番外編 第17回 ケルベロスの引き抜き

現在、出版業界には、飛ぶ鳥落とす勢いの二人の女性がいる。

一人はひびき 塔子とうこ。緻密で重厚な物語世界と、謎に包まれた私生活。十月詩音という「ケルベロス」に守られた聖域の絶対王者。


そしてもう一人。蛯原翠(えびはら みどり)。塔子とは対照的。派手なスキャンダルと破天荒な私生活。人間の欲望を鮮烈に描き出す、エンターテイメント小説の女王。彼女は塔子と人気も売上も常に二分していた。


そして蛯原翠は、そのわがままさと締切を守らないことで有名だった。「飽きた」「気が乗らない」などと言っては締切直前に海外へ逃亡し、編集者を泣かせる悪行の数々は伝説となっていた。


その日、詩音はある文芸誌の編集長との会食を終え、レストランの出口へと向かっていた。塔子の次回連載に関する重要な交渉だった。


「いやあ、十月とつき社長。今日も素晴らしい企画に完璧なプレゼンテーション、ありがとうございました」

編集長はすっかり詩音の術中にハマり、上機嫌だった。


「とんでもない。こちらこそ先生の世界観をご理解いただき、感謝します」

詩音が完璧なビジネススマイルを返した、その時。


「あら」


背後から甲高く、しかし妙に色気のある声がした。振り返ると、そこにはありえない人物が立っていた。派手な毛皮のコートを羽織り、シャンパンで顔を赤らめた蛯原翠本人だった。彼女もこの店で食事をしていたらしい。


「あ、蛯原先生……! どうも……」

編集長の顔が一瞬で引きつった。彼女にも締切を破られたのか、あるいはもっとひどいトラブルの苦い記憶があるのだろう。


詩音は即座に頭を下げた。

「初めまして。株式会社ひびき代表の十月と申します」

「……」

蛯原は詩音の完璧な挨拶を無視し、まるで値踏みするように頭のてっぺんから爪先までをじろりと眺めた。


「……あなたが噂の」

蛯原は面白そうに口の端を吊り上げた。

「……響塔子のケルベロスちゃん」

「……」

詩音は無言で微笑みを保ったまま、頭を上げた。


「ふぅん。たしかに、いーい女じゃん。美人で若くて、有能そう」

蛯原は詩音の周りをぐるりと一周した。

「……ねえ」

「はい」

「……あたし、今、担当のマネージャー、ちょうど飛ばしちゃったところなのよね。全っ然、使えなくて」


編集長が「あ」と息をのんだ。この女王が何を言い出すのか、察しがついたからだ。


蛯原は詩音の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

「……あんた、ウチに来なさいよ」

「……は?」

詩音の完璧な笑顔が、初めてわずかに凍りついた。


「響塔子が払ってる給料の……そうね、三倍、出すわ」

「……」

「あたし、今一番売れてる作家よ。金なら捨てるほどあるわ。あんたみたいな敏腕美女に管理してもらえたら、最高じゃない?」


それは業界のトップからトップへの、公然の引き抜き宣言だった。


蛯原は詩音の耳元に顔を寄せ、囁いた。

「……あたしなら、あの陰気なポンコツと違って、毎日シャンパン飲ませてあげるし、ビジネスクラスで海外旅行にも連れてってあげる。……どう?」


詩音は瞬きもしなかった。彼女は蛯原の手を自分の肩から不躾にならないよう丁寧に、しかし力を込めて払いのけた。


「蛯原先生」

声は冷え切っていた。

「……なあに、その目。こわい」

「恐れ入りますが、私は株式会社ひびきの代表です。どこかに所属するマネージャーではございません」

「……ああ、そうだったわね。じゃあ、会社ごと買ってあげようか?」

蛯原はまったく怯まなかった。


「それと」詩音は続けた。

「……私の給料は、響塔子から一円も頂いておりません」

「……は?」

今度は蛯原が目を丸くした。

実際、詩音は株式会社ひびきの社長であり、形式的には、詩音が塔子に給料を払っているのである。しかし、詩音が言おうとしているのは、そういうことではない。


「私の報酬は金銭ではございません。響塔子の才能を管理するという『権利』そのものです」

「……あんた、何言ってるの……?」


「そして、何より」

詩音は一歩、蛯原に近づいた。その瞳は完全なケルベロスの瞳だった。

「……先生はご自分を『わがまま』だとおっしゃいますが」

「……」

「……響塔子の『ポンコツ』に比べれば、先生のわがままなど常識人の範疇です」

「……は?」


「私はを管理する趣味はございません」

「……!」

「私が管理するに値するのは世界でただ一人。あの、どうしようもない『天才のポンコツ』だけですので」


詩音は完璧な一礼をした。

「ご提案、感謝いたします。失礼いたします、蛯原先生」


詩音は呆然と立ち尽くす女王と編集長をその場に残し、ハイヒールの音も高らかにレストランを出ていった。


車の中で、詩音はため息をついた。

(……くだらないノイズが入った)

(……塔子さんの耳に入れなければ、いいけれど)


だがその数時間後。蛯原翠が自分のSNSにこう投稿したことで、聖域は新たな騒動に巻き込まれることになる。


『響塔子の女社長にフラれちゃった。「天才のポンコツしか興味ない」んだって。ウケる。あたしも十月社長みたいな敏腕美女に管理してもらったら、〆切、守れるかも、なのに!』


その投稿は一瞬で拡散された。


***


その蛯原翠(えびはら みどり)の挑発的なSNS投稿が、インターネットの海を光の速さで駆け巡っていた翌早朝。聖域のリビングはまだ薄暗く静かだった。


響塔子は、まだ夢の中。

だが十月詩音(つき しおん)はすでに「社長」のデスクで完璧な武装を整えていた。バスローブの上に眼鏡をかけ、冷たいモニターの光を浴びていた。


画面には炎上状態のSNSが映し出されている。

『響塔子の美人社長、蛯原翠から公開引き抜き!』

『十月社長争奪戦か』

面白おかしく見出しが踊る。


詩音の表情は微動だにしなかった。その反応は「予想通り」を超え、「計画通り」だった。


(……やはり動いたか)

詩音は静かに息を吐いた。蛯原翠という人間の分析はとうに済んでいる。才能は一流。だが精神は三流。自己顕示欲の塊。自分の発言がどのような影響を及ぼすか、その計算もできない、ただの女王気取り。あのレストランで断られた腹いせをSNSで拡散しようとするなど、あまりにも短絡的で愚か。そしてだった。


(……そこを叩く)


蛯原は詩音という「個人」に向かって軽いジャブを打ったつもりだろう。だが彼女は気づいていない。自分が喧嘩を売った相手は「個人」ではなく、「株式会社ひびき」という、武装する法の城塞そのものであるということに。


詩音の指がキーボードの上を走る。戦う相手は蛯原翠本人ではない。そんなノイズ源は放置する。叩くのは、そのノイズを増幅させている「メディア」だ。


蛯原のSNS発言を予想していた詩音は、弁理士・十月詩音の名で、法的措置を示唆する警告書を作成済みだった。宛先は、蛯原の投稿を引用し「引き抜き騒動」と報じた、すべての日刊雑誌とニュースサイトの編集部だ。


文面は冷徹だった。

『蛯原翠氏の投稿は事実無根であり、弊社代表・十月の社会的信用を著しく毀損するもの。また「金銭で引き抜ける」との印象を与える記事は、弊社と響塔子との絶対的な信頼関係に基づく経営形態への悪質な業務妨害に該当する。即刻記事を削除しない場合、法的手段に訴える用意がある……』


詩音はその警告書を主要メディア十数社に対し一斉に送付した。時刻は午前六時。各社の法務部が出社する三時間前だ。彼らが朝のコーヒーを飲む頃には、この「ケルベロスの牙」に気づき、戦慄するだろう。


午前八時。詩音が完璧な法の包囲網を敷き終えたタイミングで、書斎のドアが開いた。寝癖だらけの塔子が眠そうな目をこすりながら出てきた。


「……しおん……おはよ……」

「おはようございます、先生」

詩音の声は、もういつもの穏やかな世話係のものに戻っていた。モニターはすでに聖域の環境管理画面に切り替わっている。


「……なんか、しおん、こわいかお、してた……」

塔子は、まだ眠りの縁にいながらも、詩音の闘争のオーラの残滓を感じ取っていた。

「……だれか、きたの?」

「いいえ。ただ、聖域の外でうるさい虫が飛んでいたので」

詩音は立ち上がり、キッチンへと向かった。

「……害虫駆除をしただけです」


「……がいちゅう……」

塔子がついてくる。

「……こわい。むし、きらい。しおん、おねがい」

「はい。承知しています」

詩音は土鍋の蓋を開けた。完璧な米が炊き上がっている。


塔子は、もうそれ以上何も聞かなかった。蛯原翠の名前もSNSの騒ぎも知らない。知る必要もない。ただ、自分の聖域がこの最強の管理者によって守られているという絶対的な事実だけが重要だった。


「先生」

詩音が卵を割りながら尋ねた。

「今日の卵焼きは、甘いのとしょっぱいの、どちらがよろしいですか」

「……あまいの」

塔子は嬉しそうに答えた。


蛯原が「金ならある」と言った。詩音は思う。


(……この聖域で価値を持つのは、お金じゃない)

(……この天才の気分次第で変わる『卵焼きの味』を知っているという情報こそが、価値なのだ)


詩音は完璧な手つきで甘い卵を巻き始めた。


***


蛯原翠は、自分が何を敵に回したのか、まったく理解していなかった。十月詩音は彼女の短絡的なSNS投稿を事前に予測し、完璧に準備し、朝食前には「害虫駆除」として完璧に処理し終えていた。


だが、詩音が予測しなかった第三の手が動いた。


詩音が各社メディアに法的措置をちらつかせた警告書を送りつけてから十二時間が経過した。朝食の甘い卵焼きのおかげもあり、響塔子が書斎で「今日は書く気分」と最高のコンディションで執筆に入っている午後のこと。


詩音は社長デスクでその「成果」を確認していた。案の定、「引き抜き騒動」と煽っていたネットニュースの記事が一本、また一本と削除されていく。弁理士・十月詩音の「業務妨害」という脅しは効果覿面だった。

(……これで、害虫は駆除完了)

詩音は冷たい紅茶を一口、飲んだ。


その時だった。削除記事の情報を追っていたモニターの片隅で、まったく別のトレンドが爆発的な勢いで浮上した。震源は、つくられたばかりの「匿名」のアカウントから投稿された一本の動画だった。


タイトルは悪意に満ちていた。


>『【放送事故級】女王・蛯原翠、謎の美人社長にガチ説教(そして返り討ちで瞬殺)』


詩音の指が止まった。まさか。動画をクリックすると、そこには、昨夜のレストランの光景が映っていた。おそらくスマホによる盗み撮り。画質は荒いが、音声は鮮明に拾われている。


『……あんた、ウチに来なさいよ。三倍、出すわ』――蛯原の傲慢な声。

『……あたしなら、あの陰気なポンコツと違って、毎日シャンパン……』

映像は詩音に誘いをかける蛯原の姿を完璧に捉えていた。

続く、詩音の返答。

『恐れ入りますが、私は株式会社ひびきの代表です』

『私の報酬は金銭ではございません。響塔子の才能を管理するという「権利」そのものです』


極め付けは、あの最後の一撃だった。

『私が管理するに値するのは世界でただ一人。あの、どうしようもない「天才のポンコツ」だけですので』


動画は、詩音が冷徹に背を向け、蛯原がシャンパンを持ったまま呆然と固まる、その「無様」な姿を数秒間映し出して途切れていた。


詩音は無表情で再生を止めた。

インターネットは阿鼻叫喚だった。蛯原の前のSNS投稿「フラれちゃった」は強気なジョークだと思われていた。

だがこの動画の出現で意味が変わった。彼女はフラれたどころか、何歳も年下の女性社長に「凡人のわがまま」と一蹴され、完膚なきまでに叩きのめされていたのだ。


『ヤバすぎだろ、この社長』

『「天才のポンコツ」って言われたい』

『蛯原、ダサすぎ』

『これが、ケルベロスの本体か……』


詩音は投稿した「匿名」アカウントの情報を探った。

(……誰が、これを)

(……まさか、店員? あり得ない)

(……では、他の席の客の誰か? 遠すぎる。考えにくい)

(……あのレストラン……あの場にいたのは……)


詩音の脳裏に一つの顔が浮かんだ。詩音と同席していた、あの編集長だ。彼は蛯原に積年の恨み(締切破りだけではなかったらしい)があった。彼があの歴史的な瞬間をこっそり撮影し、蛯原のSNS投稿に対する「カウンター」として匿名で流したのだ。


(……余計なことを……)

詩音は眉をひそめた。


ガチャリ。

その時、書斎のドアが開いた。塔子が出てきた。


「……しおん、なに、みてるの?」

「……何でもありません。害虫が自滅しただけです」


詩音はモニターを閉じた。だが塔子は何かを察したのか、詩音のデスクに近づき、彼女の手を取った。


「……しおん、おこってる?」

「怒っていません。想定内です」


「……ううん」

塔子は詩音の手を自分の頬に持っていった。

「……しおん、ぼくの、ために、たたかって、くれた」

「……それが、私の仕事ですから」


「……うん」

塔子はうっとりと目を閉じた。

「……しおん、かっこいい」

「……」

「……『てんさいの、ぽんこつ』って、いってくれた」

「……え。聞こえてたんですか?」

「……ううん。いま、みんなが、いってる」


塔子は自分のスマホを見せた。彼女もトレンドを見ていたのだ。


「……っ!」

詩音は顔を赤らめた。あの恥ずかしい告白が全世界に公開された。

しかもそれを、塔子ポンコツ本人に見られた。


「……しおん」

塔子は最高に嬉しそうな顔で詩音に抱きついた。

「……ぼく、しおんだけの、『てんさいの、ぽんこつ』で、よかった……」


詩音は深く深くため息をつき、このろくでもない騒動の唯一の「利益」を抱きしめ返した。


***


詩音が塔子の「天才のポンコツ」宣言に、恥ずかしさと愛おしさを感じていたまさにその裏側で、インターネットは新しい炎を求めていた。蛯原翠という女王の失墜は、そこに投じられた最高の火種だった。


誰が始めたのか。レストランの、あの無様な動画が拡散された数時間後、一つのハッシュタグが生まれた。


『#蛯原せんせい、ご乱心』


最初は、詩音の冷徹な対応を面白がる野次馬たちの遊びだった。だがそのタグは、長年蛯原翠の「悪行」に苦しめられてきた出版業界の人間たちにとって「狼煙(のろし)」となった。


「匿名」という安全な仮面を被った編集者、アシスタント、果てはライバル作家までもが、堰を切ったように「証拠」を投下し始めた。


最初は文字と静止画だった。

『締切三日前に「書けないからバリ行ってくる」と言われた時のライン画面』


だが炎はさらに燃え広がる。「動画」がアップロードされ始めたのだ。


一本は空港のラウンジで撮影されたもの。編集者が泣きながら土下座して原稿を頼んでいる横で、蛯原がシャンパンを飲みながらネイルを眺めている音声付きの動画だった。


また一本はサイン会のバックヤード。「疲れた」「このペン、持ちにくい」と駄々をこね、用意された弁当を一口食べて「まずい」と床に投げ捨てる衝撃的な映像。


『#蛯原せんせい、ご乱心』のタグは日本のトレンド一位を独走した。

世間は知った。響塔子が「天才のポンコツ」なら、蛯原翠は「ただのわがままな暴君」だったのだ、と。


---


その頃。蛯原翠は自分の高級マンションで震えていた。

スマートフォンが鳴り止まない。編集部から。エージェントから。そしてスポンサー契約をしていた宝飾ブランドから。すべて、契約見直しあるいは解除の連絡だった。


「……なんなの、これ……!」


蛯原には訳が分からなかった。自分は少しSNSで、あのムカつく若い女社長をからかっただけ。それなのに、なぜ自分の過去のすべてが暴かれ、炎上している?


彼女はレストランでの、あの動画を見た。そして確信した。


(……あの女だ……! 十月詩音……!)


蛯原の思考は短絡的だった。自分が手を出したから相手もやり返してきた。そう信じた。


(……あいつ、私を社会的に殺すために、私の過去のネタを全部集めて、一気にネットに放流したんだ……! この短時間に! なんてやつ!!)


あの氷のような目。

「凡人のわがままには興味がない」と言い放った声。

あのケルベロスは、自分の主人以外の人間には興味がないが、敵となった者には一切の容赦がないのだ。自分は触れてはいけない「聖域」の逆鱗に触れてしまったのだ。


蛯原は初めて本物の恐怖を感じ、スマートフォンを投げ捨てた。


***


その頃、聖域では。詩音がネットの炎の広がりを冷静に分析していた。


(……編集長の匿名投稿が引き金か)

(……それに乗じた人間たち……日頃の行いが悪すぎると、こうなるという典型)


詩音は何もしていない。ただ最初の「火種」(蛯原のSNS投稿)がマスコミに広がらないよう、手を打っただけだ。

その結果、別の誰かがガソリンを撒き、勝手に大火事になった。詩音はその「自滅」を静かに眺めているだけだった。


「……しおん」

背後から塔子が抱きついてきた。

「……また、こわいかお、してる」

「……いえ。ただ、世の理(ことわり)を学んでいただけです」

「……?」

「……『人を呪わば穴二つ』ということわざの実例ですよ」


詩音はそう言うと、炎上サイトのウィンドウをすべて閉じた。もう見る価値もない。害虫は駆除された。


「さあ、先生。そんな俗世の話は終わりです」

詩音は塔子に向き直った。

「……おやつ、何がいいですか」

「……! えーと、えーと……ぷりん!生クリームつけて!」

「承知いたしました」


蛯原翠が自分のキャリア最大の危機に直面しているその裏で、聖域は今日も完璧に平和だった。



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