第4話:誘拐犯

 意識が覚醒し、最初に知覚したのは右の頬に当たる床の固さだった。

 独特の甘く埃っぽい匂いが鼻をくすぐり、一気に目が覚める。

 開いた視界一面に、灰色の床が映った。


「気付いたか」


 視界の外から投げかけられた声に、そちらへ向こうとして、自分が後ろ手に縛られていることに気付く。慌てて足を動かそうとしても、わずかに膝が動くだけだった。

 床についている右肩が痛い。

 手首と足首を縛られ、無理な体勢でコンクリートの床に転がされると気付いた。


 後ろから足音が近付き、左肩を掴んで上を向かされる。

 配管やコンクリートの梁が剥き出しのままの殺風景な天井が見えた。


 その天井を背に、迷彩服を着た男が心春こはるを見下ろしている。

 無機質な蛍光灯の光が逆光となって、男の顔の細部はわからなかったが、少なくとも心春の記憶に無い人物であることは確かだった。


「…………」

「なんでこんなことになっているのか心当たりがありませんってツラだな」


 心春が何か言葉を発するべきか迷っていると、男の方が口を開いた。


「俺達も、別にお前にも、お前の親父にも恨みはねえよ? ただの仕事さ」

「仕事? 私のお父さん?」


 心春の実家は市内で海鮮問屋を営んでいる。もちろん心春が知らないだけで商売敵もあるのだろうが、このような犯罪まがい――否、明らかな犯罪行為を行うたちの悪い相手など、この市内にはいないと思う。


「仕事って何?」

「聞きてえか?」


 男は立ち上がり、腰の後ろに手を回した。

 ぶんっと空気が鳴り、銀色の何かが蛍光灯の光を反射して、見上げる心春の視界を回転する。

 ぴたり、と尖った切っ先が横たわったままの心春の鼻先に突きつけられた。

 それが、まるで鹿の角のような形をした大きな刃物だと理解し、心春はみぞおちの辺りに氷が滑り落ちたような感覚を覚えた。


「俺達の雇い主はよ、オメエの親父が邪魔なんだとよ。まあでも命まで取るこっちゃねえ。引退してくれりゃそれでいい。引退する時ァ、雇い主に有利な情報をチョイと渡してくれりゃあ万々歳ばんばんざい、と――」


 べらべらと喋る男の言葉は、どれも心春の父親には結びつかない。

 この男は何の話をしているのだろう。


「でもまあ、まがりなりにも政界の大物になってる人間だ。肝のすわり方も普通の人間とは違うだろうってんでな。少し言うことを聞いてもらいやすくしたいワケだ。まずは愛娘の小指でも送りつければ、こちらの本気もご理解いただけるだろう、とね」


「政界? 何のこと? うちのお父さんは海鮮問屋だけど」


 男の舌がぴたりと止まった。ゆっくりと心春と視線を合わせる。その目の中では、己の演説を遮られた不快感と、心春の言葉への疑念と困惑がい交ぜになっていた。


「オメエ、名前は」

「貴方達みたいな怖い人達に教えたくない」

春日井かすがいじゃねえのか」


 桜子さくらこ――心春の脳裏に自身とそっくりな同級生の後ろ姿がよみがえる。


「人違いよ」

「チッ!」


 心春の返答を聞いた瞬間、男は乱暴に舌打ちをして黒いブーツでコンクリートの床を蹴りつけた。

 男の背後で、何人か迷彩服を着た人間が慌てているのがわかる。


「このマヌケども! 間違えてんじゃねえか!」

「し、しかし隊長……!」

「うるせえ! 下にいる奴等にも伝えろ! やり直しだ!」


 何人かの足音が遠ざかっていくと、男は再び心春を見下ろした。


「ああ、クソムカつくぜえ」

「…………」

「思い通りにならねえってのはムカつくよなあ……。俺は我慢できねえ。どうせ顔を見られたからには生かしちゃおけねえんだしよお……」


 ブツブツと言いながら、男は再び腰の後ろの得物えものに手を回す。


「悪く思うなよなあ!」


 男が湾曲した銀色の刃を振りかぶった。

 その鼻先をダーツのような鋭利な影が掠め、横にあった木箱に何かが突き刺さる。


「何だ!?」


 男の視線が追った先、木箱に突き刺さっていたのは金属のデザートフォークだった。


「久しいですね、向井むかいさん。相変わらず、粗暴なお仕事をなさっているようで」

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