番外編 第18回 編集者A氏の疑問
K談社 文芸局 第一編集部。
A氏は今や局次長の席に座っていた。
彼がこの異例のスピード出世を果たしたのは、ひとえに担当作家の響塔子のおかげだった。
響塔子は業界の奇跡だった。
直木賞とフランス文学賞のほか、各賞を総なめにし、その人気は衰えるどころか新作を出すたびに、また映画化・ドラマ化のたびに、社会現象を巻き起こす。まさにK談社のドル箱。
だがA氏が何よりも感謝しているのは、その売上だけではなかった。
響塔子が超優良作家であるという、その一点においてだった。
A氏は思い出す。サイン会で倒れた塔子を抱きかかえた十月詩音という少女との出会い。そして彼女が現れる前の地獄を。
督促状の山。グミとエナジードリンクの残骸。
何度も締切直前に栄養失調で倒れ救急搬送された悪夢。
なのに、とんでもない医者嫌い。いやそもそも極度の人嫌い。診察はおろか、家事介助も受け付けない。
確かに才能はデビュー作から図抜けていた。
しかしあの頃の塔子は、いつ爆発するか分からない爆弾だった。
それがどうだ。
詩音が管理者となって以来、響塔子は一度も締切を落とさない。
それどころかスケジュールより早く完璧な原稿を納品する。
スキャンダルはもちろん、小さなトラブルも皆無。
納税も契約もすべてが完璧。
映像化もメディアミックスも、全て詩音が優良な条件でまとめてしまう。
健康状態もメンタルすら詩音によって完璧に管理されている。
A氏の出世は、響塔子の才能と十月詩音の経営の賜物だった。
その日、A氏は塔子の新作のゲラを読んでいた。
今回もまた、息をのむ傑作だった。
また売れる。A氏は確信した。
だが同時に、彼がもう何年も抱き続けてきた素朴な疑問が再燃した。
これほどまでに響塔子は十月詩音に依存し、信頼し、そして間違いなく愛している。
塔子の世界は詩音を中心に回っている。
なのになぜ。
塔子の作品にはあれほど多彩な人間が登場するのに、たった一度も十月詩音を思わせるキャラクターが出てこないのか。
完璧な年下の世話役。
すべてを捧げる献身的な恋人。
経営を司る才女。
どれも物語の格好の材料になるはずだ。
だが塔子の物語はいつも乾いていて、孤独だ。
A氏はその疑問を確かめずにはいられなくなった。
---
数日後。聖域、株式会社ひびきの社長室エリア。
A氏は詩音が淹れた最高級の煎茶を前に座っていた。
新作のプロモーション戦略会議は、詩音の完璧な仕切りであっさりと終わった。
塔子は「あとはよろしく」とA氏に小さく手を振ると、もう書斎に戻ってしまった。
「それにしても先生は相変わらずですね」
A氏は雑談のように切り出した。
「ええ。先生の安定こそが弊社の強みですので」
詩音は社長の顔で答えた。
「十月社長」
A氏は意を決して尋ねた。
「ずっと不思議だったことがあるんです」
「何でしょう」
「先生はあなたのことを、本当に心の底から信頼して……まあ、愛していらっしゃる。
それは私のような外部の人間にも痛いほど分かります」
詩音は静かにA氏の言葉を待った。
「なのに、どうして先生の作品には、あなたのような人が一度も出てこないんでしょうか。
先生にとって、あなたは最高のミューズのはずなのに」
詩音はその問いに一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。
そして次の瞬間、ふとその鉄の仮面のような表情を緩め、小さく笑った。
「Aさん」
「はい」
「先生にとって、私は物語ではないからです」
「え?」
詩音は窓の外を見つめた。
「先生は天才です。先生の目には、この世界で起こるすべてが物語の材料に見えています。
Aさん、あなたの苦悩も、あの蛯原翠の愚かさも、すべていつか先生の小説の血肉になります」
A氏は背筋が寒くなるのを感じた。
「でも」
詩音は続けた。
「私だけは違います」
詩音は自分自身の胸にそっと手を当てた。
「私は、先生がその物語を生み出すために立っている足元の大地です。
呼吸する空気です。飲む水です」
「!」
「Aさん。大地や空気は物語にはなりません。
それは物語が生まれる前提。インフラストラクチャーです」
A氏は言葉を失った。なんという定義だ。
詩音はA氏に向き直った。
その瞳はケルベロスでも聖母でもない、ただ絶対的な真実を知る者の瞳だった。
「もし先生が私を客観的にキャラクターとして物語に描けるようになったなら」
「……」
「それは先生が、私というインフラを必要としなくなったということです」
「……」
「それはこの聖域が終わる時です。私の経営が失敗した時です」
だから、と詩音は微笑んだ。
「先生の新作に私が登場しないこと。
それこそが私の経営が完璧に機能している何よりの証拠なのですよ」
A氏はもう何も言えなかった。
ミューズ、恋人。そんな生易しいものではなかった。
十月詩音は響塔子の世界そのものだった。
A氏はこの若き経営者の底知れない愛と哲学に、ただ戦慄するしかなかった。
***
A氏との会話は、十月詩音の中で、自らの存在意義を、確固たる哲学へと昇華させた。 だが、その哲学が、愛する天才本人によって試される日がやってきた。
その日の聖域は完璧な静けさにあった。
A氏との面談を終えた数日後。
響塔子は書斎にはおらず、リビングのソファで丸くなり、珍しく執筆でも睡眠でもなく、ただじっと自分の「管理者」を眺めていた。
十月詩音は社長デスクで海外出版社との複雑な契約書を精査していた。
その真剣な横顔。滑らかな指がペンを走らせ、ときおり難しい法律用語を確認する仕草。
塔子はその光景が好きだった。自分の知らない「俗世」という怪物と詩音が戦ってくれている音だったからだ。
詩音は、塔子の
(すごい)
塔子は思った。
(Aさん、なんでぼくがしおんのこと書かないか不思議って言ってたけど)
(書かないわけない)
(書きたいに決まってる)
塔子の中で天才の衝動が頭をもたげた。
この世界で一番愛おしくて完璧で有能で、そして自分にだけ甘い、この「十月詩音」という存在を物語にしたら、どれほど素晴らしい作品ができるだろう。
「しおん」
「はい。何ですか、先生」
詩音は契約書から目を上げずに答えた。
「ぼく、きめた」
「何をですか」
「しおんのものがたり、かく」
ピタリ。詩音のペンが止まった。
リビングの空気が一瞬で凍りついた。
詩音はゆっくりと顔を上げ、塔子を見た。
その目は笑っていなかった。
「先生」
詩音の声は低かった。
「それはやめたほうがいいと思います」
「なんで?」
「私の話など退屈です。物語にはなりません」
「ううん」
塔子は首を振った。すでに天才のインスピレーションに火がついていた。
「なる。せかいでいちばんきれいで、つよくて、かっこいい、おんなのこ。せかいでいちばん、すごいものがたり、なる」
「先生、でも……」
「ぼく、かく」
塔子はそれだけ言うとソファから飛び降り、まるで夢に取り憑かれたように自分の書斎へと戻っていった。
バタン。扉が閉まる。
残されたリビングで、詩音はひとりペンを握りしめたまま固まっていた。
(書く? 私を? ダメだ。ダメ、ダメ、ダメ……)
詩音の中の経営者が警鐘を鳴らしていた。
インフラがフィクションになったらおしまいだ。大地が物語になったら、その上に立っていた作家はどこに立つ?
この聖域の絶対的なバランスが崩れる。
だが詩音は何もできなかった。
天才が「書く」と言った時、それを止める権利は誰にもない。たとえその管理者であっても。いや、天才の
詩音は、自分の管理能力の「外」で起こる事態を、ただ待つしかなかった。
仕事に戻ったが、契約書の内容はもう一行も頭に入ってこない。意識はすべて、あの閉ざされた書斎の扉に吸い寄せられていた。
***
書斎の中。
塔子は集中していた。パソコンを立ち上げ、新規文書を開く。目を閉じ、詩音を思い浮かべる。
完璧な朝食。冷徹な交渉術。自分を甘やかす指先。嫉妬に燃える瞳。
そして自分にだけ見せる、あの柔らかな笑顔。
書ける。書けるはずだ。
彼女はキーボードに指を置いた。打ち始める。
『彼女の名前は十月詩音』
……ダメだ。
塔子はすぐさまデリートキーを押した。あまりにも生すぎる。これでは物語ではなく、ただの報告書だ。
『その女は完璧だった』
……ダメだ。何が完璧なのか。これでは何も伝わらない。
『彼女は朝六時に起き、土鍋で米を炊く』
……ダメだ。それも事実だが物語ではない。
塔子は焦り始めた。おかしい。いつもなら言葉が溢れてくるはずなのに。
殺人者の動機も、詐欺師の手口も書けるのに。
なぜ、世界で一番愛している人間のことが書けない?
彼女は詩音を「キャラクター」として捉えようとした。だができない。
詩音は「キャラクター」ではない。詩音は「詩音」だ。
塔子は気づいた。
詩音を書こうとすることは「空気」を描こうとすることや「大地」を掴もうとすることと同じだ。
それらはすべてを支えているが、それ自体を主人公にはできない。
そして詩音の行動には物語的な「動機」がない。
ただ「響塔子を生かす」という「前提」があるだけだ。
塔子は呆然とした。
(ぼくの言葉……ぼくの才能……しおんだけには、とどかない……?)
三時間後。
書斎のドアが静かに開いた。詩音が息をのんで顔を上げた。
塔子が立っていた。
その顔は、詩音が作ったプリンを誤って床に落とした時よりも深く敗北していた。
よろよろと歩いてきて、詩音の足元にすがりつくように膝まづいた。
「先生?」
詩音の心臓が高鳴る。
「しおん……」
塔子が詩音の膝に顔をうずめた。
「かけない」
「何をですか」
「しおんのこと……」
「……」
「ぜんぜん、かけない」
塔子の声は泣いていた。
「ぼくの言葉、ぜんぶ、しおんから、うまれてるのに……」
「……だから」
「しおんを、かけない……」
詩音はその敗北宣言を聞き、ゆっくりと息を吐き出した。
それはこの数時間で最も恐れていたと同時に、最も望んでいた言葉だった。
詩音は泣きじゃくる天才の頭を優しく撫でた。
その表情は、A氏に語った時の、あの絶対的な真理を知る者の微笑みだった。
「はい」
詩音は静かに言った。
「知っていました」
「え?」
塔子が涙に濡れた顔を上げた。
「先生が私を書けないこと。
それこそが私の存在理由ですから」
塔子はその深い哲学の意味は分からなかった。
だが自分が書けなかったことで、詩音がなぜか深く安心していることは分かった。
つまり、これで正しいのだ。
聖域のバランスが元に戻った。
「そっか……」
塔子は敗北した疲労で、詩音の膝にもたれかかった。
「むだ、だった……」
「いいえ、無駄ではありません」
詩音は言った。
「先生は今日、先生の全才能をもって、私が『物語』ではなく『現実』であることを証明してくださいました」
「……?」
「だから、ご褒美をあげたいのですが」
その瞬間、塔子の顔がぱあっと輝いた。
「ごほうび!」
詩音は笑った。
「はい。何がいいですか」
「おなか、すいた!」
「承知いたしました」
詩音は立ち上がった。
聖域は完璧に稼働する。
今日も明日も。二人がある限りずっと。
先生は、私なしでは息もできない 〜ポンコツ天才作家と世話焼き女子大生の完全管理イチャラブ〜 lilylibrary @lilylibrary
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