続・僕の夏休み
をはち
続・僕の夏休み
秋がやってくると、自然は厳しい冬の準備を始める。
動物たちは冬眠に備え、木の実や果実を必死に集め、体内に脂肪を蓄える。
この季節は、生き物たちにとって生死を分ける転換期だ。
そして、それは人間の世界にも微妙に影響を及ぼす。
秋になると、草刈りの日雇い仕事が増える。
夏の草は刈られても再び芽吹く力を持つが、秋の草は違う。
葉を失えば、そのまま枯れ、翌春まで再び生えることはない。
だから、この時期の草刈りは一気に風景を整える。
雑草の無法地帯を切り開き、綺麗な土地を残すのだ。
唐沢憲は、かつて証券会社で働いていた。
だが、酒に溺れる生活がたたり、アルコール依存症と診断された。
妻の勧めでクリニックに通い、抗酒薬を飲み続けたが、
酒で誤魔化してきた仕事のストレスのはけ口を失い、生きる意味を見失った。
ある朝、憲は家を出たまま、タクシーに乗り、二度と戻らなかった。
彼が降り立ったのは、湖のほとりの静かな村だった。
着の身着のままアパートを借り、ひっそりと暮らし始めた。
仕事には困らなかった。秋のこの時期、草刈りの仕事は山のようにあった。
伸び放題の雑草を刈り、汗を流し、その日暮らしを続けるのは簡単だった。
四方から響く草刈り機の音が、憲に「自分だけではない」と安心感を与えた。
一ヶ月が過ぎ、憲はまだその村にいた。
草刈りの仕事は、まるでスポーツのようだった。
刈った後には、背後に広がる整った土地。清々しい汗と澄んだ空気、美しい湖の景色。
そして、賃金まで得られる。
都会でのあの息苦しい日々は何だったのか。
あの頃の自分は、まるで洗脳された歯車の一部だったと、今になって気づく。
「まるで子供の頃の夏休みみたいだ」
憲はそう呟き、心が空に解き放たれるような感覚に浸った。
ある日、草刈りの合間に、ふと足元に懐かしいものを見つけた。
細長く美しいフォルム。黒にわずかにオレンジが混じる鮮やかな配色。ジガバチだ。
子供の頃、夏休みの自由研究でジガバチを調べ、金賞を取ったことを思い出した。
あの頃の自分は、虫の生態に夢中だった。
ジガバチは、土に穴を掘り、そこに捕まえた昆虫を運び込む。
毒で麻痺させ、生きたまま巣に閉じ込めるのだ。
死んだ虫は鮮度が落ち、エサには不向きだからだ。
親は卵を一つだけ産み、孵化した幼虫は麻痺した虫の肉を食べて育つ。
だが、食われる虫の立場で考えれば、これほど残酷なことはない。
意識があるまま、身体を少しずつ喰われるのだ。
毒には麻酔効果があるというが、果たしてどれほどの救いになるのか。
子供の頃、憲はそんな考察で自由研究を締めくくった。
その日、憲はジガバチがせっせと虫を穴に運ぶ姿を眺めていた。
ふと、いたずら心が芽生えた。
子供の頃の研究の続きのような気分で、穴を土で塞いでみた。
すると、ジガバチは正確に場所を覚えているのか、すぐに穴を掘り直した。
三度繰り返しても、ジガバチは諦めず穴を開け直した。
「素晴らしい。まるで昔の俺だ。地獄の歯車とでも名付けようか」
憲は笑い、気まぐれに穴の上に大きな石を置いた。
そして、草刈りの作業に戻った。
二時間後、作業に夢中になっていた憲は、ふとその石に目をやった。心臓が跳ねた。
ジガバチが石の上に止まり、じっとこちらを見ている。
まるで、憲の心を見透かすような視線だった。
不気味な感覚が背筋を這い、憲は慌てて山を下りた。
その夜、憲は久しぶりに酒を飲んだ。
ここには、酒を飲んで迷惑をかける相手もいない。
任された山の草刈りも終えた。来週からは別の山の草を刈る。
自然を相手にしていれば、食うには困らない。
この自由が心地よかった。酒に酔い、憲は服も着ずにそのまま眠りに落ちた。どれほど眠っていたのだろう。
電気をつけたまま、憲は上半身裸で部屋の真ん中に大の字で倒れていた。
電気を消そうと手を伸ばそうとした瞬間、異変に気づいた。
身体が動かない。
抗酒薬を飲んでいない今、長い断酒生活の後に浴びるように酒を飲んだせいか。
それとも、金縛りか。
だが、動けない事実は変わらない。
その時、視界の端で小さなものが動いた。
胸元に、黒とオレンジの細長い影。 ジガバチだった。
「まさか、こいつの毒で動けないのか?」
そんな馬鹿な、と自分を笑い飛ばそうとしたが、身体はピクリとも動かない。
ジガバチのサイズを考えれば、ありえない話だ。
だが、動けない現実は変わらない。
その瞬間、ジガバチが憲の目をじっと見つめた。
そして、にたぁっと笑った気がした。
次の瞬間、ジガバチは憲の胸に白い楕円形の卵を産みつけた。
冷や汗が全身を這う。動かない身体。
胸に張り付いた白い楕円形の卵が、まるで脈打つように微かに震えている。
意識が霧のように薄れていく中、どこからともなく、かすかな音が聞こえてきた。
ザク、ザク、ザク――。
土を掘る音。
誰かが、すぐそばで地面を掻き分けている。
だが、この部屋には誰もいない。
窓の外は暗闇に沈み、ただ静寂だけが広がっているはずなのに、音は止まない。
ザク、ザク、ザク――。
音は近づき、まるで憲の身体の下、床の下から響いてくるようだった。
ジガバチが、卵のそばで小さく翅を震わせ、こちらを見ている。
その目が、暗闇の中で異様に光る。
そして、憲の胸の中で、何かが蠢いた――
続・僕の夏休み をはち @kaginoo8
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