『たらふく』

一齣 其日

それは喧嘩の道具じゃない

 夜も深まり酒が体に満ちると、人はどうにも一線を超えやすくなるらしい。

 雑踏の中に、野次馬の人だかり。

 よくよく中心を見ると、若者が二人殴って蹴ってを繰り返していた。

 顔が赤い。その赤みは、殺気だけの物じゃないということは明白だった。

 この街じゃよくあることだ。

 酒が入ると、人間ちょっとしたことで諍いを起こしてしまう。

 飲み屋や夜の蝶を転々とする人間は、余計にそういう気質があった。

 しかし、いざ殴り合いを始めてみれば、素人の喧嘩も甚だしい。

 拳を大きく振って、空ぶった勢いで地面を転がる。

 無茶苦茶に蹴り上げる物だから、蹴った方の足が痛むなんて場面もあった。

 二人を囲む野次馬は止めるでも間に入るわけでもなく、そんな光景を見てゲラゲラと笑っている。

 見世物なのだ。

 喧嘩というのは、心に刺激を与えてくれる。

 毎日を鬱屈と過ごしている仕事人にとって、それは非日常に他ならない。

 だから、目を輝かせるし、薪をくべるように歓声を上げる。

 

 ──愉しくやってんなあ


 鬼武は、人だかりを遠目から眺めていた。

 顔は、呆れを隠そうともしない。

 ああいうのを見ていると、世間の掃き溜めを見ているような気分になる。

 ──もっと、気が晴れることなんていくらでもあるだろうに

 足を止めるまでもなかった。

 どのみち、鬼武は買い出しに出ていただけだ、仕事はまだ残っている。

 道草を食っている場合じゃあない──そう、足のつま先を喧嘩から外そうとした。


 出刃包丁。


 それが鬼武の横目に入った。

 どうやら、若者の頭に血が上りきったらしい。

 よくわからない叫びを上げながら、懐に隠していた出刃包丁を抜いたのだ。

 流石に、相手も驚いたみたいだった。

 わずかに足がすくんで、ギョッとしている。

 間髪入れずに、二人の距離が縮んだ。

「死ねやッッ」

 ガラ空きになった懐に、出刃包丁の刃先が向く。

 胸のど真ん中を抉らんばかりの勢いだった。

 だが、包丁を握る若者の頬にぶち込まれる、でかい拳。

 突風のように捩じ込まれた拳は、そのまま若者を吹っ飛ばした。

 軽く一回転して、若者の体が野次馬の中へと突っ込んだ。

 鬼武だった。

 口から漏れる息は、にわかに汗ばみそうな熱があった。

 かっ開いた瞳孔には、ドス黒い怒りが滲んでいる。

 殴られなかった方も、男の満ちた中身にシャツが弾けそうな背中を見て、尻をついた。

 周囲は水を打ったようにしんと静まり返っていた。


「終わりだ」


 血も引くような低い声だった。

「終わりだって言ってンだ、さっさと散れやッ」

 研ぎ澄まされたナイフのような眼差しが、周囲に剥く。

 もう、誰も逆らえやしなかった。

 たじろぎながらも、人がまばらになっていく。

 尻をついた方も、腰を抜かしながら雑踏の向こうへと消えていった。

 残ったのは鬼武と、地面で伸びている若者だけだった。

「──ばかやろが」

 落ちていた出刃包丁を、鬼武は拾い上げる。

 刃こぼれは見当たらない。

 等身が、鬼武の顔をはっきりと映し返した。

 傷ひとつない鏡のようだった。


────


 若者が目覚めてまず感じたのは、匂いだった。

 鼻をくすぐって、直接腹の虫を刺激するような、いい匂いだった。

 匂いの中に、ほのかながら馴染みのある脂っぽさが含まれているような気もする。


 ──魚、か


 そうだ、これは焼き魚の匂いだ。

 しかし若者は、自分がなぜこんな腹を空かせるような匂いの中にいるのかわからなかった。

 追って、後からやってきた頬の痛みに、思わず顔が歪む。

 指で少し触れるだけでも、体が跳ねそうだった。

 記憶を手繰る。

 確か、些細なことでよくも知らない奴と喧嘩になって。

 殴ってもやり返してくるから、イライラして。

 懐にあったあれを抜いた。

 そして──


「起きたか、ばかやろが」


 遠くから声が聞こえた。

 目を向けると、カウンター席があった。

 そしてその向こう、目つきの悪い30代半ばの男が、厨房らしい場所であくせくと体を動かしている。

 鬼武だ。

「俺の店だ。ぶっ飛ばしたのは俺だったからな、まぁ尻拭いってやつだ」

 店──そう言われて、若者は辺りを見回す。

 水や割り箸が用意されたテーブル席は、確かに大衆食堂らしさがある。

 そこまで大きくはなさそうだ。三十人も入ってしまえば、満杯といっていいかもしれない。

 壁には、お品書きがいくつもかけられている。

 焼き鮭定食に豚汁定食といった定番メニューから、カレーライスやオムライスといったレストランにありがちなものまで種類が豊富だった。

 こちらに鬼武の目線は一切無い。

 手元へと一心不乱だった。

 立ち込める煙から何をしているのかはよくわからない。ただ、匂いからして、仕上げに取り掛かっているっぽく思えた。


「テメエの得物、使わせてもらってるぜ」


 何気なしに、鬼武が口を開く。

『得物』──一瞬ピンと来なかったが、すぐに気づいて懐を探った。

 無い。

 出刃包丁が、無い。

「つ、使わせてもらってるって、どういうことだよアンタ!」

「こういうことだよ」

 すっと鬼武が手元を上げる。

 出刃包丁が握られていた。

 刀身についた魚の脂が、照明をよく照り返していた。

「それ、おれの」

「だからだよ」

「は?」

「この包丁は、人を捌くために使うようなもんじゃあねえンだよ」

 鋭くなった声色に、若者は思わず息を呑んだ。

 色々言い返そうと頭を回しているのに、喉が塞がったように言葉が出なかった。

 そうさせる圧が、鬼武にあった。

「出刃包丁ってのはな、魚を捌くためのもんだ。ひいてはな、人に美味いものを食わせる為に生まれてきたとも言っていい」

 じろりと、厳しい眼差しが若者に向く。

「それを喧嘩で? 人を刺すために? 笑わせるんじゃあねェよ」

「──で、でも」

 若者は、顔を沈める。

「刃物の一つや二つくらい、持っていた方がいいって……包丁くらい、他に持っているやつも」

 この街じゃ、凶器を忍ばせている者は少なくない。

 ヤクザなら、当たり前のように拳銃や短刀を体に忍ばせている。

 カタギでも、そこまではいかなくとも、ナイフやちょっとした暗器くらい持っている奴はいるだろう。

 特に、この若者のような喧嘩っ早い不良上がりは、こうした凶器に憧れを抱きやすい。

 きっと、若者の仲間の中には、同じように何かしらの刃物を身につけている輩がいたに違いない。

「別によお、俺は刃物を持ち歩くことが悪いって言ってんじゃあねェんだわ」

 鋭かった声色が、わずかに緩みを見せた。

 厨房から鬼武が出てくる。

 両手に、煙が立ったお盆があった。

 焼き鯖。

 白飯。

 大根入りの味噌汁。

 品揃えは素朴だ。

 しかし、米の一つ一つが磨き上げられたようにてらてらした白飯や、脂がひしめく鯖の身は、腹の虫を鳴かせるには十分な代物だった。

 鬼武は、それを慣れた手つきで若者の前に置いていく。

 若者は、いつの間にか唾を飲み込んでいた。

「これ……」

「テメエに作った飯だ、たらふく食いな」

「でも、その、金とか──」

「見かけによらず律儀だなあ。今回は俺の奢りだ。その頬の詫びがわりでもあるしな」

 そうやって、鬼武が若者の頬を小突くと、若者の体がまたビクッと跳ねる。

「悪い悪い、やっぱやりすぎてたか。作った手前あれだが、食えそうか?」

「ま、まあ……口に入れる分には、大丈夫だと、思うっす」

 ぶっちゃけた話をすれば、痛かったとしてもこの目の前の飯を頂かないのはもったいなかった。

 こうして鬼武と話している中でも、若者の視線はたびたび飯に向いていた。

「じゃあ、冷めちまう前に食べちまわねえとな」

 鬼武がにっと笑うやいなや、若者はこくりと頷いて手を合わせる。

 そのまま、鯖に白飯にと箸をつけて、がっついた。

 塩気を帯びた身が口の中ではじけ、白米の旨みと絡み合う。


「美味え……」


 鯖と白飯の組み合わせなんて、献立としては無難な組み合わせだろう。

 だのに、当たり前すぎて普段は言わないであろう言葉を、思わず口にしてしまっていた。

 増した勢いで、今度は味噌汁の椀を取った。

 味噌がよく染み込んだ大根は、本来の味のポテンシャルを一段も二段も引き出していた。

 これも鯖に負けず劣らず白米に合う。

 心は飯に釘付けだった。そこに今さっき自身を殴り飛ばした男がいるというのに、構いもせず口に運ぶ。

 

 ──やっぱこの光景は、金にも勝る報酬だわなァ


 鬼武がしみじみとしている内に、皿の上の料理はすっかり平らげられていた。

「ご、ごっそさんでした」

「おそまつさん」

 若者自身、こんなにも飯に食らいつくとは思っていなかったらしい。

 手を合わせた顔に、少しばかりの戸惑いがあった。

「ンまかったろ」

「それは、ま、まあ……」

「テメエの出刃包丁、いい切れ味だったぜ」

 はっとしたように、若者が鬼武の方に向いた。

「さっきも言ったろ、出刃包丁ってのは美味い飯を食わせるために生まれてきたもんだって。今のお前には、その意味がようわかるンじゃねえか?」

 頷くしかなかった。

 鯖が乗っていた皿には、身の残りカス一つついていない骨だけしか残されていなかった。

「俺も喧嘩をやっていたクチだ、喧嘩に刃物を使うなたあ、口が裂けても言えねえよ。だけどよォ、こいつには美味い飯を作ってほしい、って人の願いが込められている。それを無碍にしちゃあ、可哀想だよなあ」

 さっきなら、若者は何か口答えしていたかもしれない。

 でも、今はもうだめだ。

 できない。

 だって、彼の腹に収まったあの飯は、その出刃包丁によって生み出されたのだから。


「……す、すんません、っした」


 自然と頭が下がっていた。

「──分かればいいんだよ。ま、今回は本当にたまたま運が悪かっただけ、かも知れねえがな」

 そう言うと、布で巻かれた先ほどの出刃包丁が、若者の前に差し出される。

「返すぜ」

「いや、でも……」

「お前、家族は」

「は──あ、ええと……お袋が」

「じゃあ、お袋さんに魚の一つでも捌いてやんな」

 に、と鬼武は笑む。

 険しい顔が印象深かったが、こうして笑んだ顔を見ると、どこか暖かさを感じずにはいられなかった。

 一瞬、鬼武の目に、母親の顔が重なったように見えた。

 子供の頃、ワルを何度も繰り返しては叱り飛ばされたり、ゲンコツを喰らったりはしょっちゅうだった。

 でも、帰ってくればいつも暖かい飯が用意してあった。

 いつだって、腹は一杯にしてくれた。

「で、できるか……わかんないっすけど」

 ぎゅっと、包丁を握る。

「た、たまには」

 言っておきながら、若者は頬に熱が増すのを感じていた。


「──それでいンだよ」


 鬼武がおもむろに呟く。 

「わかんなかったら、俺ンとこに来い。教えてやっからよ」

「ちょ、っと……厳しそうっすね、アンタの教え方は」

「人を見た目で判断すんねえ、生意気がァ」

 二人しかいないのに、店の中に笑い声がよく満ちた。

 ひとしきり笑って、そして、若者は出刃包丁を手に取った。

「まあ、でもそうっすね。せっかく美味い飯を奢ってもらったんだ、俺もたまにはなあ」

「その意気さ。そういう心遣いが、飯にとっちゃ何よりの隠し味になンだから、な!」

 鬼武の手が、若者の背中を思い切りに叩く。

 しかし、加減がなかったか、太鼓でも叩いたかのような音が鳴った。

 背中に籠ったこの熱量を見るに、数日は赤い紅葉がくっきりと残るだろう。

 衝撃で、せっかく堪能した飯が口から出なかったのが、せめてもの救いだった。


 ──


 若者が店を後にしたのは、夜が更けすっかり街も寝静まった頃だった。

 出刃包丁を大事そうに抱えて、出る際はまたしっかり頭を下げていた。

 その律儀の良さがあるなら、今度は怒りに任せて刃物を抜くことはないだろう。

 鬼武は店先に出て、背中が見えなくなるまで送った。

「……やっぱ、お代くらいもらっておくべきだったかなあ」

 失笑しながら、ポケットに入っていたタバコを口に含む。

 慣れた手つきで、火をつけた。

 夜空に紫煙が上る。

 ふと、若者の顔が浮かんだ。

 無我夢中に飯を腹の中にかき込んで、最後は満足そうに手を合わせていた。

 その顔だけで、銘柄はいつもと同じなのに、味はずうっと格別だった。

 どうにも人を殴るよりも、こっちの方が性に合うらしい。

 昔じゃあ、絶対に考えられないことだった。

「なあ、おやっさんよ」

 鬼武が、親しげに呟く。


「極道以外にも、男を磨ける生き方ってのはあったみたいだぜ」


 口からたっぷりと溜め込んだ煙を吐くと、短くなった煙草を放り捨てる。

 うんと伸びて、このあとは一眠り。

 もう少ししたら、明日という名の朝日が顔を見せるだろう。

 ちょっとばかし時間は足りないが、少しでも休んでおきたかった。

 人の心も腹も満たそうというのだ、ばっちりなコンディションじゃなきゃ失礼だろう。

 暖簾をくぐる。

 掲げられた店の名は、『たらふく』。

 また、昼にでも覗いてみるといい。

 きっと、涎が滴るような匂いが、あなたを出迎えてくれるはずだ。



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