第1章 「論理の訣別(アポスタシス)」 3話

研究所の在り方の否定。


それは論理的純粋性や論理回路によるアビスの根絶のことを指している。


論理的純粋性は感情や不確定な情報や不安定なものを排除し、そういった非合理的で動的なものに頼らず絶対的で静的であるべきで、それらを追求する研究所の在り方そのもの。


そしてこの混じりけのない純粋な論理によってアビス、いや絶望の意味を否定し、論理によって絶望を乗り越えようとするのが研究所の考え方である。


しかしそれは合理的だが重要な要素が内包されていない。


それは感情といった非合理的だが人間から消し去ることができない要素だ。


これは私自身が心を落ち着かせようとした時に感情という泥を沈めたのと似ている。

感情を見ないようにして論理の純度を上げているのだ。


だがそれではいつかまた泥により濁ってしまう。

先ほどの私のように。


「確かに私の術式は論理的純粋性を濁しているかもしれません。しかし私達がどれだけ感情を切り離そうとしてもそれは私達の中に存在し続けます」


私は毅然としてそう言った。


それを聞いて研究員たちは蔑むような視線を強めた。

まるで自分自身の今までが否定されたように感じたのか、証明できない情報を軽視しているのかは知らないがそれは少なくとも今までの研究所の研究に真っ向から対立している。


「あわせて現状の研究所の戦い方は現状維持に甘んじています。防御術式により安全を確保し、拘束術式により行動の限定をするところまでは完璧ですが、その後の物理的な攻撃の集中では物理的に実体を破壊できても、概念的にアビスを倒せていません。それは研究所の論理では絶望を克服していないのと同じではありませんか?」


物理的に実体を破壊するのと概念的に克服しているのでは全く勝利の性質が違う。


物理的な勝利は所詮その場しのぎで、概念的な克服を目指さねば一生私達はアビスの脅威にさらされ続ける。


それを聞いたヴァリウス議長は視線を落とし、やや考えるような表情をした。


「君の言う概念的な克服を目指すという目標に対して現状の戦い方では有効性が低いだろう。しかし論理的純粋性の低下は術式の安定性に直結する。そうなれば術式の展開すら危うくなるのではないか?術式のフリーズや論理回路の破綻は死を意味する」


私はその言葉に返す言葉がなかった。

実際私は確実に透明な亡霊に蝕まれている。

いつか術式の展開に必要な論理的な純粋性、整合性すらも破壊してしまうかもしれない。


「アビスへの概念的で普遍的な攻撃理論の構築は現状は完全に行き詰まっている。それでも君の術式はリスクがでかすぎるのだ。それではシグルド・クライヴ、君の師と同じ轍を踏むことになるぞ?」


シグルド・クライヴ。


私の恩師であり中級アビスとの戦闘で殉職した論理的純粋性を突き詰めた防衛術式の達人である。


「クライヴの論理回路は誰の目から見ても完璧だった。それでもクライヴの死に際は術式が崩壊し再度展開することができず、何も行動を起こせないまま死んでいく呆気ないものだった」


シグルドの最後はあまりにも一瞬だった。


この戦闘も突発的な戦闘だった。シグルドは応援を要請され至急現地に赴いた。


到着するや否やシグルドは最前線で自身の完璧な防衛術式を展開し被害を抑えることを優先し、市民の退避までの時間を稼ぐことに注力した。


しかしその時のアビスはあまりにも強大だった。


そのアビスは後に感染症の絶望によるアビスだったと推定されている。

能力はもちろん絶望自体を感染症のように流布するアビスだった。


シグルドは防衛術式を展開したにも関わらず市民は次々に絶望に飲まれ、その場で虚ろな目で立ち尽くしアビスから逃げるわけでもなく、アビスの攻撃を避けようとするわけでもなく、ただ無抵抗に殺されていった。


こうなれば絶望はアビスの能力に関わらず加速度的に増えていく。


今目の前に避けられない脅威があり、心に入り込み逃げるという意思さえ奪ってしまう。

自分にとって大切な誰かがアビスの絶望に感染すれば確実に死ぬ。


その状況的膠着を打破できる方法がない。


そうなれば絶望の負のフィードバックループが完成されてしまう。もはやその状況自体が絶望的になってしまうのだ。


だからシグルドは市民達を守るために絶望の感情を術式内に内包するか、市民達の論理回路や感情を自身の論理回路に組み込み、自身の防御術式を市民全体に適応する必要性があった。


もちろんそんなことは不可能だ。


完璧と言われる彼の防衛術式は私の防衛術の基礎である。


その成り立ちは自分自身の絶対的な定義から始まる術式だ。


逆に言えば師匠や私の術式は自分自身以外を定義できず、それらの要素を含めてしまえば破綻して術式はフリーズし、バリアも消えてしまう。


それでもシグルドは市民を守るためにそれらの要素を戦闘中に術式に組み込むことを敢行した。


その瞬間一瞬にして防衛術式は崩壊し、アビスが眼前に迫っても再度展開することもできなかった。


結局感染症のアビスは本格的な討伐部隊の到着まで甚大な被害を出しながら最終的には強大な物理的な火力の集中により討伐された。


この戦闘を上層部は重く受け止め、より安定的な戦闘戦術と論理的純粋性を重要視するようになったのだ。


この事実は私にとっての絶望だ。

論理的純粋性をそのまま形にしたような師匠の論理と市民を守ろうという信念が相反している事実。


それは私の一部に確実に論理だけでは解決できないという思考を刻み付けたのだ。


「だからこそです。完璧な防御術式を持っていたとしてもアビスに勝てないのです。これは現状の論理回路では決定打が欠けていることの証明ではないですか?論理的純粋性や論理回路の整合性等のイデオロギー的な話をしたいのではありません。むしろ研究所の目指す概念的な討伐の為には非合理的で流動的な動的要素に目を向けるべきではありませんか?」


カインの信念とする概念的討伐に関しての内容は的を射ていた。

しかし同時に研究所が積み上げた静的な論理を否定することにもなっていた。


「概念的討伐こそ我々が目指すべきであるということは否定しない。だがそこに至るまでのプロセスにリスクがどれだけ伴うかの話なのだ。たとえ歩みが遅くとも確実に進んでいけば良いのだ。アリスト、君の術式は論理を飛躍的に発展させるかもしれないが同時に論理を完璧に破綻させる可能性があるのだよ」


論理の行き詰まり。


論理は一度答えが出てしまえば再現性と安定性があるのが最も優れた点だろう。

誰でも使えるようになり、飛躍的に組織全体の安全性が向上するだろう。


しかしもし論理が絶望を乗り越えられないことを証明してしまったら?

もし論理が通用しないことを証明してしまったらその時点で論理の価値がなくなる。


ヴァリウス議長の言う論理を完璧に破綻させる可能性とは論理でアビスに対抗できないことを証明してしまう瞬間のことだ。

そうなれば我々研究所の人は何もできなくなる。


それをヴァリウス議長は懸念しているのだ。


私は何も言い返せなかった。


なぜなら恩師シグルドが目の前で死んでいったから。

完璧とも言える論理すらも敗北することを私は知っているから。


だから安易に感情や非合理的な要素を認めるわけにはいかないのに、アポリアはその真逆の性質を持っているという矛盾。


それなのに私はアポリアが現状を打破できるという確信がある非合理的な信念。


全ての要素が完璧に私を取り囲んで身動きをとれなくさせている。


拘束術式とは違う形で、言葉という拘束力で、まるで私は囚人のように手足に枷をかけられ、鎖により身動きがとれないような感覚だった。


だが私はこの枷や鎖を壊して進まねばならない。


真理を知るために、シグルドが残した合理と非合理が交わる場所を探さねばならない。

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