彼の見ている月
月日音
彼と私と月
「月が綺麗ですね」
電話越しに聞こえた声は柔らかだった。
いつものように「おやすみなさい、また来週に」と伝え合う前の空白へするりと入ってきた言葉だ。
「え……?」
私はどんな返事をしようかと思いつつ、窓から空を見上げた。けれど、月は見つけられなかった。雲の向こうに隠れていたのだ。
「んー、こちらは曇っちゃってますね」
「そうですか。
「はい、残念ながら」
それから、私たちはいつものように「おやすみなさい」だけして電話を切った。
最初は私の方から「電話で話しませんか」と誘ったのだったと思う。
翌週も彼は「おやすみなさい」と告げる前に同じことを言った。
「月が綺麗ですね」
「えっと、そうですか?」
空を見上げると、月は見つけられなかった。雲も見つけられなかった。
そうだよね、と思う。確認する前から月は見えないと分かっていた。
「あの……今日って新月ですよね」
新月は太陽の向こう側に月が入ってしまう。太陽がまぶしすぎて月の光などは全く見えなくなってしまうし、そもそも夜には太陽と同じように新月も沈んでしまっている。
「あぁっと、違うんです。すみません。僕には見えているので」
「新月なのに、ですか? からかわないでくださいよ、もう……ふふっ、おやすみなさい」
「えっと……はい、おやすみなさい。また来週、は都合があって……」
「それでは、再来週に」
彼はまだ何か言いたそうだったけれど、次の約束をすると電話は切れた。
話を合わせた方が良かったかな、とも思ったものの、それは何か違うように感じた。
――思うことが違う時には、どう違うのかとか話し合うもんね。
私と徹さんは最近読んだ本の感想を語り合う仲だ。会ったことはない。SNSでの交流をきっかけに互いの感想を伝え合うようになり、やがて文字だけのやり取りがもどかしくなった私が電話で話すのを提案してから、毎週のように電話で語り合う今の関係に至る。
電話で話すまで、互いの年齢どころか性別も分かっていなかった。
翌週、電話はかかってこなかったけれど、私は月を見上げた。綺麗と言えば綺麗なのかもしれないけれど、なんだか寂しい月だなと感じた。
さらに七日後、電話をそろそろ終えようかという時に彼はやっぱり告げてきた。
「月が綺麗ですね」
スマホ片手に私は空を見上げた。雲はほとんどなく、月が浮かんでいた。満月に近いと思う。
「えぇ、綺麗ですね」
今夜、月を眺めるのはたぶん三度目くらいだった。
「その……直接お会いできませんか?」
「……はい、それでは来週か再来週はどうですか?」
月を見つめながら答えた。答えてしまってから、こんなにすぐ候補を挙げたら、会うのを期待していたように聞こえやしないかと気になってきた。
「来週の夜はいかがですか? いつか話してた、あの月の絵が飾られたお店で」
月の絵が飾られたお店、確か二か月近く前に話していたことだ。私が徹さんにお薦めした本に登場し、思ったよりも近くにあるから行って実際に見てみたいと伝えた気がする。
約束の時間、彼の名前を店で伝えて案内してもらう。月の絵がよく見える場所だった。
徹さんは想像に近い見た目をしていた。どこにでもいそうな物静かな服装で、優しく真面目そうな雰囲気で、昼よりは夜の方が似合いそうで。あえて挙げれば、眼鏡をかけていないのが想像と違った。
「こんばんは、徹さん。初めまして、ですね」
「瑠奈さん、こんばんは。直接お会いするのは初めてですね。いつもお話しているので、そんな気はしませんが」
徹さんはその場で立ち上がり、私の方を向いて、けれども私の目を全く見ずにお辞儀をした。
どういうことだろうと思ったら、彼の
「もしかして目が……」
「はい、目が見えません。いずれお伝えしようと思っていましたが、できれば直接お会いした時に、と」
それから私たちは注文をした。どんな料理があるか、何を注文するか、いつものようにたくさん話して決めた。
「その目はいつからなんですか?」
「生まれつきです」
料理が出てくるのを待つ間に尋ねた。尋ねたいと思ったことは遠慮せずに尋ねるのが私たちだった。
「……月が綺麗っていうのは?」
「月が綺麗ってことです」
「えっと、でも……」
彼は自らの顔を触ってから、ゆっくりとそのまま手をおろすような流れで胸に手を当てた。
「はい、目では見れません。見たことがありません。でも、世の中で語られる月というものが何かを僕は僕の心で見ているつもりなんです」
見たことがない月を心で見ている。それはおかしな表現なのだけれど、目が見えない世界でずっと生きてきたのなら、知覚できることから心で見るというのは少しもおかしくはないように思えてくる。
ましてや月なのだ。手を伸ばしたところで直接ふれることはできず、さわれたとしても月を模した置き物くらいだろう。
「瑠奈さんに見えている月とは違うかもしれませんが……」
「いえ、私も目を閉じて心で見た月は似ていると思います。徹さんと全く同じではないかもしれませんが、それでも似ているように思えます」
目を閉じ、心で月を見てみようとする。あんなに見慣れたもののはずなのに、丸くて黄色っぽい何かがぼんやりとしか現れてこない。
「そうですかね? 僕に見える月は最近ますます綺麗になっているんです。瑠奈さんと話すようになってから、とても明るくて、あったかくて、もう太陽よりもすごいくらいで……」
私は目を閉じたままで徹さんの話を聞いた。私が心で見ている月も明るさを増したようには感じられたけれど、太陽よりもすごいなんて、もう月じゃないように思える。
「その、瑠奈さんのお薦めしてくれた本で語られてた月の影響もあるんですが、それ以上に瑠奈さんと喋ることが僕にとっては……ルナってローマ神話では月の女神で、月そのものでもあるので」
「私の名前が月の女神と同じだから……」
「気づけば、僕に見える月は、瑠奈さん、あなたになっていたんです」
彼が心で見ている月が私なのだとしたら、彼が言っていた言葉の意味はどうなるのだろう。
私は尋ねたくなってしまった。
「あの……月は今日も綺麗ですか?」
「はい、今日はいつも以上に綺麗です」
そうやって笑顔で答える彼の後ろに月の絵が見え、私と彼に店の一押しメニューである月見定食が運ばれてきた。
この景色がどれほど綺麗なのかを私は彼へ伝えたくなった。
彼の見ている月 月日音 @tsukihioto
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