猿酒

@daibonjin

猿酒

猿酒[名]・猿が木の窪みなどに貯めた木の実が発酵し、偶然に生まれた酒のこと。


水溜まりにそんな言葉が浮かんでいる。


そうして私は猿酒という言葉を聞くと、少し憂鬱になる自分が心のどこかにあぐらをかいて座っているのに気づいた。


おかしい、不可解だ。そうひとりごちながら、人通りの多いオフィス街を。朝日に照らされて歩く。


一度浮かんだ問いというのは、まとわりつく蜘蛛の糸のようで、うざったらしく中々離れてくれない。


そこで試しに世の往来を行き交う人々をつかまえて聞いてみることにした。


「すみませんが、猿酒という言葉を聞いてどう思いますか?」

 

するとセカセカという音が聞こえてきそうな程に忙しないリーマン男が不機嫌そうな声音で答える。

 

「なんだい、それは?悪いが私は忙しいんだ、友人にでも聞けば良いだろう。」


彼はそう答えると引き止める間もなく足早に行ってしまった。残念だ。


他の行き交うリーマン達にも聞いてみようかと考えたが、よくよく考えてみれば忙しい彼らには、こうして思索に耽る時間などありはしないだろうと思いやめておく。


忙しい彼らには聞けないとなれば、忙しくなさそうな人間を探さざるをえない。


そこで思いついたのは友人のKだ。彼は最近になって学校もやめたとの噂があった。きっと暇をしているだろう。そう思って彼の家までテクテクと会いに行った。


昔懐かしの大きな日本家屋。錆び付いた呼び鈴を数回鳴らしてみるとKが出てくる。彼は昔から変わらず脳天気な笑顔で話しかけてくる。


「久しぶり、こんなド平日の真っ昼間から何しに来たの?」


「いやなに、少し質問があって。Kは猿酒を知っているか?」


「何となくは知ってるよ。それがどうしたの?」


「僕はあの言葉を見ると無性に憂鬱になるのだが、なぜだと思う?」


するとKはいつもの様に大口を空けて笑った。何が彼の琴線に触れたのだろうか?相変わらずつぼの浅い男だ。Kはひとしきり笑った後にこういった。


「そんな事で憂鬱になる様なやつはばかだよ。」


露骨に疑念と苛立ちを浮かべた顔をした私を見て、Kは慌てて付け加える。


「いや、ばかというのは悪い意味じゃなくて。考えたがりで悲観的な君のことだから、きっと望まれず偶然に産まれた自分に価値などあるか。なんて事を考えたんでしょ?それがばかだと言っているんだよ。」


それは悪い意味ではないか?とも思ったが、このまま話していてもきっとKにはわかって貰えないのだろうと思い、世間話を少しした後にまたどこへともなく歩き出そうとしたその時、私の背にKがなぜか優しい調子で声をかけてくる。


「そういえば君の名前、なんだったっけ?」


私は答えずにその場を後にした。

答えたくなかったのか、それとも単に分からなかったのか。どちらだったのだろう。


どのくらいの時間歩いていただろうか。気が付くと辺りは既に夜闇に染まっていた。街灯の明かりに照らされた化粧品の宣伝ポスターに羽虫が群がっているのを見て、ひとり思う。


名前、ラベル、タグ、記号。意味や価値なんてものは結局、周りからの観測でしかないのかもしれない。


『友人のK』というラベルを付けられた人間が、明るく「ばかだ」と言うことに、少しのおかしさを感じる人間もいれば、全くもって何を言っているのか分からないという人間もいるだろう。


生きることに意味はあるか。その死に価値はあったのか。人は意味を求めずに生きられるほど強くはない。


今たった一人、思案する私に意味があるのなら、それは私の価値ではなく、私を読む者が感じる価値だ。


そこまで考えた時に私は足下に水溜まりがある事に気づいた。いや、その表現は正確では無い。正しくは私の足が水となっていることに気づいたのだ。


突然訪れた異変、焦りで頭が埋め尽くされる、なんて事にはならず私はただ、爪が、指が、鼻が、耳が、毛が、段々と水になっていくのを眺めた。


そして私はただ水溜まりに浮かぶ眼となった。

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