第43話才能
俺たちの不安に反して、娘のピアノへの熱量は凄まじかった。
毎週日曜日のレッスンの日は、朝から上機嫌だった。
ピアノを買うまでの間はテーブルの上で指を動かして、音を口ずさんでいた。
やがて、練習用に買ったピアノを家に入れると、娘は毎日鍵盤を叩いた。もらったテキストと睨めっこをして、一音ずつ音を奏でていく。そんな日々の練習が身を結び、娘はどんどん上達を見せていった。
簡単な童謡ぐらいなら、1ヶ月程度でスムーズに弾けるようになっていた。左手の扱いも上手で、左右の手を別々に動かせていた。
親バカかもしれないが、俺は本気で、娘を音楽の天才だと思った。
そして、娘がピアノを習い始めて1年が経過した。
「本当に上達が早くてびっくりしています。一度、コンクールに参加してみてもいいと思いますよ」
ピアノの先生のそんな言葉に乗せられて、今、俺は娘と妻と一緒に、大きな音楽ホールの前にいる。
「頑張ってね。パパも、ママも、ちゃんと見守ってるから。」
そう言って、娘を控え室に送り出す。引率で来ているピアノ教室の先生に、娘を預けた。可愛らしいドレスに身を包んだ娘は、まだ不安が残る目をしていた。
俺と妻は観客席に向かって、席に座ると、カメラを準備する。
そして、娘の番が来た。緊張していて、足取りもおぼつかず、今にも泣き出しそうだったが、なんとか椅子に座る。
鍵盤に指を置き、ゆっくりと沈ませる。
丁寧に、ガラスを扱うような手つきで、鍵盤の上の指を滑らせていく。
演奏しているのは、誰もが知っているような幼い童謡なのに、俺の耳には、まるで今編み出された名曲のように聞こえた。
そして、ほんの一瞬、奏でた音が、あの人を想起させた。
深く、沈むような音だった。俺は、久しぶりに、あの人に溺れた感触を思い出した。
しかしすぐに我に返り、そんな考えを振り落とす。目の前で演奏しているのは、愛しい娘だ。俺の神様じゃない。ネギマ先生じゃ、ない。
そして、自分の考えを振り落としていると、いつの間にか娘の演奏は終わっていた。
俺はカメラの録画を止めて、残りの人たちの演奏を聴いた。
そして、表彰式の瞬間が来た。金賞が誰の手に渡ろうが、俺には関係なかった。自分の娘が、やっぱり一番だ。
「金賞は――」
司会者の言葉が、場を緊張に包む。
呼ばれた名前に、ほんの少しの間、時が止まったように感じた。
隣で、妻が小さく息を呑む。
俺の胸の奥で、何かがじわりと熱を帯びた。
客席のあちこちで拍手が湧き、スポットライトがステージ中央に集まる。
その光の中で、娘が小さく一礼していた。
緊張にこわばった顔は、少し泣き出しそうにも見えたけれど、その瞳だけは、真っすぐに輝いていた。
小さな体に大きすぎる賞状を抱え、ステージの端まで歩いていく。その姿が、ただ、眩しかった。
妻が俺の袖を引いて、小さく笑った。
「ねぇ、すごいね……!」
「ああ」
それだけを、かろうじて絞り出した。
控え室に娘を迎えに行くと、娘はキラキラと輝く目で俺たちをまっすぐに見つめていた。
「まま!ぱぱ!これみて!」
「うん、すごいね」
「頑張ったね!」
大きな賞状を娘から預かって、代わりに俺と妻が、娘の手を片手ずつ握る。家族三人、横並びで車に向かった。
「お祝いに、どこか食べに行こうよ」
「おすし!おすしたべる!」
楽しそうにチャイルドシートでバタバタと足を動かす娘の要望に答え、俺たちは回転寿司を食べにいった。
美味しそうに寿司を頬張る娘をみて、心が穏やかになる。
娘の頬についた米粒を、妻が取ってあげているのが、微笑ましい。
この空間が、この時間が、どうしようもなく愛おしい。
「美味しい?」
「うん!」
そんな短くも、幸せな会話をしながら、俺たちは食事を終えた。
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