『月が……綺麗、ですね』
Naga
『月が……綺麗、ですね』
映画館を出ると、秋の夜気が頬を撫でた。
「あの、面白かったですね」
隣を歩く柏木さんが言った。少しぎこちない口調。でも、それが彼らしい。
私は頷きながら、彼の横顔をちらりと見る。真面目そうな黒縁眼鏡、きちんと整えられた髪。第一ボタンまで留められたシャツ。全然垢抜けていないけれど、それが逆に誠実さを感じさせる。
付き合って五ヶ月。婚活パーティーで知り合った彼とは、月に一、二回こうしてデートを重ねてきた。
「特別な日じゃない普通の日も、こうして一緒に過ごせたらいいですね」
彼が急にそんなことを言った。
「そうですね」
私は曖昧に答えた。
看護師の私は夜勤もあって、休みが不規則だ。普通の日に会うのは、なかなか難しい。でも、彼の言いたいことは分かる気がした。
駅前のイタリアンで向かい合って座る。
柏木さんはメニューを真剣に見つめている。眉間に皺を寄せて、人差し指で項目を一つ一つなぞっている。その仕草がなんだか教科書を読む小学生みたいで、私は思わず口元を押さえた。
「僕、このカルボナーラにします」
「私はペスカトーレで」
彼がウェイターに注文する様子を見ていると、なんだか微笑ましくなる。丁寧に、はっきりと、一言一句間違えないように。
前回のデートで、「後輩に仕事を教えるのが好きなんです」と照れくさそうに話していたのを思い出す。きっと、そういう真面目さが職場でも評価されているんだろう。
オーダーを済ませると、会話が途切れた。いつものことだ。彼は饒舌なタイプではない。
私だって、病院では「立花さん、頼りになります!」と後輩たちに慕われる姐さん気質を発揮しているけれど、プライベートは違う。部屋はぐちゃぐちゃだし、休みの日はストレス発散で同僚たちと飲んでカラオケで騒ぐことも多い。
でも、こうしてデート中は猫をかぶって静かにしている。まぁ言ってみれば、お互い様だ。だから柏木さんの沈黙も、それほど苦にはならない。
ただ、最近思う。この関係は、これでいいのだろうか。この沈黙の先に、私たちの未来はあるのだろうか。
「あの」
彼が口を開いた。
「今日は、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
また沈黙。
私はグラスの水を一口飲んだ。彼はテーブルの上で指を組んだまま、ずっと何か考え事をしているように見える。
机のわずかな振動にふと目を落とすと、彼がテーブルの下で足を揺らしているのが見えた。貧乏ゆすりだ。私の視線に気づいたのか、彼は慌てて手で膝を押さえつけた。
食事を終えて店を出ると、彼が言った。
「あの、もう少し、話しませんか」
彼の目が私を見ていた。いつもより少し、真剣な眼差し。
「いいですよ」
川沿いの遊歩道を歩く。街灯が等間隔に並び、川面を照らしている。平日の夜だからか、人影はまばらだ。
彼の足取りがいつもより遅い。歩幅も小さい。何か言いたいことがあるのだろうか。私の心臓が、少しだけ早鐘を打ち始める。
彼は時々立ち止まり、川を見つめては、また歩き出す。そのたびに口を開きかけて、閉じる。眼鏡を指で押し上げる。ポケットに手を入れたり、出したり。
こんなに落ち着きのない柏木さんを見るのは初めてだ。
可愛い——なんて、思ってしまう自分がいる。いつもは几帳面で真面目な彼が、こんなに取り乱している。それがなんだか、愛おしい。
「あの、立花さん」
やっと彼が口を開いた。私の苗字を呼ぶ声が、少しだけ震えている。
「はい」
「僕、その、言いたいことが、あって」
彼の額に汗が滲んでいる。十月の夜なのに。ハンカチで拭おうとして、ポケットを探る手がもたついている。
「ゆっくりでいいですよ」
私は微笑んだ。
◇
食事を終えて店を出たとき、僕は思い切って言った。
「あの、もう少し、話しませんか」
顔がこわばっているのが、自分でもわかる。
「いいですよ」
立花さんは少し驚いた表情をした後、小さく微笑んだ。
僕は川沿いの遊歩道を、立花さんと並んで歩き始めた。
今日こそ言おう。そう決めて、デートに臨んだ。映画の間も、食事の間も、ずっとそのことばかり考えていた。
立花さんと付き合って五ヶ月。もう、はっきりさせなければいけない。結婚を前提に付き合っているのだから。
彼女は看護師で、夜勤もある忙しい仕事をしている。「普通の日に会うのは難しい」と、以前言っていた。それでも、僕は彼女と普通の日を一緒に過ごしたい。朝起きて、おはようと言い合える関係になりたい。
でも、僕には恋愛経験がない。会社では「柏木は真面目で仕事ができる」と評価してもらえている。困っている後輩の相談にも度々乗ってきた。それに、これでも一応、係長への昇進を打診されたこともある。
まぁ、「僕はみんなをまとめるより、一人一人と対等に向き合う方が向いているんです」と断ってしまったのだが。
ただ、いくら職場で評価されていても、恋愛は別だ。僕には女性との付き合い方は分からない。好きな人ができても、結局いつも自分の気持ちを伝えられず、ただの「いい人」で終わってしまう。
でも立花さんは、口下手な僕にもいつも優しく接してくれて、何度もデートに応じてくれている。彼女を失いたくない。だけど、まだ一度も「好き」と言えていない。
このままでは、また同じ失敗を繰り返してしまう。今度こそ、ちゃんと伝えなければ。
どうすればいいのか分からなくて、とにかく僕は調べた。「告白 言葉」で検索して、出てきたのが、あの有名な言葉だった。
夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した、という話。本当かどうかは分からないけれど、遠回しに気持ちを伝える、日本人らしい表現だと思った。
今夜は満月。絶好の機会だ。係長への昇進を断ったときよりも、今の方がずっと緊張している。
「あの、立花さん」
声が少し上ずった。落ち着け。彼女は待っていてくれる。
「はい」
彼女が優しく応えてくれる。その声に、少しだけ勇気をもらう。
「僕、その、言いたいことが、あって」
ここまでは、なんとか言えた。でも、ここからが本番だ。
「ゆっくりでいいですよ」
彼女が微笑んでいる。その笑顔を見て、僕は決めた。
「あの、月が」
言葉が引っかかって出て来ない。喉が渇いている。唾を飲み込む。もう一度。
「月が……綺麗、ですね」
やっと言えた。でも、途中で詰まってしまった。こんな言い方で、伝わるだろうか。
彼女は少し驚いた顔をして、空を見上げた。
◇
月?
私は彼の視線を追って、空を見上げた。確かに、満月が煌々と輝いている。
「本当ですね。綺麗な月」
私がそう答えると、彼は困ったような顔をした。眼鏡の奥の目が、泳いでいる。
あれ? 何か変だ。彼の表情が、さっきまでとは違う。真剣すぎる。
そして、気づいた。
——月が綺麗ですね。
あの、有名な言葉。
彼は、告白してくれたんだ。
鼓動が速くなった。顔が熱くなる。彼の顔も真っ赤だ。額の汗が、街灯に照らされて光っている。
「あ、あの」
私も声が震える。彼が私を見ている。不安そうな、でも真っ直ぐな眼差し。
ああ、もう。こんなに一生懸命な人を、放っておけるわけがない。
「私も、月が、綺麗だと思います」
そう答えると、彼の顔がぱあっと明るくなった。子供みたいに、無邪気に。
しばらくして、彼は我に返ったように真剣な表情に戻ると、もう一度川を見つめながら、言葉を続けた。
「あの、僕、ずっと思っていたんです。立花さんと、こうして月を見ながら歩けるような、そういう関係になりたいって」
え?
「えっと、その、特別な日じゃなくて、普通の日に、ただ一緒にいられるような。朝起きて、おはようって言い合えるような。そういう、日常を一緒に過ごせるのが、立花さんだったらなって。それが、僕にとっての、月が綺麗ですね、の意味、で」
彼は顔を真っ赤にして、たどたどしくそう言った。
ああ、そうか。
彼は、恋愛感情だけじゃなくて、人生を共に歩むパートナーとしての想いも、込めてくれたんだ。
婚活で出会った私たち。最初から結婚を前提にしていた。だからこそ、この言葉には、二つの意味があったんだ。
「あなたと一緒に月を見られる毎日が欲しい」
それは、「愛してる」であり、「一緒に暮らしたい」でもある。
胸が、温かくなった。
「私も、です」
私は彼の手を、そっと握った。
「毎日、月が綺麗ですねって、言い合える関係がいいです」
彼の手が、ぎゅっと握り返してくる。少し震えている。
「本当、ですか?」
「本当です」
私が微笑むと、彼はまた子供みたいな顔で笑った。
それから私たちは、言葉少なに川沿いを歩いた。
でも、もう沈黙は怖くない。
この人と一緒なら、静かな夜も、慌ただしい朝も、きっと大丈夫だ。
川面に映る月が、ゆらゆらと揺れている。
街灯の明かりが、二人の影を長く伸ばす。
風が、二人の間を優しく通り抜けていく。
そして、頭上には満月が、静かに、確かに輝いていた。
まるで、二人の未来を照らすように。
了
『月が……綺麗、ですね』 Naga @Naga3003
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