声の向こうに咲く花 後日談

声の向こう咲く花 後日譚:まる。の季節

早春。

白石の小さな町に春が近づいていた。

梅のつぼみが少しずつふくらみ、朝の冷気が少しずつ和らぐ。

冬の名残が庭の薄氷に残っているが、日差しは確かに柔らかさを帯びている。

優香は、母の介護の合間、ふと手帳を開いていることが増えていた。

“声のアルバム”として書き留めてきた言葉たち。

かつての配信で話したテーマ、リスナーから届いたコメント、心に残る瞬間。

そのページを、時折、ゆっくりと読み返す。


「soraさん、ありがとう」


――その文字を見つめるたび、胸がぽっ、と熱くなる。

指先でその行をなぞりながら、優香は決心を新たにする。


ある春の午後、母をベッドに寝かせたあと、優香は静かに立ち上がり、ノートパソコンの蓋を開けた。

画面には、かつて使っていた配信ソフトと、マイクの設定画面。

指が、マウスを、マイクの接続端子を、じっと見つめる。


「もう一度、声を出してみようか…」


彼女は、リニューアルする配信の準備を始めた。

名前は変えるかもしれない。だが、配信を通して「気持ちを伝えたい」「誰かとつながりたい」という思いは、今も変わらない。

少しずつ、機材を整え、録音テストを重ねる。声のトーン、マイクの距離、環境ノイズ除去。

何度も何度も録り直した。


そして――ある夜。


「こんばんは。久しぶりです。ゆうか、です」


その声は、震えもあったが、どこか落ち着きがあり、懐かしさと新しさが混じっていた。

冒頭はリスナーはほとんどいなかった。

けれど、コメント欄にひとつだけ言葉が現れた。


「おかえりなさい」


その言葉が、まる。の胸に重く響いた。

声と暮らす日々

配信再開後、頻度は最初こそ月に1〜2回だったが、少しずつ増えていった。

タイトルは「声の庭」と。

「まる。」という名前は使わず、もっと自然な響きの名前を名乗るようにした。

リスナーとの交流も、少しずつだが温かくなっていった。


「今日の配信、心がほっとしました」


「あなたの話、いつも救いです」


――そんな言葉が届くたびに、優香は手が震え、でも、心が軽くなるのを感じた。仕事と介護の両立は相変わらず厳しいものだった。

体力的にも精神的にも疲れる日も多かった。

だが、配信の時間は、自分自身を取り戻すひとときでもあった。

あるとき、配信中にリスナーからこう尋ねられた。


「どうしてまた配信を始めたんですか?」


優香は、しばらく沈黙したのち答えた。


「あなたの声が、私の声を呼んでくれたから。

私は、もう一度、“声を出す自分”でいたかったんです。」


その言葉には、過去の痛みも、現在の悩みも、未来への決意も、すべてが込められていた。


ある日、配信後のコメント欄に、見覚えのある名前が現れた。


「こんばんは、soraです」


画面の文字が止まり、優香の息が一瞬止まる。その名前は、かつて心の支えだった人の名前。

彼女は、震える指で返信を打った。


「こんばんは、ゆうかです。 また会えてうれしいです。」


しばらくして、soraからの返信が来た。


「こちらこそ。あなたの声、聴きたかった」


そのやりとりは短かったが、どちらの胸にも確かな灯を残した。

それ以降、soraの配信を見つけて、コメントを交わす日々が戻ってきた。

姿は見えず、互いの生活は遠く隔たっているけれど――

声を通して、再び“つながる”感覚が日常になっていった。


春が本格的に訪れ、庭の梅が白い花を咲かせ始めた。

その傍らで、優香はひとり、縁側に座って緑茶をすすりながら、耳にイヤホンを差し込む。 soraの配信が始まった瞬間、画面の向こうの声が、ゆっくりと、しかし確かに、彼女に届く。


「こんばんは、soraです。今日は春の匂いについて話そうかな…」


優香は、画面を見ず、ただその声を聴く。

冬の間に沈んでいたものが、少しずつ浮かび上がってくるようだった。

そして、彼女の手は、そっとスマホを開き、コメント欄に文字を刻む。


「こんばんは、ゆうかです。あなたの声を聴くと、心が落ち着きます」


そのコメントが、画面の向こうの誰かに届くかどうかは分からない。

だが、それでも彼女は話す。

誰かを支え、誰かに支えられる声で。

春の夜気に溶けながらも、確かに咲いている、声の花として。

――そして、物語はここからまた、新しい季節へと続いていく。

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