10日間だけ生きた僕

木通口

10日間だけ生きた僕


 目が覚めた。全身が痛む。知らない天井だ。ここはどこだ。


「起きた!やっと起きた!」


 寝起きなのに騒がしい声が耳を経由して全身に響き渡る。目の前には50代くらいの女の人が涙を流しながら喜んでいる。誰だろう。


「どう?痛くない?大丈夫?」


 痛い。全身が痛い。患者衣を着ている。事故って怪我をしたのだろうか。包帯などでぐるぐる巻きにされてないことで大した重症でもなかったのだろう。ただ目の前の女の人の甲高い声が全身を震わせ痛みを誘発する。


「…痛い」


「だよね!痛いよね!ちょっと先生呼んでくるから!」


 そう言って激しくドアを開けて出て行ってしまった。なんて騒がしい人なんだろう。あ、ここは病室か。広めの病室にベッドが三つ隣り合っていてそれが反対側にも並んでいる。僕しか居ない病室、扉から見て一番右奥のベッドで、窓の外からの木漏れ日を浴びている。

 気がつけば病室にいて患者衣を着て女の人が目覚めに喜んでいた。僕は何かしら事故ったとかそこら辺だろうか。じゃあさっきの人は母親かな。逆に母親以外考えられないな。あれだけの喜びようは関係性が近い人にしかできないだろう。ただどんな事故をしたのか思い出せない。

 数分後、さっきの女の人が先生を連れて帰ってきた。先生に隅々まで診られる。聴診器を当てられ、目にはライトを、脈も測られる。纏わりつくその指が不快ではないのはプロの技術だからだろうか。


「意識は大丈夫そうですね」


「良かったです。本当にありがとうございます」


また女の人は泣いている。母親確定だなもうこれは。


「体も大怪我してるわけではないのですぐにでも退院はできるんですが、一応念のためあと1週間くらい入院しますかね」


「もうお願いします、駿もそれでいいでしょ、まだ痛むもんね、居させられるだけ居させてもらおう」


 母親に限りなく近い人がこっちを見てそう言う。 まだ冷静を保ててないのかやや早口だ。もともとこの口調なのかもしれないけど。駿。それが僕の名前なのだろうか。今言うか物凄く悩む。早く言ったほうがいいんだろうけど、母親に限りなく近い人からしたら愛する息子であろう人がやっと目を覚まして安堵に包まれているというのに、そこで記憶を失くしているという新たな障害をぶつけてしまうととんでもないことになってしまうのではないだろうか。でもこのまま流れに身を任せてしまうとこれから先が億劫だし、いずれこのことには気づく訳だから早いうちが良いのかもしれない。

 そう考えている時にはもう「何も思い出せない」と言い放っていた。

 それからは案の定、ほぼ母親はパニックを起こして倒れ込むわで大変だった。何も覚えてないし思い出せないというのに、何か覚えてない?思い出せない?と同じことばかり聞いてくる。記憶をなくしているという状態を肯定してしまうのが嫌だったのだろう。それもそうだ。事故って目を覚さないという壁を乗り越えたら、記憶喪失という更に高い壁が現れたのだから。先生も一瞬だけやれやれみたいな表情をしてため息をこぼしていた。

 精密検査を受けることになり、事故による一時的な記憶障害という診断となった。

 結局あの女の人は”上島千里”という僕の母親らしく、僕は”上島駿”というらしい。ただこれは僕のこの体の持ち主の名前であって、この僕自身の名前ではないんじゃないのだろうか。さっき目が覚めるまでの記憶はなにも思い出せない。この”上島駿”って人はどんな人なのだろう。






 目が覚めた次の日の午前9時頃、病室の扉が開いたと思ったら1人の女の人が立っていた。母親とは違う、僕と同じくらいの年齢で、前髪のないショートカットで小柄なその人は今にも泣き出しそうにこちらを見て立ち止まっていた。そしてダムの壁が崩壊するかのように泣き出したと思ったらこっちに駆け寄ってきて僕のすぐ横で顔を埋めながら数分泣き続けた。恋人ってところだろうか。良かった、心配したんだよ、と泣きながらでも聞き取れるくらい澄んだ声と、微かに匂うシャンプーかなにかのいい香りにどこか心地よさを感じた。

 ”葛西桜”。彼女とは3年半前、居酒屋で隣の席になった本来の僕のナンパをきっかけに出会い、それから交際を始めたらしい。年は本来の僕の2つ上の29歳。今は小学校で先生をしているそう。葛西さんも本来の僕もお互いの親とは仲良くしているっぽくて僕が目を覚ましたことを母親から連絡があってすぐ駆けつけたらしい。幸いにも今日は日曜日だったから学校の心配もなかったようだ。葛西さんは記憶がないことを悲しがることもせず、ただ2人の出会いや一緒に旅行に行ったところ、一緒に食べた美味しいご飯などいろんな話をしてくれたし、いろんな写真を見せてくれた。僕には動物の写真やお城の写真、美味しいそうなオムライスの写真よりも、本来の僕の表情なんかが気になった。僕ってこういう風に笑うんだとか、こんな楽しそうな顔をするんだ、この写真なんかつまんなそうだなと。僕であるはずなんだけど、やはり僕とは違う人のようにしか見えない。葛西さんとの思い出を持っているのは本来の僕であって今の僕には何もない。

 そして夜も遅くなってきた時に、一件の通知音がなった。どうやら本来の僕の携帯らしい。


”烏丸一 意識戻ったんか!良かったな!”


 という一言がそこにはあった。


「あ、はじめくんからだ」


 新しい人だ。


「はじめくんはね、しゅんとコンビ組んでる人だよ」


 僕はこの烏丸一と”花壇”というコンビでお笑い芸人をやっているそうだ。芸人をやっているのも5年目らしくて全く売れていない。葛西さんが本来の僕のスマホを自分の端末を操作するくらいスムーズにロックを解き返信している。それだけ使いこなせているということは信頼のある関係性だったんだろうか、それとも全て監視下にあったのだろうか。葛西さんのこれまでを見るにしっかりしていて面倒見は良さそう。 確かに小学校の先生をやっているんだからそういうお世話とかは得意なのだろうな。


「細かいことは私から連絡しとくから。明日くらいにはじめくん来るかもね。とりあえずゆっくり休んで。意識戻って本当に良かった」


 そう言ってキスをして病室を出て扉を閉めるまでずっと手を振り続けていた。日常的なキスかもしれないが、僕としてはファーストキスだったことに不覚にもドキッとしてしまった。上の空で暗い部屋の天井を眺めていると通知音と共にスマホが光った。


“葛西桜 意識戻って本当に良かった!早く記憶戻るといいね!”

“葛西桜がスタンプを送信しました”


 しまった。ロック解除の数字を聞きそびれた。






 烏丸一という男が病室に来たのはそれから2日後のことだった。バイト急に入れられたりしてなかなか時間作れなかった、とヘラヘラしながら話しかけるその男は、僕と違って身長が高くすらっとしており顔も爽やかで整えられた短髪が良く似合うとても華がある男だった。影なんかない明るい場所でずっと育ってきたようなその目の輝きに少しだけ眩しさを感じる。体の具合とか記憶がないのはどんな感じなのかどんどん聞いてくる。その度になんてことない返答をすると、手を叩きながら笑って喜んでいた。


「俺も記憶なくしてみたいわぁ。まぁ、飲みすぎた日とか普通になくしてるけどな!」


 自分の言葉でこれだけヘラヘラ笑えるのかと疑問が湧いてきたが、今はこいつのことと、こいつとのことを知ることが優先だとその胸は思い留めた。

 同じ歳である本来の僕とこいつは2年前にお笑いの養成所で出会い、本来の僕が誘ってコンビを組んだらしい。どうやら本来の僕もこいつから出ている華やかさに惹かれたようだ。見た目が良い奴が得するだの、ファンが付きやすいだの、売れるきっかけはお前だの、と本来の僕から言われて嬉しかったぽいことを自慢げに話してた。そしてこいつも本来の僕が書いた漫才というものを評価していた。


「お前のネタ面白いんだよ。俺にはわかる。今は全く評価されてないけどな!」


 こうも面と向かってその人のことを褒めることに多少の恥じらいも感じないことも不思議だったが、それがこいつの良さというのはこの短い時間でもよくわかった。良く言うと裏表がない、悪く言うとバカ。まぁ人がいいんだろう。


「で、どうなん。新ネタ書けそうなん?」


「新ネタ?」


「来週ライブあってさ、もう意識戻ったって聞いたからエントリーしちゃった。でも記憶ないから書けないか。まぁありネタやるしかないな。どのネタにする?やっぱ金?それとも睡眠導入?」


 僕の知らない言葉が入り乱れる。


「あれ、そういえばネタって覚えてんの?それの記憶もない系?」


「よくわかんないけど、そこらへん全体の記憶は全くない」


「ちょっとまってそれやばくね?」


 一瞬真顔になって緊張感が張り詰めたかと思ったが、すぐにお前は覚えるの得意だから大丈夫だろ、俺の方がまた飛んじゃうか、とまた大口を開けて笑っていた。能天気という言葉が良く似合う。でもその気持ち良いくらいの笑顔は見てるこっちも微笑んでしまうくらい温かいものだった。

 2時間くらい経った後バイトに行かないとと言って席を立ち、また来るわと言い残してドアに近づいていく。そして何かを思い出したかのようにこちらを振り返った。


「てかお前、記憶なくしてるけどこうも別人っぽくなるもんなんだな」


 心の中で何かが大きく動いた気がした。


「映画とかで見たことはあるけど、まんまだな。自分のこと俺じゃなくて僕とか言ってるし。まぁその静かな感じは似てなくもないけど、なんか燃えてないって言うかギラギラしてないって言うか。それすら忘れてるってことか。まぁいいわ。じゃあな」


 さっきまでとは違う静まり返った病室で、僕の鼓動と、風に靡く木々のざわめきが開いた窓から僕の耳を伝って全体に響く。体はもう痛くなかった。






 退院したのは目を覚ましてから5日後、一が訪れてから2日後のことだった。迎えに来てくれていた葛西さんと一と3人でお世話になりましたと先生に挨拶だけしてその病院を後にした。母親は実家のある長崎にいるらしく、退院の時まで来るのは大変だろうと葛西さんが代わりに立ち会うからと連絡をしていたらしい。


「これからどこ行くの」


「どこってしゅんの家でしょ。自分の家なら何か思い出すかもしれないし、ね?」


「まぁ」


「でもお前家の場所覚えてねぇんだろ?」


「私たちが覚えてるでしょ」


「確かに。俺らも記憶なくしてなくて良かったな!」


「ちょっと!そんな軽々しく」


 病院の最寄駅から本来の僕の家まで電車を一回乗り継いで45分くらい。その間、葛西さんと一は記憶はどうすれば戻りやすいだのずっとスマホと睨めっこしながら言葉を飛ばしあっていた。時折僕に話しかけてきていたが、そんなことどうでも良かった。2日前に一から言われた「記憶なくしてるけどこうも別人っぽくなるもんなんだな」という言葉がずっと頭の中を駆け回っていた。そう。別人っぽすぎるんだ。記憶をなくしているにしてもあの目を覚ました日以前の感覚が何もない。急にあの日から僕の人生が始まったような。僕と本来の僕はただ同じ体を共有しているだけの赤の他人なんかじゃないかと。それを言われた次の日に見舞いに来た葛西さんにこのことを話した。


「それが記憶をなくしてるってことなんじゃないの?しゅんはしゅんのままなんだからそんなに気にしなくてもいいんじゃない?私は気にしないよ。今のしゅんも私が大好きなしゅんに代わりないから」


 そういうことじゃないんだ。葛西さんと付き合っているのは僕じゃなくて本来の僕なわけで、そんな僕に揺るがない愛を語られても僕には葛西さんへの愛はないんだから。


「ついたよ」


 その一言で我に帰った僕は、本来の僕の家に上がり込んだ。六畳一間のその部屋。物も少なくて綺麗に片付いている。本来の僕は綺麗好きなのだろうか。


「あれ、こんな部屋綺麗だったっけ」


「いやいつもは汚いよ。私がたまに来て掃除してるの」


「うわー羨ましいわそれ。桜ちゃん今度俺の部屋も掃除してよ」


「2万円ならいいよ」


「そんな金あるわけないじゃん、彼氏の相方だよ俺?」


「無理です」


「手厳しいね〜」


 また輝かしい笑顔で笑ってる。確かに一の部屋は汚そうだ。ここまで想像と現実が一致しているのも珍しいのではないだろうか。そして本来の僕も片付けが苦手なのか。これは想像のしょうがない。妥当でも意外でもない。ただその事実があるだけ。


「よしネタ合わせするか」


「嘘でしょ?まだ無理に決まってるじゃない」


「いやだってライブ3日後よ?ネタ合わせしないと。記憶ないから尚更」


「記憶ないから尚更休まないとでしょ。思い出すことを優先しないと。ね?」


 葛西さんはちょくちょくこっちに話を振ってくる。口論になった時に無意識に仲間を増やしたいのだろう。


「でも今までのこいつなら、こうなっても絶対ライブ出てたから。出ない選択肢なんかあるわけないだろって」


 あ、本来の僕は結構アツいタイプだったのか。あの日言われたギラギラという言葉の意味がやっとわかった。芸人として売れるために必死だったのか。


「で、でもお笑いやってた記憶もないんだからできないでしょ」


「体が覚えてるって、台本もこいつ覚えるの早いから大丈夫だよ」


「いま記憶とか大変な時に、またなにか無理矢理覚えさせるの?それで記憶戻るの遅くなったらどうするのよ」


「僕、それ出たいかも…」


 勝手に口がそう動いていた。僕には本来の僕が持つお笑いへの情熱なんてないし、正直どうだっていい。ただこの本来の僕が人生をかけれるだけのお笑いというものがどれだけのものか体験してみたくなった。


「ほらね」


「そんなぁ」


 明るい顔と悲しそうな顔が同時にこっちに向く。ただその先に僕はいない。一が言っているのも本来の僕のことで、葛西さんも大事なのは本来の僕のことで記憶が戻ることを優先している。その対象は僕ではない。僕は僕が誰なのかわからない。”上島駿”という体に入っているこの僕は一体誰なんだ。記憶がもし戻ったとしたら僕はどうなるだ。


 結局夜の9時ごろまでの4時間ネタ合わせとやらは続いた。その漫才というものがどんなものか以前に録画しておいた動画を見たり、YouTubeに上がってある有名らしい芸人らの動画を見る。会話劇の延長線上みたいな掛け合いで、ボケとツッコミに別れてそれで笑わせるという。上島駿はツッコミらしい。本来の僕が書いたという漫才の台本を読んだが、何が面白いか全くわからなかった。笑わせようとしているのはわからなくもないが、これを何故面白いと思ったのかわからなかった。一は面白いよな〜と目を輝かせていたし、葛西さんも面白いよねと笑っていたが、僕にはそれがわからなかった。


 なくしている記憶の中にこれを面白いと思う部分が含まれていたのだろうか、これを面白いと思うための事前知識のようなものが喪失しているのか、今の僕に異常があるのか、それとも本来の僕が面白くないのか、今の僕には知る由もなかった。

布団に入る。僕には馴染んでないが、体が馴染むのがわかる。僕としては病室のベッドと変わらない。枕の横に置いたスマホが通知音と共に光る。


“葛西桜 本当に大丈夫?無理してない?”


 葛西さんに教えてもらった”0000”というパスワードを入れてロックを解除する。意味をなしているのかわからないそのパスワードに本来の僕の性格が少しづつわかってくる。


“全然大丈夫。ありがとう”


“葛西桜 そっか。無理しないでね”

“葛西桜がスタンプを送信しました”


 本来の僕と葛西さんのやりとりを見るのは、なにかいけないことのような気がしてスクロールをやめたが、初めて葛西さんとあった日に送られたスタンプは熊がとても喜んでいるものだったのに、今回のスタンプは泣いているスタンプだった。

 そしてこの日初めて夢を見た。


 とても長い登りだけのエスカレーターに乗っている。先を見ても後ろを見てももうどこまで続いているのかわからないくらい長いエスカレーター。あたりは夜のように暗く、ただエスカレーターの足元と手すり部分だけ不気味に発光していた。どんどん登っていく。風もない。だいぶ上まで来た。大きな雲の中にそのエスカレーターは続いていた。その雲の先になにがあるんだろう。少しドキドキしながら雲の中に入っていく。そしてやっと雲を抜けその先に大きな扉が見えたと思ったら、本来の僕の名を呼ぶあの心地よい声によって起こされた。





 ライブの日。花壇の2人が所属する事務所の若手芸人によるライブ。昼から夜までの全4公演。僕らは15時開演の2公演目に出演することになっている。ライブの日まで毎日朝と夜に葛西さんは様子を見に家に来た。心配性がすぎるのかただ単に本来の僕のことが好きすぎるのか。昨日は土曜日だったためそのまま泊まって、今日のライブも観にくるそうで花壇のネタを久しぶりに観れると喜んでいた。

 ネタ合わせというのも毎日やって練習を重ねた。動画を撮って本来の僕と見比べる。本来の僕は結構声を張るタイプのようだ。声が強い。でも僕には似合わない。そら別人だからそうなのだが。僕はそれに近づけようとしたが、一はそれだと無理してる感じするから自然でいいよと言ってくれた。本来の僕には申し訳なかったが、それを受け入れて今の自分にできる範囲でやった。一はよく褒めてくれた。このタイプのツッコミもいいな!とか今の間ものすごく良かった!これならウケるな!と初めてやるからこそ気持ちが沈まないように気を遣ってくれているのか、いや、一はそんなことするタイプではない。純粋にそう思って言ってくれているのだろう。いい奴だ。


 ただ1つのことだけは首を振った。台本を変えることだ。ここの部分こうした方がいいんじゃないという提案は悉く却下された。自分で読んでてわかり辛いところを指摘しても、これにはあいつの拘りがあるからさと改善するのを許さなかった。”あいつ”。もう一も僕と上島駿を別人として捉えていた。

 そして開演の1時間前に会場に着いて控え室に向かう。広いとは言えないその控え室にはもう既に10数人の人らが着替えたり練習したりしていた。一が指定した場所に荷物を置いて、先輩らしき人らに挨拶に回っていた。お前は何もしなくていいからと言われていたが、この圧倒的アウェーな場所に1人でいるのもしんどかったからこっそり後ろをつけていた。挨拶が終わり同期と思われる人と仲良く喋り始めた時に本来の僕の名前が上がった。


「そういや上島事故大丈夫やったん?」


「ま、まぁ」


「なんやその感じ、もう緊張しとるんか」


 本来の僕と親しかったのか僕のその些細な異変に気づいて笑いながら指摘してきた。


「あんま大きい声でいえないんだけど、こいつ記憶喪失なんよ」


「まじで!?」


 一はどうやら誰にも言ってなかったらしい。別に言ったところでなにもならないし、余計に噂とかになるのは今の僕にとってよくないことだろうからと、気を遣ってくれていた。そんな同期に記憶をなくしていることを話してもあの時の一みたいに手を叩きながら笑うことはなく、心配そうな顔でただただ話を聞いていた。


「大変なんやなぁ」


「めんどくなるからあんま言わんでな」


 そしてその同期と別れて自分らの番が来るまで練習を続けた。

 舞台袖。前のコンビがネタをやっている。2分間という制限時間の中で2人の掛け合いが会場に響いている。笑い声は起きない。僕もそれを聞いてて何が面白いのかはわからない。笑わせようとしているところも本来の僕が書いた台本よりも劣っていると思った。


「どうもありがとうございました」


 静まり返っていた会場が拍手に包まれて、音楽が鳴りだす。前のコンビが舌打ちしながら通り過ぎて控え室に戻って行った。


「よしいつも通りな」


 このいつも通りというのが、コンビを組んでからのいつも通りなのか、今の僕との数日間でのいつも通りなのかわからなかったけど、そうこうしている内に一は舞台へと飛び出していった。


「どうも〜!」


 それに続くように僕も飛び出す。明るすぎる照明が目を眩ませる。会場のキャパ100人弱くらいのところにまばらだが全体的に埋まっているような感じだった。右奥らへんに葛西さんの姿が見えた。手を組んでなにか祈っているようだった。初めて人前で漫才をするが不思議と緊張はそんなになかった。


「どうも花壇です。よろしくお願いします!」


 一の挨拶に合わせて一礼する。次、僕のセリフから始まる。


「あの、この間彼女とデートに行ってきまして」


「そうなんだ」


「朝からドライブして箱根まで温泉旅行いったんですよ」


「いいじゃない」


 大丈夫。ちゃんとセリフは出る。そんなに緊張していないせいか練習の時と同じような感じでやれてる。いつも通りでできてる。


「まず彼女迎えに行って、それからまずドライブスルーで朝ごはん食べてね」


「え、ドライブスルー?」


「そう朝ごはん」


「いくら?」


「え?」


「そのドライブスルーの朝ごはん、いくら?」


「まぁ1,000円ちょっとかな」


「ほぉ」


「で、高速乗っていってね」


「高速?いくら?」


「高速?」


「高速」


「えー、2,000円くらいだったかな」


「ほぉ」


「で、車内も彼女が好きって言ってた歌手のCD流してね」


「CDいくら?」


「なんかうるせぇなお前」


 シーン。

 静まり返る会場に空調の音だけが響いている。お客さんには伝わらなかっただろうが一の表情が一瞬曇ったような気がした。


「なにが?」


 それでもネタを続ける。続けるしかない。2分がすぎるまでここから出られない。終盤に差し掛かっても空調の音しか聞こえない。たくさん練習したおかげかセリフは立て続けに出てくる。しかし、次のセリフってところで無音が生まれた。

 ん?なんだ?

 一を見るとしまったみたいな顔をしている。そうか。一がネタを忘れたんだ。泳いでいる目とたまに目が合う。一の口から全然セリフが出てこない。僕はどうすれば良かったのだろうか。数秒たった後に本来のセリフからいくつも先のセリフを言ってきた。一瞬困ったが物覚えがいいのは本来の僕と同じなのかすぐ軌道修正してそのまま最後までなんとかやり切った。


「ありがとうございました」


 また一礼して顔を上げた時に、右奥の葛西さんと目が合った。険しい表情をしていたが、目が合ったとたん笑顔を作り口パクで何かを言っていた。この時頭が一瞬真っ白になった。ネタのセリフを忘れたとかでもない、なにかショックがあったわけでもないが、急になにも考えられなくなり、その頭の中にはあの長く伸びるエスカレーターが静かに動いていた。手をひっぱられて我に返る。拍手が鳴っている。ただ僕には響かなかった。少しだけ体ではなく心が痛い。



 控え室に戻って着替えた僕らはその会場から離れた公園にいた。


「ごめん、本当にごめん。ネタ飛ばした。しかも大事なところで。ごめん。お前は初めてなのにちゃんとできてたのに、俺は…ごめん…」


 一は何度も何度も謝っていた。しかしその謝罪の対象は僕の初めての舞台を失敗で終わったことではなく、この本来の僕が書いたネタを完璧にやり切れなかったことに対するものというのは自然と理解してしまった。僕も初めて漫才というものを体験したが残念ながら本来の僕のアツくなる理由というのはわからなかった。ただ涙を流し始めた一を見たらわかる人にはわかる何かがあの舞台の上にあったのかもしれない。


「全部俺のせいだ。駿は面白いネタを書いてくるのに俺がずっと下手でずっとネタを忘れるから全然だめなんだ。駿は面白いのに俺のせいで面白くないってなってしまう。あいつは面白いのに、あいつは絶対売れるのに、俺じゃだめなんだもう」


 この一という男にとって、本来の僕である上島駿という男は本当に人生を預けるにうる存在なのであろう。心から面白いと思い尊敬し信頼している。それなのにそれに応えられない自分が不甲斐なくて泣いているのだろう。いつもこうなのだろうか。  

 もしこうなってしまったら本来の僕はなんて声をかけたのだろうか。俺が選んだからそんなこと言うな、お前の面白さは俺が一番わかってる、俺にはお前が必要だ、こんなことを僕が言ってもたぶん一には響かないだろう。もう一には僕のことなんて映ってない。一に必要なのはこの上島駿の体ではなくて上島駿という本来の僕なんだ。 

 僕も目の前で泣き崩れる一にかけてあげる言葉なんて見つからない。叶うことなら今すぐにでも記憶を戻してあげたい、それだけだ。しかしそれの方法もなにも思いつかない。そんなこと可能なのかもわからない。一の涙を啜る音は公園の反対側で遊んでいる子供たちの声にかき消されて僕はただ雲ひとつない空を見上げていた。眩しくはなかった。


 バイトがあるからと一は帰って行ったが、僕はまだ公園のブランコから動けなかった。僕は今なにをしているのか。何のためにこの上島駿として生きているのか。葛西さんにも一にも見られていないこの僕の存在の必要性が。本来の僕が命をかけているであろうお笑いに挑戦しても、本来の僕が愛してるであろう恋人と触れ合っても、本来の僕が選んだ相棒のような存在と短いなりに長い時間共にしても、なんの収穫もなかった。やはり分かり合えないのだろうか。やはり僕と本来の僕とでは大きな違いが、違いというかもう全くの別のなにかなんだろうか。


 ピコン。

 ポケットからスマホの通知音が鳴る。


“葛西桜 今ライブみおわった!おつかれさま!今どこにいる?”


“近くの公園にいる”


“葛西桜 はじめくんも一緒?”


“バイトあるからって帰って行った”


“葛西桜 そっか!しゅんはまだ帰らないの?”


“そろそろ帰ろうかな”


“葛西桜 じゃあ私も一緒に帰っていい?”


“ごめん、疲れたから今日は1人にさせて”


“葛西桜 わかった!おつかれさま!今日初めてなのに良かったよ!ゆっくり休んで!”


 葛西さん的に初めての舞台で失敗したことを慰めたかったのだろう。文面に面白かったという言葉がなかったことがなによりもそれを物語っていた。ただ今は1人になりたかった。心配して僕に寄り添ってくれるかもしれないが、本来の僕への愛情のようなものを少しでも感じてしまうと僕はどこにでもいられなくなってしまう。誰からも見られないのなら誰からも見られないところにいればいい。そう言えばいつもの熊のスタンプが送られてこない。申し訳なさもあるためそれの償いとして僕から同じ熊のありがとうと感謝しているスタンプを送ったが、そのスタンプの左下の16:41という刻まれた時刻の上に静かに既読という文字がついただけだった。






 家に帰りそのまま布団に入る。疲れた。たった2分間だったのにもう何もしたくないくらいに疲れている。お腹は空いているのに何も食べたくない。2分だけの疲れでもないか。きっとこの1週間分の疲れがやってきたのだろう。そのまま自然に目を閉じ眠りについていた。

 気がつくとそこはあのエスカレーターの上だった。以前夢で見て、さっき漫才が終わった後にも一瞬見たあのエスカレーター。今回は途中で起きないでくれよとあの日見た大きな扉のその先が知りたくてたまらなかった。もうエスカレーターを歩いている。立ったまま待つほど今の僕には余裕がない。早くその先に。

 大きな雲にどんどん近づいてもその足を止めない。やっと抜けたその先には大きな扉が僕を待っていた。あまりにも大きいその扉に僕の力で動かすことはできるのだろうか不安だったが、エスカレーターを降りてふわふわしている雲の上に乗る。扉の正面まできていざ扉を開けようと両掌を扉に合わせた時、大きな鈍い音を立ててその扉は勝手に開いた。呆気に取られてその先に広がってる空間を認識するのにやや遅れてしまった。とても広い。体育館くらいの広さか。床も壁も天井も全て白く、白すぎるあまりその境目がわからなくて不思議な空間。その真ん中に空間を持て余すくらいにこじんまりとした机と椅子、そして1人の人間が目の前のパソコンと睨めっこしていた。

 恐る恐る近づいても目の前の人は気が付かない。


「あの〜」


 手を差し出しなんとか視界に入ろうとしながら声をかけると、ハッと!顔を上げて丸くした目をこちらに向けながら驚いていた。


「あ、お客さん?」


「お客さん?」


「とばしちゃった?」


「とばしちゃった?」


「記憶記憶」


「ど、どういうことですか?」


 淡々としたその女性は葛西さんと同じくらい小柄で、綺麗に整えられた長髪と白い綺麗な制服を身に纏っていた。


「え、君誰?」


「こっちのセリフでもあるんですけど」


「あ、もしかして派遣人格?」


 知らない言葉が出てきた。派遣人格。繋がるはずのない2つの言葉があたかも当然存在しているかのように彼女の口からするりと出てきた。


「すみません、何も知らなくて。ここのことも、これって夢ですよね」


「夢って言えば夢だけど、夢じゃないって言えば夢じゃないよ」


 とても曖昧な表現だ。


「まぁ一個ずつ説明すると、ここは人格ホカンセンターね」


「人格保管センター?」


「そう。簡単に言うとあなた記憶喪失になったでしょ?それってね記憶喪失と言うか、何かショックとかがキッカケでその人の元にある人格がこの人格ホカンセンターに飛ばされるの」


 何かショックで人格がこの人格保管センターに飛ばされる。僕の場合交通事故のショックによってここに本来の僕の人格が飛ばされたってことか。


「でもそれだと元々の体に人格が何もないってことになるじゃない?そのままだと意識ないままになっちゃうの。それを避けるためにここから別の人格をその人を補完するために人格を作成して派遣するの。記憶喪失とかでなんか人が変わった感じになるじゃない?言葉遣いが変わったりさ、ただ記憶無くしてるだけなのにあれって変でしょ?それはもう人格ごと変わってるからなの」


「じゃあ僕もその作られて派遣された人格ってこと?」


「あら、そっち側って自覚ないの?まぁそういうこと。代わりに派遣される人格も、その元の人格によっていろいろ決められるって感じ。口調とか性格の感じとか。その人の人間力によって選べる項目は増減するけどね。」


 今とんでもない事実を目の当たりにしているはずだけど驚きはそんなにない。それは自分でも辿り着きそうなところにいたからであろう。今の僕と本来の僕とでは全く違う存在というあの感覚。それはその通りだったんだ。僕はただ本来の僕を補完するために派遣された存在で、僕は別に何者でもなかったんだ。僕の感覚は間違っていなかった。間違っていなかったけれどその分心は大いに傷んだ。ずっとそうだと思いつつあったのに、そうあって欲しくないからそれ以上を考えなくしてたのに。それが現実となって無情にも自分にあるはずのない心を締め付けてくる。


「で、何のよう?」


「え?」


「私忙しいのこう見えて。何のようなの?」


 正直聞きたいことはいっぱいあった。ここはどこにあるのか、自然と出入りできないのか、こう言う場所は他にもあるのか、あなたみたいな人は他にもいるのか、そしてあなたは誰なのか。ただそんなことを聞いてもただ派遣された僕には意味のないことだ。


「あの僕の元の人格っていつになったら戻るんですか?」


「あなた誰?」


「いや派遣されている方なので名前とかわからないです」


「違う違う。その体の名前」


「あぁ、上島駿です」


「はいはいはい」


 そう言って僕に向けていた視線をパソコンに戻しカタカタとキーボードを叩き続ける。キーボードを叩くスピードが速く、視線を一度もキーボードに落とさないから仕事はできる人なんだろう。


「出た。上島駿。えっとあなたね、いつでも戻れるよ」


「は?」


「もうショックからの指定された休息期間はすぎているからいつでも戻れるよ」


 どういうことだ。元の人格はもう戻れるはずなのにまだ僕のまま。確実に戻ってない。


「えっと、まだ戻ってないはずなんですけど、それってどう言うことですか?」


「戻りたくないんじゃない?」


 戻りたくないんじゃない?


「まだここにいたいんでしょ。まぁ現実の世界って大変だからね。わからないこともないね」


「戻りたくなかったら戻らなくてもいいんですか?」


「そらね。ずっと居たかったらずっと居ていいよ。記憶が戻らない人もいるでしょ?それよそれ」


 なんでわかんないのと呆れたように言ってくることも全く鼻につかないくらい、理解し難いことだった。本来の人格が戻れると言うのに戻らない選択をとっている。戻るのが普通じゃないのか。戻らないということは死と同等のことではないのか。まだ若いはずなのにもうそんなことをするのか。家族も恋人も相方という存在もいると言うのに。孤独じゃないのに。考えても考えても理解できない。


「その本来の人格って今どこにいるんですか」


「あそこ」


 回転する椅子を180度回転させ、その先の遠くに見える扉のようなものを指さして答えた。遠くだけど入ってきた扉よりも小さい扉なのは一目瞭然だ。


「あの、もし本来の人格が戻ったとしたら、僕みたいな派遣された人格ってどうなるんですか」


「それ聞いてどうすんの」


 確かにそうだ。聞いたって意味がない。もしどこかにまた保管されたとしても、また別の人格を補完するために派遣されるからその時の記憶はなくなるはず。実際目を覚ました時にはなんの記憶もなかったわけだから。それとも廃棄とか消滅とかもう終わりなのだろうか。そうだったとしても抗うことはできず受け入れるしかない。その結末を聞いたとしても意味はない。怖かったんだな。もしそうやって消えてしまうのが。


「やっぱ大丈夫です。いろいろありがとうございました」


「うん!じゃあ気をつけてね!」


 そう笑を見せてまた目線をパソコンの画面に移した。キーボードを叩く音がリズミカルで心地よく感じる。その人を通り過ぎて先にある扉を目指す。この理解し難いモヤモヤを晴れさせるために進まなければならない。なぜそんな選択をとっているのか。そして本来の僕はどんな人間なのか。確かめたい。どんどんキーボードの音が小さくなっていき、ふとその音が止まった。もう聞こえなくなったのかと振り返ってみると、さっきの人がこちらに背を向けたまま後ろ向きで手を振っていた。僕もまた正面を向いて後ろ向きで手を振りながら歩き出した。キーボードの音がまた微かに聞こえ始めたと思ったらすぐ聞こえなくなった。

 そして目の前には普通のサイズくらいの扉。何も聞こえない。この先に何があるのか見当もつかない。何が広がっているのだろう。現実の世界のような街が広がっているのか、それともこの人格ホカンセンターならではの不思議な空間が広がっているのか、多少の好奇心を胸に両掌を扉に当て強く押し開けた。


 扉を押し開けると、一瞬、眩しい光が視界を覆った。目を慣らすとそこには桃源郷が広がっていた。丘陵には花が咲き誇り、澄んだ小川が静かに流れている。草原は風で靡き、佇む果実を実らせた大きな木々には小鳥たちが群れをなし心地よい囀りを風と共に運んでいる。目を疑うほどの美しい世界に僕は息を呑みその場から動けなくなってしまった。どこを見ても浄化される様な空間の中で鹿やリス、小鳥たちらと戯れている1人の人間を見つけた。どんどん近づいていってようやくわかった。僕だ。僕ではない、本来の僕だ。




「お?これは珍しい客だな」


 調子の良さそうな明るい口調が僕とは似ても似つかない。漫才の練習中に見た花壇の動画の上島駿そのものだった。


「何しにきたんだ?もうあの世界には飽きたか?」


「よくそんなことが言えるな」


「あ、結構怒ってる感じ?」


「当たり前だろ」


「なにを怒ることがあるんだよ。存在できなかったはずの派遣人格がこうやって生きられてるんだぞ?嬉しいことじゃないの?なんか漫才やってたっぽいし、楽しかった?」


「いい加減にしろよ」


 我慢の限界だった。こいつの言ってることもわからなくもない。本来自分という存在は誰かが記憶を保管されない限り生まれない存在。この瞬間を生きれていることも、こいつに生かされていると言うことに変わりない。だからこの本来の人格に何も口出し出来るような立場でないのもわかる。ただ別に生きたいと思って生まれたわけでもないし、こっち側に決定権はなに一つとない。それでもこいつのことを待ち望んでいる人らがいるというのに、それを裏切る様にここでただただ過ごしていることが許せなかった。


「お前の帰りを待っている人がいるだろ。なんでこんなところにずっといるんだよ。早く帰ってこいよ」


「なんでお前が怒ってんの。お前に何も関係ないだろ」


「関係ないよ。関係ないけど葛西桜と烏丸一はどうすんだよ」


「は?」


 上島駿が動物にあげていた林檎を強く握り締めその手からは果汁が滴っている。その異変を感知したのか動物たちも散り散りになって帰っていった。


「葛西さん。お前のこと本当に愛してたぞ。僕なんか見てる様で全く見てなかった。見た目は同じでも葛西さんにはお前しか映ってないんだよ」


「だからもういいんだよ」


 静かに低い声でそう呟く。


「あれだけ心配してくれて応援してくれてるのになに無下にしてんだよ」


 林檎が潰されてそのカケラが地に落ちた。


「俺にはもう無理なんだよ!桜ももうすぐ30で付き合ってもう3年。結婚を意識してるの俺だってわかってるよ!向こうの親からも言われるよ。でも今の俺には結婚なんかできねぇよ」


 怒りと一緒に悲しさも漏れている。語尾がどんどん小さくなる。


「なんで」


「お前だってわかっただろ。あのネタ。あのライブ。俺が今まで作ったネタでいちばんのネタだぞ。それがあれだぞ。全くウケない。面白くなかっただろ」


「面白くなかった」


「そんなハッキリ。そうなんだよ。もう5年目なのに全く日の目を浴びない。わかってるよ俺には才能なんてないんだよ。桜はそんな俺でも良いって支えてくれたけど俺はそんな桜には見合えない。そんな価値ない」


「情けないなお前」


「なんだと?」


 また語尾に力が宿った。怒りが募ってる。その怒りは僕へのものか、あいつ自身へのものか。


「お前が桜に見合えるだけの男になればいいだけだろ。そんなに才能がないとかわかってたらやること一つしかないって」


「そんな簡単にやめられるかよ!俺1人の問題じゃないんだよ!烏丸がいんだよ。あいつは俺のこと本気で面白いと思って信じて着いてきてくれてんだよ。俺が誘ったあの日からずっと!もうあいつの人生も俺のものなんだよ!」


「何言ってんだお前」


「もう逃げたいんだよ全てから。桜からの結婚の雰囲気も、烏丸からのお笑いの熱量も。全部応えたいのに応えられない自分の実力の無さからもう目を背けたいんだよ!ここにいたら何も考えなくていいんだ、だからずっとここにいたいんだよもう帰ってくれ」


 涙が混じったような潤んだ赤い目が僕を見つめ噛み締めるように訴えてくる。その体は小さく震えている。


「だから、応えたいって思ってるんじゃん!応えたいんだろ2人の気持ちに!じゃあもっと応えようとしろよ!」


「だからそれが無理なんだって!」


「無理じゃない!無理じゃないよ。応えたいという想いが本当にあるのならもっと頑張れるだろ。辛いことあってもその2人が糧となって頑張れるだろ。うだうだ文句垂れる前に他に何も手がつかないくらいやることやってみせろよ!バカ!」


「それでも結果がでないのがお笑いの世界なんだよ!」


「じゃあそれでもいいだろ!それでいいよ。結果が出なくてもそれまでやってきたことを2人は見てくれるよ。全然売れてなくても辞めたとしても上島駿という葛西桜に愛されて、烏丸一に信じられてる人間は変わんないだろ」


 気がつけば2人とも泣いていた。なぜ僕も泣いているのだろう。偶然補完されたこの体の持ち主とその人に深く関わる2人との歪みを元に戻したい、より強固にしたい。自分がこんな感情になるなんて想像もつかなかった。こいつがどうなろうがどうでも良い、でもこいつを信じている葛西さんと一という2人の人間には幸せになってほしい。そのためには僕ではなくてこいつ上島駿しかダメなんだ。


「まだ間に合うかな」


 泣き崩れた駿が振り絞りながら言う。


「当たり前だろ」


「頑張るよ。頑張ってみせるよ。2人のために。絶対やってやるよ。見とけよ」


「見せてみろよ」


 止まっていたその桃源郷に温かな風が僕らの涙を撫で、囀りながら飛ぶ小鳥たちがその風に乗り羽ばたいていった。






 気がつくと部屋のベッドの上だった。昨日帰宅してすぐ倒れ込んで、そのまま眠ってしまっていた。時刻はもう11:20を回っている。まだ人格は戻ってない。そんな昨日の今日で戻ることはできないのだろう。ただ今日で最後だということはわかる。 

 あの言葉には嘘はないだろうから。

 一に会えないかと連絡を入れる。

 30分くらい経ってから、今日はもうずっとバイトあるから厳しいと返ってきた。ずっとバイトやってるな。ちょっと電話できないか、と送信したらすぐ既読がついて着信がかかってきた。


「もしもし、どうした?」


「いや大したことじゃないんやけど」


「なになにそんなかしこまって」


「ありがとうな」


「は?」


 ちょっとの沈黙のあと、電話の向こうからは相変わらずの大きな笑い声が響いていた。


「お前今日で死ぬのかよ」


 と足をドタバタしながら笑っているのが伝わってくる。心が温かい。


「2週間後のライブエントリーしておいたから!次何のネタやる?新ネタ?あ、新ネタって言ってもまだ記憶ねぇから無理か!」


 止まらない笑い声に釣られて僕も微笑む。そしてその笑い声に包まれたまま電話を切る。

 そして次に葛西さんに連絡を入れる。


“葛西桜 18時くらいには帰れると思う!そのままそっち行くね!”


 18時を27分過ぎた頃に玄関のドアが開いた。


「どうしたの?駿から呼び出すのめずらしいね」


 そうなんだ。それは知らなかった。


「なに?」


 隣に座った葛西さんは首を傾け微笑みながらこちらを覗き込んでくる。


「別になんでもないよ、ただ呼んだだけ」


「はいはいそうですか、そんなに私に会いたかったですか」


「違…」


 そう言いかけた時に抱きしめられた。一瞬呆気に取られたが僕も抱きしめる。鼻のあたりにある葛西さんの髪の毛からいい匂いがする。


「今日で最後なのかな」


「え?」


「なんかそんな気してね。当たってた?」


「まぁ」


「女のカンってすごいでしょ」


 そう言って笑いながら見上げる顔はとても可愛くて無邪気な笑顔だった。


「ねぇ、これって浮気になるのかな」


「いや、ならないでしょ」


「そうだよねならないよね。何言ってんだろ」


 そして僕はキスをした。鼓動はどんどん大きく激しくなっていく。


「すごいドキドキしてるね」


 まだ夕日も落ち切っていない赤く澄んだ空には、小鳥の群れが囀りながらその夕陽に向かって羽ばたいていた。その夕陽の先には何があるのか。帰るべき巣か、生きていくためのか食料か、生きる道標となる夢か、はたまた本能の赴くまま旅にでも出るのか。その鳥たちも向かう先は誰も知り得ない。その鳥たち自身も。





 目を覚ました駿はそのまま一旦部屋全体を見渡してベッドから起き上がる。この10日間の記憶は鮮明ではないもののぼんやり残っている。自分ではない誰かが桜と話し、烏丸と漫才をやって、そして自分自身と対峙した。タバコを吸おうと机に手を伸ばした時に置き手紙のようなものをみつけた。


“やれよバカ”


 駿はタバコに火をつけ、ひと吸いして吹きかける。


「うるせぇバカ」


 その顔は笑みを溢しながらも希望に満ちた表情をして再びタバコを口に咥え、スマホを取り出し烏丸に連絡する。


“新ネタできたから合わせるぞ”


“烏丸一 まってました”


 それと時同じく。


“葛西桜がスタンプを送信しました”


 おかえりと記された熊のスタンプだった。





ー完ー


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10日間だけ生きた僕 木通口 @sugora

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