第3章 「倫理の審問(モラーリタス)」 3話

落雷に打たれたようだ。

温かみを取り戻した作戦会議室にまた緊張感が漂う。


「アポリアとアポデーシスとはどんな術式ですか?」


アークトゥルス助祭がやや前のめりになりながら聞く。

その瞳に戻った鋭さが痛い。


「一つずつ詳細まで話します。まずはアポリアから」


私は一度椅子に座り直し、背筋を伸ばした。


「アポリアは対象の思考や感覚に直接触れる術式です。展開している間私は一切の物理的干渉を受けませんが、対象の精神的干渉を受け続けます」


私は背筋に冷たいものを感じた。

作戦会議室の空気が明らかに変わった。


これはただの驚きだろうか?

それとも倫理的な逸脱に対する軽蔑なのだろうか?


「アポデーシスはアポリアで知った対象の持つ価値観に、私の論理を物理的な楔として撃ち込む術式です。対象がその論理に反論できない場合、対象は精神内部から崩壊します」


アルモニコ司教はわずかに顔を青ざめさせながらも無言で、しかししっかりと私を見つめていた。

彼は何も言わないがその沈黙こそがこの術式の異様さを物語っていた。


アークトゥルス助祭はやや混乱しているようにも見える。

鋭い視線が私を突き刺しているが、明らかに動揺している。


「カイン様。その術式はアビスに対抗するための術式ですよね?」


「そうです。アビスを知り、アビスに物理的ではなく概念的に対抗するための術式です」


「その術式は人も対象にできますか?」


ルミナの問いは静かだったが、その背後には「それを人間に使ったのか?」という、最も重い倫理的審問が隠されていた。


私は深く息を吸い、そして吐き出した。

隠し立てをするつもりはなかった。

それが信頼を得るための唯一の論理だと知っている。


「人に試したことはありませんが、おそらく可能です。アビスに使用したことは1度あります」


二人の表情は非常に曖昧なものだった。

危険性のある術者が目の前にいること。

しかしその危険性は私自身にも他者にも向けられていること。


この術式が他者を犯す禁忌の術式なのか、自身を滅ぼす異端の術式なのか。

どちらにせよ倫理的な問題がある術式に変わりはない。

私はどう伝えれば理解してもらえるだろうか?


重い空気の中アルモニコ司教が口を開いた。


「なぜ君はその術式を作ったのかを聞いてもいいかね?」


「はい。理由はシンプルで、知らなかったから知る術を作っただけです」


「いや、そうではない。誰の何を知りたかったかが重要なのだ」


「私はアビスの絶望を知りたかったのです。なんの絶望から生まれたアビスなのかを知り、その絶望に打ち勝つために知りたかったのです」


アルモニコ司教はそれを聞いて深く考え込んでしまった。


私は嘘を吐いていない。

しかしそれを証明することもできない。

それに人にアポリアを向けるつもりはないが、実際使えばどうなるかわからない。


この術式は不確定要素が多すぎる術式だ。

彼もきっとその不確定要素をどう判断していいかわからないのだ。


「もし人に使ったらどうなるのですか?」


アークトゥルス助祭が真剣な瞳で問いかける。


「詳細はわかりませんが、少なくとも対象の内部全てを知れます。対象からの精神的干渉がどの程度あるかはわかりません」


「アポリアは使用中に対象の精神に直接干渉できますか?」


「いえ、それは不可能です。アポリアはただ対象の内面を覗き見るための術式です」


「ではアポデーシスを人に向けて撃ち込んだ場合どうなりますか?」


「対象の精神力や価値観が私より強ければ何も起きません。しかし私の論理に屈した場合おそらく精神的な異常をきたします」


それを聞いてアークトゥルス助祭が明らかな怒りをまとったのを感じた。


彼女は勢いよく立ち上がり、腰かけていた椅子は大きな音を立てて倒れてしまった。

同時にテーブルに両手を叩きつけた勢いで資料の一部がテーブルから滑り落ちる。


「あり得ません!それは他者に対する冒涜です!」


綺麗なはずの声が歪んで聞こえる。


それは彼女の怒りがそうさせるのか、それとも私が聞くのを拒んでいるのか。

冷静な印象がある彼女が声を荒らげ、鬼気迫る表情で詰め寄る姿は見ていて気持ちのよいものではない。


それだけ怒っているのだ。

私の冒涜的な術式に。


「他者の内面を覗き見て、あなたの論理を一方的に押し付けるなど許されません!!あなたは他者の価値観を、意志を踏みにじっている!!!!」


私は何も言い返せない。

アポリアを生み出した時、人に向けることなど考えもしなかった。


しかし少し考えればそれがどれだけ倫理的な問題があるかわかるはずだ。

やはり私は研究所の思想が根付いているのだ。


それが合理的であれば許される。

私はただ知るためだけに全てを通り越してアポリアを作ってしまった。


「アポリアを作った当初、人に応用できるかなど考えもしませんでした。今、改めてこの術式は危険なものだと実感しています」


私は真っ直ぐアークトゥルス助祭の瞳を見つめた。


「ですが、この術式がなければアビスを知ることができません。我々はアビスに無知で、あまりにも無力です」


彼女はまだ何か言いたそうだったが、一度言葉を飲み込んだ。


この議論には二つの焦点がある。


一つは先ほどから焦点の当たっている倫理的な問題。

もう一つはアビスに対する対抗手段としての部分だ。


二人にとって重要なのは前者で、私にとって重要なのは後者なのだ。


「カイン君。君は一度だけアビスにアポリアを使ったと言っていたがその時はどんな状況だったのかな?」


アルモニコ司教が議論の焦点を私の方に合わせてくれた。

私に弁明のチャンスを与えてくれたのだ。

これを逃すわけにはいかない。

ここで必ず信頼を勝ち取らねばならない。


「状況は突発的なアビスの襲撃でした。そのアビスは認識することができないアビスでした」


私は『透明な亡霊』との戦闘を思い出す。


「私はアビスの不可視の攻撃に圧倒され、最終手段としてアポリアを使いました」


「アビスの内面に直接触れたのだね?」


「はい。アビスの内面に触れた途端に声が聞こえました。『お前の存在する理由はなんだ?』と」


私はまた泥が舞い上がるのを感じそうになり一呼吸置いて続ける。


「私は私しか知りません。だから私の思う存在理由をアポデーシスに書き出してアビスに撃ち込みました」


「そしてアビスは活動を停止したということか」


「そうです。私の論理が上回り勝利しました。しかしアビスが消滅してもアポリアの影響で時々アビスの声が語りかけてくるのです。それがアポリアの最も大きな代償です」


アポリアの最も危険な部分の話を聞いた二人は驚愕していた。


アルモニコ司教は頭を抱えて大きく息を吐き出した。

アークトゥルス助祭は息をのみ、目を見開いていた。


「なのでアポリアは何回も使えば私の精神が崩壊すると思われます。そして人に使えばよりその可能性が高まるでしょう」


「それは後どれくらいが限界なのですか?」


アークトゥルス助祭の声は怒りではなく動揺に変わっていた。

動揺を抑えようとしているが、声は微かに震えている。


「わかりません。現状であれば3回程度は使えると思います」


3回に何か理由があるわけではないが、体感的にはそれくらいは耐えられるような気がした。


「ですので極力無駄打ちは避けたいのです。それが信頼する理由にはなりませんが、これがアポリアの全てです」


「君はどうしてそこまでするのだ?禁忌に踏み込み、自分すらも犠牲にする。『未来を生きる意志』は君をそれほどまでに駆り立てるのか?」


「はい。私が死のうとも。私の論理と意志が残るならば私はアポリアを使います」


その言葉は静かな作戦会議室で決意として重く響き渡った。

私の言葉は理屈を超えた究極の宣誓だったかもしれない。


アークトゥルス助祭はその言葉を聞いて倒れていた椅子を直すことも忘れ、ただ立ち尽くしていた。


アルモニコ司教は深い溜息と共に頭を抱えるのをやめ顔を上げた。

その目は諦めではなく重い決意を帯びていた。


「君の術式は我々聖団の倫理から見て極めて異端であり危険だ。だがその代償は君自身が負っていることも理解した」


司教は私を見据えた。


「君の『未来を生きる意志』はもはや個人の生存を超えている。それは聖団の教義の最も過酷な形での体現だ。アークトゥルス助祭、カイン君にまだ言いたいことはあるか?」


彼女はゆっくりと倒れた椅子を起こす。

テーブルから滑り落ちた資料を拾い、元の位置に戻す。

それから大きく深呼吸をして椅子に座る。


「いえ、何もありません」


また真っ直ぐと私の目を見てそう告げる。

しかしその瞳に浮かぶ確固たる感情を私は読み解けなかった。


「本題に戻ろう。ユーリ・ラプラスの所在地についてだ」


アルモニコ司教の一言が私達を本来の目的に引き戻した。


「アークトゥルス助祭、進行を」


「かしこまりました」


アークトゥルス助祭は私から視線を外し、手元の資料に手を伸ばした。


「ユーリ・ラプラスの離教後の足取りを追った結果、彼が最後に確認されたのは『静寂の島(インスーラ・シーレンス)』と呼ばれる廃墟群です」


彼女の声が作戦会議室全体に響き渡った。


雨音はまだ続いている。

しかしその音はもう混乱や審問のノイズではなかった。

それは追跡の開始を告げる、静かな進軍の音のように響いていた。

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