好きだった、のに

ここあ @PLEC所属

第1話 言えなかった言葉

放課後の教室は、金色の光で満たされていた。
カーテンが風に揺れるたび、粉のような光が空気の中を漂う。


黒板の端に残ったチョークの文字が、もう読めないくらいに薄くなっている。
誰もいないと思っていたのに、窓際の席にひとり、"彼"がいた。

彼は何かを見ているようで、何も見ていないようだった。
机に肘をついて、ぼんやり外を眺めている。


グラウンドから、野球部の掛け声が風に乗って届いてきた。
遠くでボールがバットに当たる音がして、そのたびに沈黙が少しだけ震える。

私は教科書をノートに写すふりをして、その音を聞いていた。


今日は少しだけ、心が落ち着いていた。
授業も終わって、何も話さなくてもいい時間。


そう思うと、息が少しゆっくりになる。
一日の終わりに訪れる、この静かな安堵が好きだった。

でも、その安堵の中に、彼の横顔があると、
どうしてだろう、胸の奥が少し痛む。
話しかけたいのに、言葉がうまく浮かばない。
もし声をかけたら、この空気が壊れてしまう気がした。

彼の手の動きが止まり、ふとこちらを向いた。
視線がほんの一瞬重なって、私の心臓が跳ねた。
だけど、彼はすぐに窓の外に目を戻す。
その短い間に、夕陽の光が少し赤く濃くなった。

「まだ帰らないの?」
自分でも驚くほど小さな声だった。


風が少し強く吹いて、声をさらっていく。
彼は少しだけ笑って、「もうすぐ」と言った。
その笑い方が、昔と変わっていないことが、どうしようもなく嬉しかった。

私はそれ以上、何も言えなかった。
校庭の音がまた響く。
声と声の間にある静けさが、まるで私たちを包んでいるみたいだった。

彼は立ち上がって、窓を少し開けた。
風が教室の中を通り抜けて、カーテンがふわりと広がった。
白い布の向こうに、夕陽が淡く透けて見える。

「なんか、秋っぽくなってきたね」
そう言いながら彼は、遠くの空を見た。


雲の端が少しだけ金色に光っていて、まるでどこかの町の夕暮れを思い出しているみたいな目をしていた。

「うん。朝、ちょっと寒かったね」
私もなんとなくそう答える。


会話というより、ただ言葉を置いていくみたいに。
二人の間にあるのは、沈黙ではなくて、
音にならなかった想いのかけらみたいだった。

彼は窓際にもたれたまま、少し笑った。


「今日、さ……」


と言いかけて、言葉を飲み込む。


風がまた吹いて、黒板の文字の粉が舞う。


私は少し身を乗り出したけれど、
彼はただ「いや、なんでもない」と首を振った。

何でもない、なんて。


そんな言葉ほど、何かが隠れてる気がしてしまう。


でも私は、それを聞き出す勇気がなかった。


だって、もし彼の中に“終わり”があるなら、
それを知ってしまうのが、こわかったから。


窓の外から、最後の笛の音が響いた。


部活の声が止んで、空気が急に静かになる。


夕陽はもう沈みかけていて、教室の隅が少しずつ夜色に変わっていく。

「そろそろ、帰ろうか」
彼が言って、カバンを持ち上げる。
私はうなずいて、自分の席のノートを閉じた。
ノートの上に残った指の跡が、ほんのり光を反射している。

「じゃあ、また明日」


その言葉が、どうしてこんなに遠く感じるんだろう。


“また明日”が、本当に来るかどうかもわからないような気がした。


彼は手を振るでもなく、ただ少しだけ笑って、
夕暮れの中へと歩いていった。

ドアが静かに閉まる音。
残された空気の中に、彼の声の名残がふわっと漂う。


私はしばらく席に座ったまま、
窓の外の光が完全に消えるのを見ていた。

グラウンドの砂ぼこりが、まだあたたかい風に舞って、
遠くの街灯がひとつ、またひとつ灯る。
今日が終わったんだな、と思った。


安堵と少しの寂しさが、胸の奥で静かに混ざり合う。

帰り支度をしながら、
私は心の中で、言えなかった言葉をもう一度思い浮かべた。



──"好き"だった。


でも、それを言葉にしないまま、今日も終わっていく。

夕暮れの匂いが、ゆっくりと夜に溶けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

好きだった、のに ここあ @PLEC所属 @rideno351

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ