女、乗換る
佐々井 サイジ
第1話
瞼が重たい。というより眼球にへばりついて持ち上がらない感覚だった。
立ったままでも寝られそうだった。それを防ぐのは、早朝からずっと元気な娘の美玖だった。
「はやく、おしゃんぽ、いこーよー」
目が潤い始めたおかげでわずかに瞼を開けることができた。カーテンの隙間から覗く空はまだ黒い。青白んですらいない。スマホを見るとちょうど五時になっていた。
「まだ朝の五時になったばかりだよ」
そんなことを言っても美玖は散歩に行く気満々だ。こうなると何を言っても聞き入れてくれない。果てには声を割りながら泣き叫ぶことが見えている。
せっかくの休み。いつも早起きしているので、今日くらいは、せめてあと一時間は寝ていたかった。いくら瞼を擦っても眠気は取れてくれない。
こんなにも美玖が大声を出しているにもかかわらず、妻の茜は耳障りないびきをかいて寝ている。とはいえ、平日の育児は茜に偏っているので、起こして散歩に行けと言えるわけもない。
そう言えるにはどれくらい稼げば発言権を得られるだろうかと機能していない脳を働かせるが、「男は育児に協力という言葉を使うが、そもそも二人で行うべきなので前提が間違っている」という茜の考えでは稼ぐ稼がないの問題ではないな、とぼんやり思った。
美玖との散歩が嫌というわけではない。動画やネットニュースでは四、五十代の男性が「子どもともっと小さいころに遊んでいればよかった」という陳腐かつ濃厚な後悔を定期的に見かけている。自分もそうなるかもしれないと常々考えていた。ということは、美玖の荒々しい起こし方も、二月の冷え切った早朝の散歩もいつかは良い思い出となると思えば、この瞼の重さにも耐えられた。
自分と美玖の着替えを済ませ玄関まで来ると、「かい」と美玖は上の方を指差した。言葉の意味が分からなくて何度か聞き直しているうちに体をよじり始めた。これは大泣きする前兆だ。指を差している方を見る。そこは鍵やハンコを置いているところだった。
「あっ、カギかっ」
大夢はつい声が出た。美玖は涙目で大きく頷いた。これも普段一緒にいることの多い茜ならすぐに分かったのかもしれない。大夢は鈴のついた鍵を美玖に渡すと、悲しい感情を振り落とすように目に幕を張っていた涙が落ち、笑顔がこぼれていた。
鍵穴に差し込むことを何度か繰り返すと美玖は満足したようで、鍵を返してきた。家から突き当たりの道を右に曲がる直前に「だっこ」と美玖が言ってきた。茜からは「すぐに抱っこしないで。甘える癖がつくから」と散々言われているが、早朝の住宅街で大泣きされては困る。
大夢はしゃがんで美玖の両脇に手を差し込んで持ち上げた。抱っこするたびに重くなったのではないかと思う。この重さが愛おしくてたまらなかった。
抱っこしながら近所を歩くのは運動不足の大夢にとってはかなりのハードワークだったが、冷えた身体を美玖の体温が温めてくれた。
「美玖と引っ付いてたらあったかいね」
大夢は自分の胸に顔を埋める美玖に言った。美玖は返事をせずに顔を上げた。
大夢は情けない声が漏れた。そこにある顔はいつもの美玖ではなく、五年前に自殺した元恋人の麻乃だった。
麻乃の顔をした美玖は黙ったままじっと大夢を見つめていた。
「あ、麻乃? え、いや、どういうことだ」
大夢は自分が寝ぼけているせいだと思った。確かにまだ瞼が重たいまま外に出た。厳しい寒さでさえ、眠気を払しょくできなかったのも事実だ。それにしてもこんなセンスの悪い夢のようなことを見てしまうのだろうか。
「麻乃だよ、むーくんが寝ぼけてるわけじゃないから」
美玖、いや麻乃の呟いた一言に大夢は全身が粟立った。寒さのせいではなかった。
大夢のことを「むーくん」と呼ぶのは麻乃だけだった。美玖はそんな言葉が言えるわけがなく、ましてや麻乃と出逢ったことなどあるはずがない。大夢の脳内は熱を持ちだした。。
「歩きなよ。抱っこは別にどっちでもいいよ。むーくんがしてたいならそのままでいいし、気持ち悪いなら歩くよ」
大夢はゆっくりと麻乃を降ろした。歩こうにも膝がさび付いたように軋んで動けない。それでも無理やり足を動かした。とにかく動かねばという意識があった。体が動くことで脳が活性化する。これは生前の麻乃によく言われていたことだった。仕事が好きだった麻乃はよく本も読んでおり、知識の吸収に貪欲だった。
「美玖ちゃん、死んでないから安心してね。むーくんにだけ私の顔が見えるようになっているらしいから」
「ど、どういうことだ。説明してくれ」
麻乃は深い息を吐いた。白くなった息はすぐに空気中に溶け込んだ。
「私が生きているときは幽霊とか天国とか地獄とか絶対に信じなかったのに、その割にはよく許してくれたもんだよね」
「何言ってるんだ。何の話だ」
「私が自殺したあと、閻魔様の裁きを受ける前に未練消化センターってとこに連れていかれたの。そこはね、生前の未練を解消するところだったの。私はむーくんが自分を捨てて茜ちゃんと幸せになるのが許せなかったんだよね。死ねばこんな嫉妬なくなると思ったんだけど。でも未練解消センターがあることを知って、それを晴らそうと思った」
「もしかして五年もタイミングをうかがっていたというのか」
麻乃と別れたのは五年前だ。大夢は同じ会社で同期の麻乃と付き合い始めたが、仕事に精を出す麻乃は休日でも勉強に励み、なかなか会えなかった大夢は、違う部署との飲み会で意気投合した茜と仲良くなり、その日に関係を持った。
遊びのつもりだったが、料理上手で掃除好きな茜と本気で交際するようになり、麻乃と別れることを決めた。
「私が仕事に精を出してむーくんを大事にしなかったことは反省してるけど、どうしても浮気してることが許せなかった」
「ど、どうすれば許してくれるんだ」
麻乃は口角を引き上げた。大夢の心臓が一度大きく縮んだ気がした。
「茜ちゃんを殺せば許してあげる」
「こ、殺す?」
「そうしなかったら、私は美玖ちゃんの体で、死ぬよ、間違いなく」
麻乃は抑揚の無い声で言った。茜を殺す。そんなことができるわけがない。大夢はアスファルトの道路に膝をつき、麻乃に向かって頭を下げた。
「謝る。殺す以外のことなら何でもするから、それだけはできない」
「私のことは死に追いやったのに、茜ちゃんは大事なんだ」
大夢は口を開けていたが、一向に言葉が出てこなかった。茜を殺すことなどできるわけがない。しかし、殺さなければ美玖がどうなるか。言葉がつっかえたまま、なんとかひねり出そうとすると、麻乃がクスクス笑い始めた。
「ごめんね、意地悪して。むーくんが人殺しできるわけないよね。奥さんだったらなおさら」
「ゆ、許してくれるのか」
「じゃあ、私を奥さんのところに連れて行って」
「あ、麻乃が殺すのか」
「顔見るだけ。それもさせてくれないなら、美玖ちゃんの体であの橋から飛び降りるよ、本当に。私もう死んでるから何も怖くないの」
そう言って麻乃は小走りで橋に向かいだした。大夢はすぐに麻乃の手首を捕まえた。
家に戻って来ても茜は起きていないようだった。主寝室のドアをゆっくり開けると、いびきが聞こえてくる。
「茜ちゃん、いびきうるさいね」
麻乃が声を殺しながら呟いた。
「どうするつもりなんだよ」
大夢も声を殺して麻乃に問いかけたが一向に答えが返ってこない。そのとき、大きないびきが突然止まった。と同時に茜の胸が突き上げられるように反り上がる。
「茜っ」
大夢が叫んだと同時に鈍い音がした。隣に立っていたはずの麻乃が床に倒れている。茜は何度も反り上がって「う、う」と唸るような声を上げている。何をどうすればよいかわからなかった。
「み、美玖っ」
倒れ込んだ美玖を抱き上げて顔を覗き込むと、いつもの愛くるしい娘の顔に戻っていた。変な夢だったのか。いや違う。もう一度茜の方を向くと、目の前に茜、いや、麻乃の顔があった。
「ど、どういうこと」
「美玖ちゃんの体はやっぱりまだまだ小さいし、茜ちゃんの体で生きることにした」
「え、じゃあ、茜は……」
「あ、今度は殺したよ。体だけもらっておいた。むーくん良かったね。これから私とセックスするとき、顔は私で体は茜ちゃん――」
「何言ってんだ」
これは悪夢か、いやそんな生ぬるいものではない。大夢は頭を掻きむしった。どうすればよいのかわからない。
「悲劇ぶらないでね。もともとあんたが引き起こしたことなんだから」
「俺が……」
「そうだよ。私は一生懸命頑張ってたのに、あんたは浮気なんかして乗り換えちゃうんだから。そりゃ恨むよね」
「お前は、俺のことを蔑ろにしてたじゃないか」
「そんな反論受け付けない。とにかく茜ちゃんは死んだ。ああ、周りの人は私の顔を見ても茜ちゃんだと思うから安心して。麻乃の顔に見えるのはむーくんだけだから……」
腕に抱えている美玖の体がびくんと波打った。途端に大きな声で泣き始めた。
「おかんしゃあん」
「はいはい、いまいくよ美玖ちゃん」
ベッドから降りようとする麻乃に「来るな」と大夢は言った。しかし、美玖は大夢の腕からくるりと半回転して立ち上がり、器用にベッドに登って麻乃に抱きついた。
「美玖、そいつはお母さんじゃないっ。早く離れなさいっ」
大夢は叫ぶが、美玖はより泣き声を大きくするばかりだった。麻乃は美玖の体を抱き上げて、小さく上下に揺らした。だんだんと美玖の小さく収まっていく。本当にお母さんだと思っているのか。
「美玖。まだねんねしたいの?」
麻乃は美玖の耳元で囁くように言った。美玖はふっくらとした頬に涙の線をつくりながら一度頷いた。
「じゃあ、お母さん、抱っこしててあげるからねんねしてていいよ」
麻乃は言うと、美玖はしばらくすると目を閉じて寝息を立て始めた。泣いたときに出てきた鼻水のせいでときおり鼻息が水っぽくなった。
「お前は、美玖も殺す気なのか」
やっと振り絞った声で、大夢は言った。
「さすがに小さい子は殺さないよ。茜ちゃんの血を引き継いでいるとしてもね。まあ血がつながってても不幸な家族なんて山ほどいるし、これから三人で仲良く暮らしていこうよ。あ、家族、増やしてもいいよ」
「何言ってるんだ……。一緒に住めるわけないだろ」
「ああ、そう。じゃあ、むーくんがしでかしたこと、会社とかいろいろ暴露するよ」
麻乃を見ると、目の奥が濁って何を考えているかわからなかった。体つきだけ茜でも、もう面影は全く感じなかった。逃げ場はない。それこそ、自分が死なない限りは。
「別にむーくんが死んでもかまわないよ。向こうで茜ちゃんと幸せにね。まあ、不倫は地獄行きだって、未練消化センターの人が言ってたけど。今頃茜ちゃん、地獄でみじん切りにされてるんじゃない?」
我慢しきれずに床に嘔吐した。酸っぱい臭いが部屋中に充満していく。美玖はこともなげに麻乃に抱かれて眠ったままだった。
「これから楽しい生活にしようね。むーくん」
麻乃はわざと茜が大夢を呼んでいたニックネームを誇張した。大夢はただ、これから行き先が見えない未来を、動きが鈍っている脳で漫然と考えていた。
女、乗換る 佐々井 サイジ @sasaisaiji
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