く頷いた。
「カイン君。我々は同じ目的地を目指し、違う道のりにいる。しかし目的地を目指す意志は同じ出発地から来ていると私は思う」
そうかもしれない。
私は私の希望を願う心をちゃんと見れていないかもしれない。
というか前提として当たり前にそこに存在していたがゆえに意識できていなかった。
「だから君はこの先どれだけの絶望があっても『未来を生きる意志』を捨てないで欲しい」
「もちろんです。むしろ私は私の進む道を失ってしまうことが恐ろしいです。生きていけないほどに」
私の旅は新たな道を探す旅なのかもしれない。
そしてこれはそれを諦めない宣誓かもしれない。
「だから私は『未来を生きる意志』を捨てません。それは私の道のりを照らす光です」
それを聞いたアルモニコ司教は優しく微笑み、アークトゥルス助祭は控えめに微笑んだ。
「では、ユーリ・ラプラスの所在地について話そう」
アルモニコ司教が仕切り直すように声を発した。
しかし私はそれよりも先に伝えなければならないことがある。
この先の信頼を失ってしまわないために。
先に話すべきだと感じた。
「その前にひとつよろしいですか?」
二人は少し驚いたような不思議な顔をしていた。
「私の術式についてお話しておきたいです」
研究所で異端とされる【論理の保留(アポリア)】と【結論の楔(アポデーシス)】は彼らの目にはどう映るだろうか?
彼らの信頼を踏みにじってしまわないだろうか?
私自身、私の術式に倫理的な問題があるのはわかっている。
だからこそ今話さねばならない。
私に向けられた痛みのない視線が余計に私の心を突き刺し痛かった。
「もちろんです、カイン君」
アルモニコ司教は、その優しげな笑みを崩さずに言った。
「君がそうしたいと思うなら、どうぞ話してくれたまえ」
アークトゥルス助祭も無言で静かに頷いた。
私は大きく息を吐き、静かに、しかし決然と口を開いた。
「私の術式は研究所で異端とされた二つの論理に基づいています。一つは【論理の保留(アポリア)】、そしてもう一つが【結論の楔(アポデーシス)】です」
私が二つの術式の名前を告げた瞬間、アルモニコ司教の柔和な笑みが微かに固まり、アークトゥルス助祭の穏やかな視線に再び鋭い緊張が走ったのを私は見逃さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます