第3話:情報屋
20時。
今日も今日とて、『すのうどろっぷ』は閑古鳥が鳴いている。
今日はアルバイトの
彼女はこの店の経営を心配していたが、実は客など一人も来なくても困ることは無い。
わざわざ喫茶店など経営せずとも、「昔の仕事」で作った蓄えで自分一人であれば十分に暮らせる。
自分は天涯孤独の身の上であり、財産を
親の顔は知らずに育ち、孤児院から出なければならない年齢になる前に、自らの足でそこを出た。
理由は矢上自身もよくわからないが、その年齢に達してしまえば規則によって「追い出される」形になるのが、まだ少年だった矢上には何だかとても屈辱に感じられたような気がする。有り体に言えば、気に入らなかった。
海外で特殊警備という名の傭兵稼業を転々とすること約15年。
久しぶりに祖国の土を踏んでも、帰ってきたという感慨のようなものは皆無であった。
気に入らない場所だったが、一応育ててもらった恩はあると思い、稼いだ金の一部を寄附してやるつもりだった孤児院はとっくに廃院となっており、事実として、矢上を知る人間はどこにもいなくなっていた。
歩き疲れ、たまたま目に止まった喫茶店に入り、コーヒーとホットサンドを注文した。
初老のマスターは
それまでの矢上ならば無視したのであろうが、その時はなぜだか素直に応じる気になった。
――話し相手がいないというのは、とてもつらいことなんだよ。
――そのつらさに、本当の意味で耐えられる人間なんていないと思う。
――どこかに世界との接点を持たなきゃいけないよ。
――僕の淹れるコーヒーが、その接点になれば嬉しいよね。
あの日、生まれて初めてコーヒーを美味いと思った。
戦場で飲むそれは、ただの水分で、ただの眠気覚ましで、ただ泥臭い水をいくらかマシにするための黒色と苦みだけでしかなかった。
あの時、なぜマスターに自分の身の上を教える気になったのか。なぜコーヒーを美味く感じたのか。
当時は理由がわからなかったが、今はわかる。
ふと前髪が気になって掻き上げると、指の腹がわずかな隆起を撫ぜた。額に走る一文字の古傷の存在を思い出す。
「……お客様もおられませんし、今日は早めに店じまいですかねえ」
アルバイトの彼女は今日はいない。独り言のつもりであった。
カランとドアに取り付けたカウベルが鳴る。
見ると、腰の曲がった小柄な老婆が一人、杖をついて入店してくるところだった。
「いらっしゃいませ」
老婆は矢上の口上には答えず、トコトコと絡繰り人形のように歩き、ぴょこんとカウンターの椅子に飛び乗った。
「100」と老婆は言った。「本当は200だけどね」
「半額の理由を伺ってもよろしいですか」
「理由は二つ。一つは人質の価値が落ちて、あなたに売りつけるくらいしかできなくなったから。もう一つは同士の
「それでその値段は少々高いように思えますが」
「そうね、でもあなたにとってはお得な買い物だと思うわよ」
どさっと音を立てて、老婆の前に札束が投げ出される。
「確かに」
老婆はさっと腕でカウンターを撫でるようにして札束をローブの中にしまい込むと、クッキーのレシピを教えるような口調で話し始めた。
「ここでアルバイトしてる女の子がいるでしょう。彼女が
老婆が
ドアを開け、外側に掛かっている「OPEN」の木札をひっくり返そうとした時だった。
「お、マスター、こんばんは!」
声をかけてきたのは何度か店に来てくれたことのある中年の男だった。確か市役所に勤めている、50代の男だ。
「こんばんは。お仕事帰りですか?」
「そうなのよ。久しぶりにマスターのコーヒー飲みたくなってさ」
「それはありがとうございます。しかし、今夜は事情がありまして」
「え、何? 閉めちゃうの?」
「申し訳ありません。急に田舎から母が訪ねてきまして……」
矢上は半身をずらし、男性からカウンターが見えるようにした。
そこには情報屋の老婆がちょこんと座っている。
「え! お母さん!」
「ええ、そうなのです。連絡を寄越してから来てくれと、いつも言っているのですがね」
「いやいやいや、そんならいいよ。こっちこそごめんねー。お母さん楽しませてあげてよ! じゃあ、また来るからさ!」
「ありがとうございます。ぜひまたお越しください」
男性を見送り、木札を「CLOSED」にして店内に戻る。
「アタシがあなたのお母さん?」
ホホホ、と情報屋が笑った。
「そんなに不自然ではないと思いますが、お気に
「障るもんですか。少し驚いただけ。息子どころか親も配偶者もいない身ですもの。……ま、その点では、あなたもアタシとそう違わないわよね」
「追加で100万払います。一つお願いをしても?」
「かわいい息子の頼みでも、内容によるわね」
「30分後、この店の電話を使っても構いませんので、現場に警察を呼んでください」
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