第一章 贖炎に沈む王国

プロローグ


 朝の空気は、まだ冷たかった。

 丘を越えるたび、靴底が露を含んだ草を踏みしめる音がした。

 アランはその音を心地よく感じながら、仲間たちを振り返る。


「もう少しで着く。見えるか? あの白い尖塔が“祈りの丘”の聖堂だ」


「やっと着いたのね。もう足が棒よ!」


 赤髪の少女――カレンが大げさに叫ぶ。

 陽光を受けた髪はまるで炎のようで、その気性の強さをそのまま映している。

 気の強いお嬢様育ちで、口を開けば文句を言うが、その実誰よりも仲間思いだ。


「文句言うくらいなら、少しは鍛えたらどうだ?


 後ろから、レクトがぼそりと言う。

 日焼けした腕を組み、無愛想な顔のまま歩いている。

 元傭兵の少年で、言葉は少ないが筋の通った正義感を持つ。


「うっさい! 傭兵の体力と一緒にしないでよね!」

「言い訳ばかり達者になったな」

「達者なのは口だけの男に言われたくないわ!」


 二人のやり取りに、アランは思わず笑った。

 この二人の口喧嘩は、もはや旅の風物詩だった。

 最初はぎこちなかった仲間たちも、二ヶ月の旅で随分と打ち解けている。

 傭兵、貴族令嬢、村娘、勇者――立場も育ちも違うのに、

 今では同じ飯を食い、同じ焚き火を囲む仲間だ。


「二人とも、もう少し仲良くしてください」


 柔らかい声が割って入った。

 桃色の髪の少女、エレナが微笑んでいた。

 その笑みは朝露に光る花のようで、見る者の心を静める。


「エレナ、あんたは本当に人がいいのね」


 カレンが呆れたように肩をすくめる。


「そんな調子じゃ、悪人にだって優しくしそう」


「そんなことありませんよ。悪い人は、きっと自分が悪いと気づいてるはずです。

 だったら、誰かが“まだ信じてる”って伝えてあげたら……少しは救われるかも、って」


 その言葉に、レクトが一瞬だけ目を伏せた。

 彼の胸の奥にある過去――血と契約の記憶が、ふと疼いたのだろう。


 アランには、レクトが時々“戦場”を見ているように見えた。

 ここにいながら、どこか別の場所で戦い続けているような――そんな目だ。


「……ほんと、聖女みたいなこと言うわね」


 カレンが小さく笑い、歩を進めた。

 その横顔には、ほんの少し嫉妬が混じっていた。

 エレナが悪いわけではない。ただ、アランの視線が彼女に向くたびに、胸の奥がざらつくのだ。


「ねえアラン、ほんとにその“聖女”って人を仲間にするの?」

「そうだ。魔王を討つには、癒やし手が必要だ」

「でも……うまくいくかしら。聖職者って、旅には向かないでしょ」


「心配いらない。彼女は“白銀の聖女”と呼ばれている」


 アランは少し歩を緩めながら言った。


「王都でも評判なんだ。どんな怪我も癒やす祈りを持ち、

 戦場で何百もの兵を救ったって話だ」


「白銀の聖女……」


 エレナが小さくつぶやく。


「きっと、とても清らかな方なんですね」


「白銀、ね。見た目が派手なだけじゃないといいけど」


 カレンが鼻を鳴らした。


「“聖女”なんて名乗る人ほど、裏で何してるかわからないもの


「はは、カレン。それは偏見って言うんだ」


 アランは笑う。


「でも……どんな人なんだろうな」


 言いながら、胸の奥に小さな期待が灯った。

 “白銀の聖女”――その名に、なぜか胸が高鳴る。

 理由はわからない。

 けれど、彼女に会えば何かが変わる。

 そんな予感だけが、確かにあった。


 やがて丘を登り切ると、白い聖堂が姿を現した。

 蔦に覆われ、長い時を経た石造りの建物。

 だが、崩れた壁の隙間から差し込む光が、まるで神の息吹のように柔らかかった。


「……綺麗」


 エレナが小さくつぶやいた。

 彼女の髪が風に揺れ、桃色の光が差す。

 その光景を見て、アランはふと胸を締めつけられるような感覚に襲われた。

 ——なぜだろう。

 この旅を終えたあとも、きっとこの瞬間を思い出す気がした。


「静かすぎるな」


 レクトが警戒するように目を細める。


「まるで、人が息を潜めてるみたいだ」


「たぶん、祈りの最中なんですよ」


 エレナが静かに答えた。


「ほら、聞こえますか? あの声……」


 確かに、聖堂の奥から微かな歌声が響いていた。

 それは祈りだった。

 言葉にならない旋律が空気を震わせ、光の粒が舞うように流れている。

 美しい。けれど、どこか寂しい。

 まるで誰にも届かない願いを、延々と紡ぎ続けているようだった。


 アランが扉に手をかけた瞬間、

 風が吹き抜けた。


 高窓から射す光が差し込み、聖堂全体が白く輝いた。

 祈りが止む。

 そして、そこに“彼女”はいた。


 絹のような美しい白銀の髪が、光を受けて淡く揺れている。

 白衣の裾が風に踊り、まるで空気そのものが彼女を包んでいるようだった。

 透き通る肌、金に近い瞳――その全てがこの世界のものではないようで、

 アランは思わず息を呑んだ。


「ようこそ、選定の勇者アラン・グレイヴス殿」


 静謐な声。

 それは音ではなく、祈りの余韻そのものだった。

 彼女がゆっくりと視線を動かす。アラン、カレン、レクト、そしてエレナへ――。


 その瞬間、微かな変化が走った。

 リリエスの表情が、一瞬だけ凍りついたのだ。

 ほんの数秒。

 しかし、確かに息を飲んだ。


「……失礼しました。皆さまのご来訪、感謝いたします」


 すぐに落ち着きを取り戻し、微笑みを浮かべる。

 それは完璧な笑み――けれど、どこか張り詰めていた。


 アランは、その僅かな影を見逃さなかった。


「あなたが、“白銀の聖女”リリエスさんですね。

 俺たちは魔王討伐の旅に出る。癒やしの祈りを扱える方を探していました。

 どうか、あなたの力を貸して欲しい。」


 だが、リリエスはすぐにはその手を取らなかった。

 静かな堂内に、沈黙が降りる。

 長い睫毛の影が頬に落ち、その宝石のような紫の瞳がアランをまっすぐ見つめた。


「……一つ、伺ってもよろしいですか」


 声は穏やかだったが、内に研ぎ澄まされた鋭さがあった。

 彼女は一歩だけ近づき、距離を詰める。


「あなたは魔王を討つために旅をしているのですね。

 けれど、もしその先に——人を殺すことでしか成し得ぬ平和があったとしたら、

 それでも剣を振るいますか?」


 アランは瞬きをした。

 唐突な問い。しかしその瞳が冗談ではないことを告げていた。


「……俺は、誰かが泣くような平和は望まない」


 少しの間を置いて、アランは答える。


「だけど、立ち止まることもできない。

 戦わなければ、もっと多くの人が泣くから」


 リリエスの瞳が、かすかに細められる。

 まるで、その言葉の奥にある痛みを確かめるように。


「あなたは、優しいのですね。

 ——優しさは、ときに残酷です」


「それでも、俺はそれしか選べない」


 しばしの沈黙。

 やがて、リリエスはふっと息を吐き、微笑を浮かべた。


「分かりました。

 では、あなたの歩む道に、私の祈りを添えましょう」

 

 リリエスの声は柔らかいのに、どこか遠い。

 人と話しているというより、夢の中の誰かに語りかけているような――そんな感覚だった。


 アランが差し出した手を、彼女はそっと握る。

 その手は冷たくも温かくもなく、まるで現実と幻想の境を触れているような感触だった。


「ただ、私の祈りは“救い”ではなく、“贖い”です。

 それでも、あなたは望みますか?」


 アランは迷わず頷いた。


「俺たちは、それぞれに何かを背負ってここにいる。

 あなたの祈りが贖いであっても構わない。

 俺たちは前に進むだけです」


 リリエスは微笑む。その微笑は、光の中で溶けていった。


 その瞬間、アランは理解した。

 この聖女は、誰よりも遠くにいる。

 この世に在りながら、どこか別の場所を見ている。

 それがなぜだか、ひどく悲しかった。




 聖堂を出ると、カレンがぽつりと言った。


「ねえ、聖女様……エレナを見たとき、少し変じゃなかった?」

「え? そうでした?」

「うん、ほんの一瞬だけど……まるで“見ちゃいけないもの”を見たみたいな顔だった」


「気のせいじゃないかな」


 アランは苦笑したが、その胸の奥ではざらりとした感覚が残っていた。

 祈りの丘の風が吹き抜ける。

 白い花弁が空に舞い、どこか遠くへ消えていった。


 ——この出会いが、やがて王国を燃やす火種になる。

 そのことを、この時の誰もまだ知らなかった。


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