第1章 「論理の訣別(アポスタシス)」 4話

根本的に研究所の主流の考え方と私の考え方は違う。


だから私は何も言えない。


私自身がアポリアの危険性を実感しているから。

今日、目を覚ます前に感じていた『透明な亡霊』の声が最たる例だ。


この話は絶対に誰にも話せない。

少なくとも研究所の人に話せば余計話が複雑になる。


私はヴァリウス議長の主張に言い返すこともできず、また研究所の体質が完全に硬直していることを悟り失望していた。


ヴァリウス議長も同じように自らの正当性を完璧に主張したが、研究所の停滞感については思うところがあるのか口を閉ざした。


しかしその重たい沈黙を破るように一人が口を開いた。


「カインの術式はリスクが大きいのは誰の目に見ても明らかですが、研究所の論理が停滞しているのも事実です。」


その言葉を口にしたのはカインの兄弟子、ルカ・ヘーゲルだった。


「これは論理ではアビスの対抗に限界がある示唆とも思えます。ならば論理が定義する領域を徐々に拡げていく必要性があるのも事実ではないでしょうか?」


ルカは二十半ばの金髪の青年で私の兄弟子にあたる。

彼は研究所の研究員とは思えないほど人間味があり温かさを感じる人柄が特徴だ。


そんな彼の主張はまるで間を取り持つような研究所とカインの中間と言える主張だ。


論理は論理として保ち、それでも徐々に論理が定義出来る領域を拡張することにより感情も内包していこうという考えだ。


この主張は論理的純粋性という観点から主流派の考え方ではないけれど、ここ数十年研究所は目立った成果を上げられていないことに危機感を覚えた、特に若い世代の研究者が主張している考え方だ。


ルカの主張に対してヴァリウス議長や古参の研究員はまた顔をしかめたようだったが、アポリア否定派であっても若い研究員達の目の色が明らかに変わったのを感じた。


それを見逃さずルカが続けて発言をする。


「論理を停滞させないためにも完全に硬直するよりやや空白を残しておく方が合理的だと思います。また感情を切り離してしまった時にそれは人と呼べるのでしょうか?」


人を人足らしめている要因はなんなのか。


明文化されていないが研究所では知性や理性こそが人の最も優れた部分という暗黙の了解がある。


この暗黙の了解にルカや若い研究員達は内集団バイアスや確証バイアスがかかっているのではないかと主張しているのである。


この主張をヴァリウス議長も聞き流せないと思ったのか、ルカに視線を向け口を開いた。


「現在我々は停滞感を感じているのも事実であり、論理の定義する範囲が時代と共に拡張されてきた事実もある。しかしこれは安全性を第一に、緩慢であっても着実に積み上げた人類の叡知である」


「ごもっともです。ですのでむしろカインのような存在は良いサンプルだと考えます」


「サンプル価値はあるかもしれないがスピード感が早すぎる。危険性を把握できない。繰り返すがシグルド・クライヴの二の舞になる可能性を否定できない」


「確かに危険性を把握できず想定が不透明ではあるものの、少なくとも戦闘以外での思考の基盤としては優秀だと思います。」


ルカの主張にヴァリウス議長はまた口を閉ざし、視線を落とし口元に手を当てて考え込んでいた。


長く息を吐いた後にヴァリウス議長がもう一度ルカに問い掛ける。


「ヘーゲル君もクライヴの研究室のメンバーだったね?君から見たアリストの術式アポリアはどう見える?」


「私には師匠が受動的、強制的にさせられた非合理の内包を能動的に目指すことにより受動的に行うより心理的に安全性が向上していると思えます。もちろん絶望の侵食に関する部分は要検討するべきですが」


また長く重い沈黙が流れる。


「アポリアに関する判断は多岐に渡るのでこの審議会で判断するのは難しい。また戦闘面や倫理面での危険性は依然変わらずだが、思考の基盤にするという考えは検討の余地がある」


ここにきて初めてヴァリウス議長はアポリアに関して前向きな発言をする。


しかし私にとってそれではダメなのだ。


安全性を担保しながら非合理を理解するならば机の上でサンプルや仮説とにらみ合いをするだけで十分だ。


けれど感情は常に変化し続けている。


だから直接触れて直接感じなければ理解したとはいえない。


感情的な人間の気持ちを理解することができても、共感することができなければ論理回路に組み込んだところでフリーズすることを避けられないだろう。


この研究所の人は何もわかっていない。


頭がよいがゆえに、理解することを瞬間的にできるために、他人の中で起こっている感情の流動を感じることができないのだ。


だがそれを論理的に主張することができない。


なぜなら私自身もそうだからだ。


他人の感情に気付いた時にまず起こる反応はなぜそうなったのだろうという論理的な考察だからだ。

私は私の弱点を認識しているがゆえに発言ができない。


そして無情にもヴァリウス議長はこの場でのアポリアへの判断が難しいと判断し告げた。


「術式アポリアの論理的純粋性、使用に関する安全性に関しては改めて上層部により審議会を行うものとする。戦闘報告及び戦闘結果の議事録作成は以上とする」


私は何も言えなかったが想定される中でもかなり悪い状態で終わってしまうことに危機感を抱いていた。


ルカが助け船を出してくれたとはいえアポリアへの風当たりは依然強いままだ。

これは術式が凍結され完全に使えなくなるような事態は免れるかもしれないが、使用には大きく制限が設けられる可能性がある。


私はこの術式がなければ普通の一般的な研究員になってしまう。


それではアビスの研究がろくに進まない。


私は優れた師であり研究員だったシグルドがなぜあの選択をしたのかを知りたい。

そこにはアビスへの対抗策が隠れているはずだ。


もう一度あのような悲劇を見たくはないのだ。

そんな危機感が渦巻いたまま、会議室を出る。


足取りは重く、まさに足枷をされているようだった。


扉に向かうまでの間、私はヴァリウス議長とルカの議論を反芻する。


ルカの主張は真っ当でそれを加味してヴァリウス議長は審議会の延長、上層部による再審議を決断した。


しかし再審議に私は介入できない。


ならば私が不利な条件で審議が進むのは明白だ。


思考に没頭しすぎるあまり一人の老齢な研究員と肩がぶつかったが相手は何事もなかったかのように部屋を出ていった。


もうここに私の居場所はない。


少なくともこの場所に居続ける限りは私の向かう道のりを歩むことが許されない。


私は部屋を出て扉に手を掛ける。

扉はなかなか閉まらず、腕は鎖に縛られたように動かなかった。


それでも私は腕に力を込め扉を閉める。

まるで閉まる扉は私の進む道を閉ざした様だった。

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