「ポストの中の声」
をはち
「ポストの中の声」
藤沼村は、時間が止まったような場所だった。
山間にひっそりと佇むこの集落は、20年前、藤沼小学校の廃校を境に、
まるで生命を吸い取られたかのように衰退していった。
住民は一人、また一人と去り、今では一軒の家にも明かりは灯らない。
かつて子どもたちの笑い声が響いた校庭は、雑草に埋もれ、錆びたブランコだけが風に揺れる。
だが、この廃村にただ一人、足を踏み入れる者がいた。
郵便配達員、大隈巖だ。
大隈は毎週、決まった時間に廃校のポストへ向かう。
ポストは校門の脇にあり、赤い塗装は剥がれ、錆が浮いている。
そこに、彼は一通の手紙を投函する。
差出人は鶴田あゆみ。宛先もまた、鶴田あゆみ。住所は「藤沼小学校」。
20年前、下校中に神隠しに遭った少女の名だ。
あゆみは忽然と姿を消し、ランドセルだけが崖の下で発見された。
以来、彼女の行方は誰も知らない。
手紙は5年前から届き始めた。
週に一通ではあるが、それが途切れること無く毎週届き、今では200通を超える。
内容はいつも同じだ。
震えるような筆跡で、こう書かれている。
「わたしをはやくいえにもどして。どこまではいたつするの?」
大隈は淡々と配達を続ける。
廃校のポストに手紙を入れるたび、金属の擦れる音が静寂を切り裂く。
だが、彼は決して手紙を開かない。
それがルールだからだ。
かつての校長、保科亀壱は、便宜上その手紙を保管している。
古びた職員室の金庫に、封の切られていない手紙が積み重なる。
保科は言う。
「これは、あゆみちゃんの声だ。彼女はまだ、どこかで生きているのかもしれない」と。
警察は当初、事件の再捜査に乗り出した。
神隠しから20年、手紙は新たな手がかりか、あるいは悪質な悪戯か。
だが、捜査は進展せず、いつしか警察も関心を失った。
手紙はただ、届き続ける。誰も読まない。誰も答えられない。
崖の下の秘密
20年前のあの夕暮れ、藤沼村はまだかすかな活気を保っていた。
鶴田あゆみ、10歳は、妹のかなえ、8歳と一緒に下校していた。
姉妹はいつも手を繋ぎ、笑いながら家路を急いだ。
だが、その日は違った。
かなえが突然、顔を赤らめて立ち止まった。
「お姉ちゃん…おしっこしたくなっちゃった…」と。
かなえは恥ずかしそうに崖の脇の茂みにしゃがみ込み、あゆみに囁いた。
「誰にも言わないでね。約束だよ。」
あゆみは笑って頷き、妹を見守った。
その時、遠くから自転車のベルが聞こえた。
郵便配達員の大隈巖だった。
彼は村の顔なじみで、いつも笑顔で手紙を届け、子どもたちに飴をくれる優しいおじさんだった。
だが、この日の大隈はどこか様子が違った。
疲れ切った顔で、汗に濡れた制服を着ていた。
「あゆみちゃん、一人でこんなとこで何してるんだ? 危ないぞ。」
大隈の声は穏やかだったが、どこか刺々しかった。
あゆみは妹との約束を守るため、口を閉ざした。
黙ってそっぽを向いたその態度が、大隈の神経を逆撫でした。
「なんだ、その態度は? 俺を馬鹿にしてるのか?」
彼の声が低く、怒りに震えた。
次の瞬間、鈍い音が響いた。
大隈の手があゆみの頬を叩き、彼女の小さな体は崖の斜面に崩れ落ちた。
かなえは茂みの中で息を殺し、震えながらその光景を見ていた。
あゆみは動かなくなった。
大隈は慌てた様子で彼女の体を郵便鞄に押し込み、ランドセルを崖下に投げ捨てた。
そして、何事もなかったかのように自転車を漕ぎ、夕闇の中へ消えた。
かなえは凍りついた。
姉が消えた瞬間を、理解できなかった。
恐怖と混乱の中で、彼女は家に逃げ帰った。
だが、誰にも言えなかった。姉が殴られた理由が、自分のせいだと思ったからだ。
15年の沈黙
月日は流れ、かなえは成長した。
だが、心の傷は癒えなかった。
姉の失踪は「神隠し」として村の伝説になり、誰も真相を追わなくなった。
かなえだけが知っていた。あの日の大隈の目。あゆみを叩き、鞄に詰めた冷酷な手。
あの記憶は、かなえの胸に黒い影を落とし続けた。
15年目の夏、かなえは決意した。
姉の名を借り、手紙を書き始めた。
「鶴田あゆみ」として、姉がまだ生きているかのように。
手紙の内容は、大隈にしかわからないメッセージだった。
「わたしをはやくいえにもどして。どこまではいたつするの?」
それは、姉の声であり、かなえの叫びだった。
大隈に罪を認めさせ、自首を促すため。
彼女は毎週、手紙を書き、藤沼小学校の住所に送り続けた。
大隈は手紙を受け取るたび、顔を強張らせた。
だが、彼はとぼけた。
「ただの悪戯だろう」と笑い、配達を続けた。
かなえの手紙は増え続け、200通を超えた。
廃校のポストは、まるで姉の墓標のようにそこに佇む。
最後の手紙
ある晩、大隈はいつものように廃校へ向かった。
月明かりの下、ポストに手紙を入れる瞬間、彼は異変を感じた。
背後で、かすかな足音。
振り返ると、誰もいない。
だが、校庭のブランコが、風もないのに揺れていた。
彼は急いで自転車に乗り、村を後にしようとした。
その時、暗闇から声が響いた。
「大隈さん…わたしを、どこまではいたつするの?」
大隈は凍りついた。
声はあゆみにそっくりだった。
だが、そこに立つのは、かなえだった。
彼女の目は、15年前のあの夕暮れと同じ恐怖と憎しみに満ちていた。
手には、開封されていない200通目の手紙。
封を切ると、中には一言だけ書かれていた。
「あなたは、知っている。」
大隈の顔から血の気が引いた。
彼は叫び声を上げ、自転車を放り出して走り出した。
だが、どれだけ走っても、背後には足音が続く。
ブランコの軋む音、子どもの笑い声、そして、あゆみの声。
翌朝、大隈の自転車が崖下で発見された。
だが、彼の姿はどこにもなかった。
藤沼小学校のポストには、新しい手紙が一通。
差出人は、鶴田あゆみ。宛先もまた、鶴田あゆみ。
「もう、届いたよ。」
終幕
藤沼村は今も静寂に包まれている。
廃校のポストは、錆びついたままそこに立ち、誰も近づかない。
だが、村を訪れた者は言う。
月夜の晩、校庭でブランコがひとりでに揺れ、少女の声が聞こえると。
「わたしを、はやくいえにもどして…」
「ポストの中の声」 をはち @kaginoo8
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