第42話ピアノ

 娘が4歳になる頃には、家の中がすっかり賑やかになっていた。娘は、歌が好きになっていた。俺も、妻も、音楽が好きだからだろうか、娘も音楽を愛する子に育っていた。

 娘が、俺の膝の上で鼻歌を歌っている。その鼻歌の内容は、俺の曲だった。妻がいつもそれを口ずさみながら、家事をやっているから、うつったんだろう。

「その歌、好き?」

「すきー!」

 娘の元気いっぱいの返事に、顔を綻ばせる。妻がその隣で、嬉しそうに微笑んでいる。家族というのは、こんなにも暖かいのかと、そういう瞬間に実感する。

 ある日、娘と一緒にテレビを見ていると、ピアニストが演奏していた。

「これ!これやる!」

 娘は人差し指でテレビを指さして、ピアノを弾きたいと訴えた。

「ピアノか。ママがいいよって言ったら、やってみようか。」

 娘は嬉しそうにはしゃぐ。そして、昼食を作り終えた妻が、キッチンから歩いてきた。

「お昼ご飯できたよ。たべよっか」

 テーブルをきれいにして、家族三人、食卓を囲む。

「まま!あれやりたい!」

 娘は、テレビの中でいまだに演奏するピアニストを指差す。

「ピアノ?」

「うん、やってみたいんだって。この近くに教室あるでしょ?体験ぐらいは行かせてみてもいいんじゃないかな」

 妻は少し悩んだような顔をみせるが、すぐに微笑んだ。

「わかった。まずは体験会に行ってみよっか。」

「よかったね、ママ、ピアノやってみてもいいって」

 その言葉に娘は嬉しそうに目を輝かせると、バタバタと足を動かしてはしゃいだ。

 そして次の週の土曜日、娘をピアノの体験会に連れて行く。妻はママ友とお茶会があるとかで、ピアノ教室には俺と娘の二人で行った。

「本日はよろしくお願いします」

 ピアノ教室の先生に、頭を下げて言う。

「こちらこそよろしくお願いしますぅ」

 そして、体験会が始まった。娘は、最初は人見知りをして、俺の足の後ろでもじもじしていた。ピアノ教室の先生は、娘に質問をしたり、雑談をして、少しずつ娘を懐かせていった。

 やがて、娘は楽しそうに、ピアノ教室の先生と話すようになった。指示されるままに、楽しそうに鍵盤を叩いていた。その姿を、ただぼーっと眺める。時間にして約30分程度のことだったが、一瞬のことのようにも、はたまた永遠に続いているようにも感じた。

 やがて体験会が終わり、俺は娘の手を引いて家に帰る。

「楽しかった?」

「うん!」

「そっか、じゃあまた行きたい?」

「いきたい!」

 嬉しそうに笑って、スキップをする娘の手を、優しく握る。そして家に到着し、玄関を開けた。

「ほら、手洗いとうがいしようね」

「はーい!」

 娘と一緒に洗面台へ行くと、踏み台を用意して、その上に立たせる。転ばないように、体を支えながら、手洗いとうがいを見守る。

「はい、よくできました」

 そうして自分も手洗いとうがいを済ませると、リビングへと向かう。どうやら、まだ妻は帰ってきていないらしい。話が長引いているのだろう。

「パパご飯作るからね、ちょっとテレビ見て待っていて」

 娘を目の届くところに座らせて、テレビをつける。ちょうど時刻は夕方で、子供向けのアニメが再生されていた。

 夢中になってテレビに食い入る娘を横目に、料理を作る。

 料理を作っていると、玄関の扉の開く音が聞こえる。

「ただいまー」

 妻の声が聞こえた。

「おかえり、今カレー作ってるよ。お風呂はもう少し待っていて」

「うん、ありがとう」

 そうして、料理が終わり、風呂掃除をして、お風呂を沸かす。食卓を囲んで、今日のことをみんなで話す。当たり前のことだけれど、そんな普通の日々が、ただ暖かかった。

 やがて、娘が寝静まった頃、俺は妻と向き合って座っていた。

「ねぇ、ピアノ、どうするの?」

「習わせようと思う。今日はすごく楽しそうだったし、また行きたいって」

「そう……」

 妻が、少し不安そうに目を伏せる。なんとなく、言いたいことはわかった。子供の好奇心は、そう長くは継続しない。練習用のピアノは安くないし、途中で辞めたらどうしようと言う不安があるのだろう。

「……何もさせずに縛るよりはいいじゃないか。そういうリスクも含めて、覚悟の上で子供を作ったんだから」

 妻の手を取って、そう語りかける。妻は驚いたようにこちらを見上げると、やがて静かに頷いた。

「そう、だよね。うん、わかった。」

 妻は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。俺も、不安がないといったら嘘になる。でも、親として、子供の意思は組みたかった。それに、娘がすぐに辞めると言う確証もない。信じると言うのも、親のつとめだと思うのだ。

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