第一章 翼の生えた少女

1 迫りくるトビウオの大群

 吹く風に揺れる背の高い蓼草の中から、こちらを覗き見る瞳が二つ。

 何の変哲もない、ただのカエルだ。何の気なしに目を合わせてみたら、そいつはぷくーっと膨らんで、中空へ飛びあがっていってしまった。そのまま放物線を描きつつ、島のフチから飛び出していく。雲海めがけてプカプカと、ゆっくりと落ちていく。


「……まあ、いいか」


 何とも言えない無情感を覚えつつ、横向きにくわえていたドライバーを手にとって、仮止めしたネジをしっかりと締めた。手袋を外して、指先の感覚を頼りに隙間がないことを確かめつつ、背後にいるはずの船長さんに尋ねる。


「壊れてたのは、ここだけですか?」

「あ、ああ……助かるよ」

「ならよかった。雲か何かに突っ込んだ時に、水が入っちゃったみたいです。簡単に直しておいたので、試してみてください」


 ツナギのポケットに諸々の工具をしまってから立ち上がり、ほんの少しだけずれてしまった作業帽を被り直しつつ、船の影を出た。ズレ防止のイヤーフラップがあるとはいえ、こいつも流石にくたびれてきてしまったかもしれない。


「ちょっと待ってくれ」


 船長さんの脇を抜けて自分の船に戻ろうとしたら、すれ違いざまに声をかけられた。まだ何か気になることでもあっただろうか。


「えーっとジオットくん……だったかな。君はその……みかん箱で空を飛んでるのか?」

「……ええ、そうですが」


 船長さんが指差した先。草地の奥に佇む俺の船の外装は、確かに決して奇麗とは言えない。外装からしてオンボロだし、見た目だって不格好だ。例えるなら、平たくも大きなみかん箱に、無数の羽根が付いた翼をぶっ刺して、双発式のエンジンを無理やり括り付けたような見た目をしている。実際のところ、このモデルの飛行船は、俗にみかん箱と呼ばれているんだったか。自分の船に言うのも悲しいが、ピッタリな呼び名だと思う。


「もし乗る船に困っているようなら、私たちのところに来てくれたっていいんだぞ?」

「というと?」

「君の腕ならうちだって大歓迎というか……正直、メカニックとしてスカウトしたいんだが」


 うーん、なるほど。漁船専属の整備係か。確かにある程度力になれる自信はあるし、これだけ立派な船を持っているところなら、待遇も良さそうではあるけど。


「すごく魅力的な提案ですけど、遠慮しときます」

「やっぱり、船を置いていくわけにはいかないかな?」


 確かにそれもある。いくらみかん箱とは言え、出先に放り出してしまうのは可哀想だし、愛着だってないわけじゃない。

 でも、一番はもっと浅はかで……自分勝手な別の理由だ。


「俺、いつか大陸に行きたいと思ってるんです。だから、行き先は自分で決めたいなって」


 俺が正直にそう答えたら、船長さんはぽかんと一瞬固まった後、耐えきれなくなったように噴き出してしまった。


「はははっ! なかなか面白い答えだね」


 彼はひとしきり笑い終えた後、胸元から何かを取り出して投げ渡す。


「これは?」

「チップだよ。君の腕が良かったからね」

「そんなこと言って。またすぐ壊れても恨まないでくださいよ」

「その時は自分の審美眼を恨むさ」


 なるほど、人のことを面白いというだけあって、この人もなかなか気持ちのいい人だ。


「さて、風に流されてしまう前に、行こうか」

「そうですね」


 俺たちはお互い背を向けて進み、それぞれの船に戻っていく。貨物室の中へ進んで、梯子を上り甲板に立つ。レバーを引き、エンジンを始動して離陸する。

 船体背面の風防ガラス越しに振り返れば、俺たちが今まで立っていた島の様子が見えた。肥沃な土に青々と草が茂っただけの、ひどくこぢんまりとした浮島から、彼らの船が離陸していくのが見えた。このみかん箱とは比べ物にならないほど立派な船だ。羨ましい。俺にもあれくらいの船があれば、どこまでも飛んでいけるだろうか?

 空想はそこそこに、前を向く。行く先には一面の青空と、眼下を隙間なく覆う雲海が見える。

          ◆     ◆     ◆

 大陸から遠く、それはもう途方もなく遠く離れた、空の彼方。地方の雲海に構える浮島都市、ベルバンへ向かう運送業務の傍らで、ガタガタとうるさいエンジン音に負けないように、舵を握って歌を歌う。前後左右に上下と、どこを向いても雲か霞しか見えないし、目的の島もまだまだ遠い。

 そんなときには歌うに限る。腰のベルトのラジオを付けて、舵の向こうに手を伸ばして、スイッチを入れた箱型マイクを置く。そうして歌でも送っていれば、ラジオを聞いた誰かが俺を、この退屈なソラの果てから連れ出してくれるかもしれない。


「~~♪」


 この歌はどうやら、大陸の方で流行っているらしい。流行りの曲とはいえ、覚えるのには随分と苦労した。今だって歌詞を追うのがやっとで、音程まで正確に取れているかどうかもわからない。


「お送り致しましたのは、MCジオットによるアカペラ歌唱でございました。今後もリクエストとかあればいろいろ歌ってみるつもりだから、よかったらラジオ局経由でお便りを……」


 我ながら、よくもまあつらつらと一人語りが出てくるものだと思う。こんな辺境のそのまたすみっこの、個人ラジオの電波なんて誰も聞いちゃいないだろうに。

 それでもかすかな期待を込めて配信を続けてしまうのは、それ以外に暇つぶしが無いからだ。適当に中古品の音楽プレーヤーでも買えれば、もう少しマシだったかもしれないが……

 なんて、考えていたところでのことだった。


「うん? 何だ?」


 風防ガラスの向こう側、遥か前方の空に何かが見えた。巡らせ続けた考えを投げ捨て、舵を握ったまま目を凝らしていると、徐々にその正体が明らかになる。

 ……なんて、のんきに思ってる場合じゃない。このままだとそいつにぶつかってしまう!


「くっそ、あんまり無理させられないんだけどな!」


 継ぎ接ぎみたいにオンボロな船体に、それなりの質量の何かが衝突してしまったら、このみかん箱に穴が開いてしまうかもしれない。右足側のレバーを前に入れて、右エンジンの出力を最大にする。そうして舵を左に切り、全力で回避行動を取る。


「なんとかなれよ!」


 祈る様な気持ちで叫んだ直後に、船体側面を何かが掠める。

 どうやら間一髪で、回避には成功したらしい。


「一体なんだって言うんだ。鳥にしては速すぎると思うけど……?」


 遠くからでは巨大に見えた影も、近寄れば何かの群れだとわかった。エンジンの出力を下げながら、舵取りでズレた作業帽を被り直し、ツナギの胸ポケットをまさぐる。折りたたみ式の単眼鏡を取り出し、今しがた通り過ぎた群れの影を追う。この船はオンボロだが、風防から後ろの方までガラス張りが続いているから、こういう時に見通せるのはありがたい。


「トビウオだな……狩りの最中だったのか?」


 雲から雲へ飛び移る、羽根のついた魚の群れ。奴らは飛行船を恐れないから、こうして突っ込んでくることもあるにはある。

 先頭を見れば、確かにヤツらが何かを追っているらしいことがわかった。トビウオから逃げるにように飛ぶソイツは、丁度空の果てから切り返して……こちらへ向けて進んできている?

 もちろんそいつはまたしても、トビウオの大群を引き連れている!


「おいおいおいおい勘弁してくれ!!」


 今度は両エンジンを最大出力に入れ、迫る影から全力で逃げる。向こうもかなりの速度だが、こっちは腐っても飛行船だし、全力で逃げれば振り切れるはずだ。ていうか、そうであってくれ。どこのどいつだか知らないが、面倒を押し付けるのはやめてくれ!


「げっ!」


 なんて俺の願いも虚しく、天窓に何かがぶつかった音がした。鈍く響いた衝突音に続いて、バコっと何かが外れるような音が響いて……!


「うわーっ!!」


 直後に落下してくる天窓。落ちた傍から流されて、船体背面にスライドしていく。

 続いて真っ白な羽をまき散らしつつ、巨大な羽毛に包まれた謎の生物が甲板に落ちる。

 どうやらピクリとも動きそうにないが、正直それはもうどうでもいい!


「風防が……!」


 外れた風防から流れる空気、ソレに釣られて入り込む魚の群れ。上がった視界のど真ん中に、おぞましい量のトビウオが映る。そのまままっすぐ飛び込んでくる!


「嘘だろ嘘だろ痛い! 痛ってぇ!!」


 悲鳴を上げて頭を伏せるが、ヤツらが次々背中を打つ。甲板に手を付き足を立て、転がるように逃げつつ船尾を目指す。その進路を白いモフモフが遮っている!


「くっそ! お前はなんなんだよーっ!!」


 悪態をつきつつ、白いモフモフに手を伸ばす。見たところ翼の形をしているそれを足場にするつもりで。そのまま付け根を鷲掴みにした――直後のことだった。


「きゃあああ!?」

「えっ!?」


 モフモフから響く女性的な悲鳴。あっけにとられる俺の目の前に、翼の根本から続く背中が映る。そのうなじと、肌が映る。雪のように白い髪が、そのまま見返る。


「なにっ――すんのよーっ!!」


 直後に映る拳骨。えぐられる鼻骨。揺れる頭蓋骨。

 暗転する意識の中で見届けたのは、ピンクに染まった怒り顔と、瞬く空色の涙目だった。

          ◆     ◆     ◆

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