最終章 虚ろな自由、そして残された影
拓海の「もう、遅かったんやな」という言葉が、私の心に深く刻み込まれて以来、私の世界はますます細い糸で繋がっているようだった。彼との関係が完全に途切れて、私には学校での「完璧な優等生」という仮面を維持する気力もなくなっていた。ただ、空っぽの笑顔を貼り付け、日々をやり過ごすだけ。友人たちの明るい誘いも、もう私の耳には届かなかった。彼らが私に向ける無垢な光が、かえって私を焼くように感じられた。私の心は、先生という名の深淵へと、ますます深く沈んでいった。
「先生がいなければ、この地獄から抜け出せない」
その思いだけが、私を突き動かす唯一の理由だった。空き教室での密会は、私にとっての最後の聖域であり、同時に私を現実から隔絶させる鎖でもあった。先生の腕の中で彼の体温を感じ、彼の口づけを受け止める時だけが、私が唯一、自分という存在を肯定できる瞬間だった。それは「愛」だったのか、「依存」だったのか、もはや私には区別がつかなかった。ただ、そこだけが私の存在を許す場所だった。
家庭の闇は、もはや私を飲み込む寸前だった。義母の宗教は、狂気としか言いようのない領域に達していた。
「あなたは、神に選ばれた子。この身体も、神の栄光のために捧げなさい」
接待の要求は、もはや遠回しなものではなく、具体的な日時と場所を告げられるようになった。義兄の気配は、夜ごと私の部屋を包み込み、ドアノブが回る音は、もはや私を怯えさせるものではなく、諦めと虚無を呼び起こすものとなっていた。私は、もう泣くことすらできなかった。私の身体は、私のものではなくなっていた。私の心も、誰かのものになっていた。この汚辱から逃れるには、どうすればいいのだろう。自由とは、一体どこにあるのだろう。
先生は、そんな私を優しく抱きしめ、何度も
「君は、独りではない」
と囁いた。その言葉が、私の心を一時的に慰める。しかし、先生は家庭を持つ身。私をこの地獄から完全に救い出すことはできない。彼の愛は、私にとって甘美な麻薬であり、現実を忘れさせる一時的な自由であったが、その実、私をさらに深い「束縛」へと閉じ込めていく檻だった。先生がいなければ、もう私は呼吸すらできない。彼の存在そのものが、私の命を繋ぎ止める唯一の、そして最も強固な鎖となっていた。
そして、季節が秋から冬へと移ろい、本格的な寒さが訪れたある日。
私は、突然、姿を消した。
学校の誰にも、家族の誰にも、そして先生にも、私は何も告げなかった。ただ、いつも通っていた旧校舎の空き教室の机の上に、一枚の紙が残した。何の言葉も書いていない、ただの白い紙。それだけが、私の存在の最後の痕跡。私の携帯も、部屋の荷物も、すべてがそのまま。まるで、私が最初からこの世界にいなかったかのように。
あの子が消えたのは、冬の始まりだった。 数週間後、警察の捜索も虚しく、彼女の遺体が河川敷で発見されたことを知らされた。ひっそりと、まるで最初からそこに流れ着く運命だったかのように。その報を聞いた瞬間、私の世界は、音を立てて崩れ落ちた。あの冷たい水の匂いが、今も脳裏に焼き付いている。
進路室で初めて彼女と出会ったのは、春の柔らかな日差しが差し込む頃だった。あの時、彼女の纏っていた春風を感じる新緑のような花の匂いが、今も脳裏に焼き付いている。彼女が求めた「自由」は、結局、どこにあってなんだったのだろう。あの時見た彼女の瞳の奥に宿っていた虚ろな光は、最後の瞬間、何を映していたのだろう。
私は、あの空き教室の机に残された白い紙を思い出した。彼女はそれだけを残し私を置いてこの世を去った。空白の紙。それは、私への無言の問いかけだったのか、それとも、もう何も言葉にできないほどの絶望だったのか。私は、君の心を救う教師でありたかった。しかし、君自身の倫理観という名の「束縛」と、君への止められない「愛」という名の誘惑の中で、私は君を完全に救い出すことができなかった。私の言葉は、君を救うどころか、結果的に君を破滅へと導いてしまった。その罪悪感が、私を深く、深く苛む。
季節は流れ、新学期が始まった。教室には新しい生徒たちの活気と、若々しい匂いが満ちていた。しかし彼女との秘密の関係が明るみに出ることはなかった。社会的な制裁を受けることもなく、私は教師の職も、家庭も失うことはなかった。だが、彼女が残したその秘密が、私を一生涯「束縛」する鎖となった。夕暮れの旧校舎を通り、あの空き教室を見るたび、私は彼女の虚ろな瞳を思い出す。あの春の日に彼女から感じた、新緑のような花の匂い。今となっては、ただの苦い記憶として私の心を締め付ける。
私たちが過ごした日常は、何事もなかったかのように日々を刻んでいく。夕暮れの河川敷には、今も風が吹き、草を揺らす。古い空き教室の前を、生徒たちが笑いながら通り過ぎる。誰も、かつてそこに、深い絶望の中で「自由」を求めた少女がいたことを、知らない。そして、彼女の死が残した、消えることのない影を、私だけが抱えながら、虚ろな日常を生きていく。
虚ろな自由 佐々木 @Tzinkle
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