第一話 儚き再会

 扉を開けると、懐かしい香りが流れ込んできた。

 聖都の乾いた空気とは違う、柔らかな清めの香。だがその奥に、かすかな甘さが混じっている。

 ――花の香り。


 そして、まるで待ち構えていたかのように、紫の影が抱きついてきた。


「お帰りなさい、リリエス様……っ!」


 細い腕が首にまわり、伝わってくる体温に思わず息を呑む。


「……シャルン、落ち着きなさい」

「だって……ずっと会いたかったんですもの」


 紫の髪が頬をかすめた。柔らかく、少しくすぐったい。

 胸元に顔をうずめたまま、シャルンはしばらく動かない。

 やがて腕の力がゆるみ、照れくさそうに顔を上げたかと思えば、再び首筋に額を寄せて息を吸い込んだ。


「うふふ、リリエス様の匂いがします。他の女の匂いは……しませんね」

「こら、変なところ嗅がない。汗くさいだろ」

「そんなはずありませんわ。リリエス様はいつも、花弁と雨の匂いがします」

「雨の匂い?」

「はい。優しくて、安心する匂いなんです」


 そんなことを恥じらいもなく言うものだから、思わず顔をそむけた。

 彼女はいつもそうだ。命令には忠実で、任務には冷徹なのに、心の距離だけは誰よりも近い。

 人懐っこく、境界をあっさり越えてくる。


「もう、君はいつだって変わらないな」

「変われませんよ。だって、リリエス様がわたくしを変えてしまったんですから」


 言葉に詰まった。

 その声音には、たしかな愛しさと痛みが混じっていた。

 あの戦乱の夜、廃墟の中で見つけた小さな命。

 失うことばかりを知っていた少女が、いまはこうして笑っている。


「最近の調子はどうだい? 任務はいそがしくない?」

「ええ、それなりには。異端審問官の第七位としては、仕事が少ない気もしますが」

「……そうなの? 一応、悪い知らせを持ってきたつもりなんだけど」

「はい?」


 小首をかしげる彼女に、封蝋の施された白い手紙を見せる。

 封には教皇の印。彼女の瞳がわずかに揺れた。


「……これは、教皇様から直々の任務ですか? 宛名は——リリエス様のようですが」

「ああ。だけど、君への言伝もある。ボクが追っていた教団——今は【リリウム・ノワール】だったかな。その追跡と殲滅の任を、君に引き継いでほしい」


 教団の名を出した瞬間、シャルンの瞳から光が消えた。

 息を呑むように肩が揺れ、次いで静かに呼吸を整える。


「ボクが五年も追っていまだ尻尾も掴めない連中だ。何が目的で、いつから存在するのかさえ分からない。彼らを野放しにするとどうなるかは、君も知っているだろう」


 亡国の王女。

 それが、かつての彼女の名残。

 そして、その国を滅ぼしたのは——ほかならぬ【リリウム・ノワール】の勢力だった。


「……お気遣いありがとうございます。しかし、これも務めですから。むしろ、リリエス様には感謝しなければ。まさか貴女様から直々に復讐の機会を与えていただけるなんて」


 その笑みには、微かな震えと、底に潜む鋭さがあった。


「正直、あまり君をこの任に向かわせるのは気乗りしない」


 ぽつりと零れた言葉に、シャルンは眉を寄せた。


「あら? それはどうしてですか? ……まさか、まだわたくしの技量を信じてくださらないのですか?」


 悲しげに伏せた瞳。震える声。

 本気で傷ついているようで、リリエスは慌てて彼女の肩を掴んだ。


「ち、違うんだ。ただ、その、君の身が心配で……」

「あらあら、そんなにわたくしが大事だったのですか?」


 次の瞬間、あっさりと普段の調子に戻る。

 挑発的な笑み。目元だけが楽しげに揺れる。


 弄ばれたのか? ——いや、いつもの彼女だ。

 気を抜けばすぐ心を読まれる。まったく、敵わない。


「ショックを受けたのは本当ですよ。危うく魔力制御が乱れて辺り一帯を更地にしてしまうところでした」

「冗談にもならないことを言わないでくれ。それと、心を読むのもね」

「ふふふ、リリエス様が無防備だからですわ」


 艶やかに微笑む。その仕草ひとつひとつが、かつて王女だったことを思い出させた。

 人を惹きつけ、掌で転がすことに長けた生まれつきの才。

 そしてその才を、今は審問官として、冷徹な判断に変えている。

 何より特筆するべきは、先見の明——彼女の場合はもはや未来予知の類か。

 ボクの知る中でも、未来を見通す力を持つのは、彼女を含めて二人だけだ。


 リリエスは軽く息を吐き、テーブルに肘をついた。

 シャルンもそれに倣って、対面に腰を下ろす。

 いつの間にか、テーブルには二つの湯気が立つカップが置かれていた。


 ハーブティーの香りが漂う。

 湯気が揺れ、紫の髪の隙間をすり抜けて消えていく。

 この部屋に満ちる香りは、彼女そのもののようだった。


「おいしい」

「ありがとうございます」


 彼女の所作はいつもながら流麗で、どこか儚げですらあった。

 穏やかな沈黙が流れる。

 やがて、カップの底が見える頃、シャルンが口を開いた。


「それで、リリエス様の次の任務とは?」

「……ああ、それがね。勇者の護衛をすることになったんだ。……というより、監視かな」

「勇者? あの選定を受けた者ですか?」


 無言で頷く。噂はすでに彼女の耳にも届いているようだ。


「どうやら、魔王討伐の旅をしているらしい。明日には一行がここに訪れる。それに同行し、必要とあれば手を貸せと」

「あまり気乗りしない様子ですね」

「ボクのような存在には、勇者という存在は眩しすぎるんだよ。それに必然、彼の傍では聖女の仮面を被り続けることになる。堅苦しくて窒息死してしまいそうだ」


 愚痴をこぼすと、シャルンは静かに微笑んだ。


「それでも、貴女様は行かれるのでしょう? “正義”を見届けるために」

「ああ。彼が——勇者が、正義を以て剣を振るい、人々を導く存在ならば、ボクはその覚悟を問わねばならない」


 いつの間にか、彼女は背後に立っていた。

 次の瞬間、背中に柔らかな温もりが触れた。

 甘い香りとともに、シャルンが囁く。


「それは聖女としての導きですか? それとも、審問官としての救い?」


 その声音には誇らしさと、どこか寂しさが混じっていた。


 振り返ると、彼女の瞳には痛みを隠すような光が宿っていた。


「……すまない、シャルン。君に心配をかけるつもりはなかったんだ」

「分かっています。ですが、わたくしはいつでも貴女様のお側にいます。それを、どうかお忘れなきよう」


 リリエスは息をついた。

 いつの間にか、慰められている自分に気づき、苦笑する。

 それでも、不思議と心が軽くなっていた。


「……そろそろ行かないといけませんね」


 シャルンは静かに立ち上がる。笑っているのに、声がかすかに掠れていた。


「もう行くのかい? まだ夜は長いのに」

「ええ。けれど、次の足跡を見逃したくありませんから」


 彼女は振り返り、柔らかく笑った。

 燭台の光が紫の髪に淡く反射する。

 その姿に、かつて王女だった頃の面影がよぎる。


「君は、強くなったね」

「……リリエス様がわたくしを拾ってくださらなければ、いまごろ何も残っていませんでした」

「でも、あの時、助けてほしいと願ったのは君自身だ。だから、今の君は君の力でここにいる」

「そうでしょうか?」


 シャルンは小さく笑う。その笑みには静かな影があった。


「わたくし……あの日からずっと考えていたんです。『救い』って、奪われる側の言葉だと思っていた。でも今は、与える側も同じくらい、傷つくものなんだと」

「……シャルン」


 その声に、言葉が続かなかった。


 彼女は一歩近づき、膝をつくと、リリエスの手を両手で包んだ。

 温かい。その温もりが今にも離れてしまうようで、思わず握り返す。


「必ず戻ります。教団が何を企んでいるのか突き止めて——貴女様の道を阻む者を討ちます」

「……無茶はするな」

「ふふ、そう言われると、したくなってしまうんです」


 軽やかに笑う声の奥には、強い意志が宿っていた。


「リリエス様」

「ん?」

「次にお会いするとき……もしも、わたくしがもう“わたくし”でなかったとしたら、その時は貴女様の手で終わらせてくださいね」


 意味を問う間もなく、彼女は立ち上がる。

 扉へ向かう足取りは静かで、迷いがない。


 扉が開くと、夜の冷気が流れ込んだ。

 その瞬間、シャルンはもう一度だけ振り返り、淡く微笑む。


「——たとえ世界中が貴女様の敵となろうとも、わたくしだけは、永遠に貴女様の味方です」


 その言葉を残して、彼女の姿は闇の中に消えた。

 閉じた扉の音が、ひどく遠く響いた。


「……シャルン、君は一体何を見たというんだい?」


 リリエスは小さく息を吐く。

 冷めかけたハーブティーに映る自分の顔が揺れ、その中に微かな記憶が蘇る。



 ——そういえば。

 教皇の文に、もう一つだけ書かれていた。


【リリウム・ノワール】は“神の子”を探している、と。


 神の子。

 その意味も、目的も、まだ分からない。

 ただ、胸の奥に残るのは、拭えない不安だけだった。


 夜が、静かに沈んでいった。



 

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殺戮のリリエスー異端を断つ白銀の聖女ー Aria @NekoAria0918

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