第41話新しい命

 焦りと、不安。そればかりが頭を支配していた。鼓動も、呼吸も早くなる。記憶にあるのは、分娩室でひたすら妻の手を握って、声をかけているところだった。

 やがて、新しい命が生まれてくる。大きく産声を上げて、泣き叫ぶ命が、俺の視界に入ってきた。

「おめでとうございます!元気な女の子ですよ!」

 助産師に抱かれた我が子を見て、静かに涙が溢れた。

 ――無事で、よかった。

 ただ、純粋な気持ちで、娘を抱いた。

 意識を失い、眠る妻を少しだけ撫でてから、俺は分娩室を出て、家族に出産の報告をした。

 家に帰って、とにかく家の中を清潔に保つ。妻が出産する前から、買い揃えていたベビーベッドを清潔に保ったり、娘が危険な目に遭わないように、机の角の保護を行う。

 妻が退院するまで、とにかく自分ができるだけのことをした。手続きの準備もして、妻を迎えに行った。

 初めてのことばかりで、二人とも何度もお互いに何度も確認しながら、手続きを進めていった。

 ベビーベッドで眠る娘の頬をつつく。柔らかい感触に、思わず目を細めた。

 娘が生まれてからの生活は、驚くほど目まぐるしかった。

 夜泣きの声に起こされて、足りない頭で必死に要望を汲み取り、叶える。おむつを変えたり、ミルクを与えたり、ただ単に抱き抱えながら家中を歩いたり。娘を中心に、俺の日常は動いていった。

 睡眠時間を大幅に削られても、おむつ替えの途中で逃げられても、あやしている途中に吐かれても、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。全てが愛おしかった。

 泣き声がうるさくて曲作りどころじゃなくても、ギターを置いて、娘を抱き上げるだけで満たされた。

 ギターの重さよりも、娘の体重の方が好きになった。音を打ち込むためのパソコンの感触よりも、娘の小さな手をつつく方が心地よかった。合成音声の声よりも、娘の笑い声の方が癒しになった。

 やがて、娘は立つようになり、歩くようになり、言葉を操るようになった。

 その度に夫婦揃ってはしゃぎ、叫び、カメラに収めた。俺のパソコンの中は、自作の曲や、ギターの録音よりも、娘の記録で埋まるようになっていった。

 2歳になる頃には保育園へ入れて、友達とたくさん遊んでいるようだった。

「素直で素敵な子ですよ。おとなしくて、お友達を大事にしてます」

 娘を迎えに行った時、保育士さんから聞いたその言葉に、心が満たされた。

「ママ、って言ってごらん」

「ま、ま」

「そう。次はパパって言ってごらん」

「ぱっぱ」

「上手だねぇ」

 そんな休日の娘との会話も、全てが楽しくて、愛おしかった。

「まま、ぱぱ、すき」

 辿々しく言葉を紡ぐ娘を、優しく抱きしめる。

「パパも、ママも、大好きだよ」

 そして夜に、自分の部屋で曲を作ろうとギターを抱える。椅子に座って、ギターを手に取ると、足元に娘のおもちゃが転がっていた。

 俺は、一度ギターを立てかけて、おもちゃを洗い、おもちゃ箱にしまう。

 子育てを始めてから、曲を作る時間は格段に減っていった。それでも、不思議と焦りはなかった。少しずつ、少しずつ音を紡いでいく。

 できたものは都度投稿しているが、あの日、娘が生まれた日に作った一曲以上のものは出来上がらなかった。作れば作るほど、あの曲だけが輝いて、他は引き立て役になるような気がした。

 それでも、まだ俺は曲を作っていた。まだ、あの人に音を届けられていないから。あの人を救わなきゃいけないから。俺の神様は、まだ音楽に殺されたままだから。

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