第3章 「倫理の審問(モラーリタス)」 1話

翌日私は倦怠感を感じながら目を覚ました。


3日分の疲労が抜けていないのだろう。

腰痛と下半身の強張りが気になって、少し顔をしかめた。


3日間座りっぱなしで目だけを動かすというのは意外と過酷だ。

座りっぱなしで研究するのには慣れているけれど、いつも研究を終わらせるより終わった後の方が大変だと思う。


数日間は身体的な異常が気になるし、生活のリズムを取り戻すのにも時間がかかる。

本当は計画的にやるべきなのだろうけど、私は計画性をもって取り組むことに向いていないようだ。


もちろん今日も例外ではなく、起きたばかりなのに強い眠気に襲われ、身体中が軋んでいる。

本当はこのまま眠っていたかったがそうもいかない。


今日は朝方から教会で作戦会議がある。


離教した司祭の追跡とゼノン・プロクルスの著書奪還。

もう少しで真実が知れるのだ。


私は意を決して体を起こした。


まだぼやけている思考と強張った体で服を着て宿を出る。

宿を出てすぐに空を見上げると、昨夜の夜空とは違い空は曇っていた。


よく見れば遠くの山岳には黒色の大きな雲が冠している。

今日の午後は大雨かもしれないな。


雨は降っていなかったが何となくフードを被って教会に向かった。


教会まで続く大通りはいつも人が溢れており、活気のある印象だったが、今日は天候のせいかいつもより人通りが少ない。

少し歩けばぶつかってしまうような賑わいもなく、私は通りの端をぼんやりと思考しながら歩いた。


そういえば司祭はなぜゼノン・プロクルスの著書を持ち去ったのだろう?


重要な情報が書かれているのは確かだが、わざわざそれだけ持ち去るのは違和感がある。

衝動的に持ち去っただけなのか、それとも重要なものだけを選んで持ち去ったのかどちらだろう?


計画的に離教したのならばよほど重大な事実が書かれていたに違いない。

司祭では知ることのできない聖団が秘匿している内容が記されていたと思われる。


しかしわざわざ離教する際に持ち去るのはなぜだろう?


聖団から離れるのに聖団の情報を持ち去るとしたらそれなりの理由があるはずだ。

たとえばその情報を誰かに売り渡すなどの可能性がある。


だとすればその情報を渡したいのは誰だ?


私はだんだん思考にまとまりが失くなってきたので、一度深呼吸して要点をまとめることにした。


司祭が持ち去ったのはゼノン・プロクルスの著書の一部であること。

そしてそれは聖団外部でも有用な情報だということ。

もしくは感情的な報復活動の可能性もある。


どちらにせよこれらはアルモニコ司教に聞いてみなければわからない。


司祭の人物像や日頃の様子もまだ聞いていない。

それらの情報を得てから推論した方がよいだろう。


私は曇り空の下、思考を整理しながら教会に向け歩き続けた。


教会が近づくにつれ、人通りはまばらになったが、教会正面の広場に差し掛かると、そこにはすでにアルモニコ司教の姿が見えた。


司教は私を見つけると、柔和な笑みを浮かべ、フードを被った私に軽く手を上げた。

その姿は、私の中に残る研究所のヘイゼン・ヴァリウス議長の硬質な威圧感とは対極にある。


「おはようございます」


「おはようカイン君。よく眠れたかい?」


「ゆっくりとはいきませんが十分です」


私はフードを脱ぎながら曖昧に返事をした。

アルモニコ司教は自然な流れで私の右側に立ち、肩を並べながら歩き出した。


「そういえばアークトゥルス助祭はどちらに?」


「彼女は既に中で用意してくれているよ」


「そうですか。待たせてしまって申し訳ない」


「いやゆっくりと確実に進んでいこう」


そうだ。私は急ぎすぎている。

目の前のことで手一杯になって、次へ次へと無計画に進んでいる。


はやる気持ちも当然あるだろうがここから先、何が起こるかわからない。

もう一度落ち着いて歩みを進めるべきだ。


司教がゆっくりと扉を開き、それに続いて部屋に入った。


部屋の真ん中には大きなテーブルがあり、その上には既に必要な書類が綺麗に並べられていた。

それを見て改めてアークトゥルス助祭に丁寧で真面目な印象を感じる。


アークトゥルス助祭は堅い木の椅子の背もたれに触れないように綺麗な姿勢で座っている。

その横顔や姿はまるで絵画の一部を切り取ったかのように美しかった。


「おはようございます」


アークトゥルス助祭がこちらに顔を向けた。

その瞬間に目が合い、なんとなく気まずくて私は目線を反らした。

それと同時に癖で改めて助祭のことを観察してしまった。


純白のローブはアルモニコ司教とは違い装飾がほとんどされておらず、左胸の鎖骨の下辺りに聖団のシンボルマークのようなものが縫い付けられている。


昨日と同様に長く柔らかな金髪は、ただ単にまとめられているのではなく、一本の乱れもなく、結び目が硬い円錐形を描くほど厳格に結い上げられている。


その正確さは好感を持てる要素であるはずなのだが私は居心地が悪い。


なぜなら助祭からの視線を感じ続けているからだ。

彼女も私を観察している。


けれどそれは外見を観察しているわけではない。

私の内面を推し量っているのだ。

私はそれに居心地の悪さを感じているのだ。


私の術式と同様のことを彼女は今この瞬間行っている。

だがそれは知るためではなく、見定めるために。

今私は彼女の天秤に架けられている。


「さあ、作戦会議を始めよう。カイン君も座りたまえ」


アルモニコ司教が私の座る椅子を引いて示してくれた。

さきほどより声が大きく感じたのは雰囲気を柔らかくするために気を使ってくれたのだろう。


「まずは離教した司祭の外見や術式などの特徴を説明していこう。アークトゥルス助祭、進行をお願いする」


「かしこまりました。離教した司祭は男性で、名前はユーリ・ラプラス。年齢は現在38歳で、当時の外見は短く刈り込まれた黒髪で、銀縁の眼鏡をかけていました。体格は細身で神経質そうでシャープな印象を与えます。また眼鏡をかけていることからわかるとおり目が悪く、灰色の鋭い目が特徴的です」


私は慌ててメモを取り始めた。

言われたことをざっくりとメモに書き出してなんとなくイメージしてみる。


イメージがどれだけ似ているかはわからないが想像したユーリ・ラプラスのイメージはあまり聖職者ぽくなかった。

どちらかというと研究所の研究員のような印象がある。


「続いてユーリ・ラプラスの術式ですが、細い光の光線を指先から打ち出す術式で、反動は少ないですが貫通力と速射性、連射性に優れており、詠唱を必要としないスピード感のある術式です。術式を使っている間は胸元に下げているネックレスを右手で握りながら、左手の人差し指から光線を打ち出します」


実に合理的な術式だ。

本当に聖団の聖職者か疑いたくなるほどに。

しかしそんなユーリにも唯一聖職者らしい部分が残されている。


「右手でネックレス握っているのには何か信仰的な意味があるのでしょうか?そのネックレスは術式に関与しているのでしょうか?」


「このネックレスを握るという行動は詠唱を省略するための補填的動作だと思われます。これは信仰心を示すための詠唱を破棄し、その他の動作で信仰心を表しているためだと考えられます」


「なるほど。聖団の術式を展開するには信仰心を示すという引き金が必要なのですね」


「そうです。一般的には詠唱をし、それから術式を展開する流れが多いです。しかし詠唱を破棄する手段はいくつもあります」


「ユーリはかなり戦闘に慣れている印象があります。とくに術式の合理性が高いですが、彼は聖団でどんな立ち位置だったのでしょう?」


「それは私から説明しよう」


ここまで静かだったアルモニコ司教が口を開いた。


「ユーリはカイン君の指摘通り戦闘に慣れている。彼はアンフィニの防衛隊の隊長で、最もアビス戦闘に従事していた。しかし5年前ゼノン・プロクルスの著書を見てから変わったのだ」


「変わった?」


「ユーリは厳格で理知的な男だった。しかしゼノン・プロクルスの著書を見てから拍車がかかり、術式の合理化に固執するようになり、その結果詠唱破棄の手段を見つけた」


「ゼノン・プロクルスの著書が切っ掛けになり合理性に執着したということですか?」


「そうだ。そして約1年後ゼノン・プロクルスの著書と一緒に行方を眩ましてしまったのだ」


ますます謎が深まってしまった。


なぜユーリ・ラプラスは合理化に固執したのだろうか?

ゼノン・プロクルスの著書には何が書いてあったのだろうか?


私が口元に手を当てて考え込もうとした時にアークトゥルス助祭が口を開いた。


「カイン様。ユーリ・ラプラスはゼノン・プロクルスの著書により合理化という名の『論理的な逃避』を選び、最後に『背信』に至りました」


論理的な逃避?


私は混乱した。


つい反論しそうになったが、アークトゥルス助祭の青い瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。

それを見て思わず口を噤んでしまう。


「あなたは論理を使えない者がいる時どうやって彼らを守りますか?論理ではどうにもできない絶望がある時どうしますか?」


アークトゥルス助祭の声は静かだったが真っ直ぐ私を突き刺している。


「あなたは、どうやって絶望に抗いますか?」


ああ、私は試されている。

彼女が持つ倫理の天秤に乗せられている。


私はどうやって戦うのだろう、

どうやって守るのだろう。


すぐには答えられず視線が泳ぐ。


ふと目に入ったアークトゥルス助祭の背後にある窓には数滴の雨粒が着いており、遠くにあったはずの黒い雲はもうアンフィニを覆っていた。


もう間もなくアンフィニに大粒の雨が降るだろう。

外から、最初の一粒か、二粒か。

大粒の雨が、教会の窓ガラスを重い音を立てて叩いた。

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