”香”景
異端者
『”香”景』本文
まだ暑い中、シャクシャクと枝切りバサミの音が響いていた。
僕はそれを部屋で聞いていた。
祖父が庭木の手入れをしているのだ。年寄りは暑さに鈍いというが、この季節のまだ日が高いうちに刈るのは恐れ入る。
庭木はたまに植木屋に頼んでいたが、それ以外はもっぱら祖父が手入れしていた。
父は気まぐれに切りすぎだと時折苦言を
庭付きの
もっとも、田舎ではそれほど珍しくもない。むしろ、庭など無くても良いから都会の高級マンションに住みたいという人も居るだろう。
僕は、正直どちらが良いのかは分からない。生まれつき庭付きの一戸建てで育ったので、それが当たり前の環境になっているからだ。
庭には、様々な木があったが、その中でも目立つのは
秋になると、オレンジ色の小さな花を鈴生りに付ける。深緑色の間に目立つオレンジの粒……しかし、重要なのは見た目よりもその香りだった。
金木犀の花は、一斉に甘い香りを解き放つ。それは他の花の香りよりもはるかに強く、目で見るよりもずっと強い印象を残す。人間の感覚の大半が視覚に頼っているといわれているが、それでも揺るがない。
その甘い香りは、庭に向けて開け放たれた窓からも入って来る。強いが、決して嫌な香りではない。甘く包み込む、自然な香り。
僕はいつもその香りで開花を知った。見ずとも、それは明白だった。
あと二ヶ月もすれば、その香りがするだろう。
僕は祖父の手入れしている庭を見てそう思った。
だが、祖父はその一ヶ月後に入院となった。
僕にはよく分からなかったが、どうにも病状は
医師から説明を受ける両親を横目に、僕は庭木の手入れは誰がするのだろうと考えていた。
ある意味、薄情かもしれない。だが、祖父が熱心に手入れしていたことを思うと、無関係とは思えなかった。
それからまた一ヶ月後、僕は再度、両親と共に病院で祖父と会った。病状は明らかに進行しており、鼻に入れられたチューブや繋がれた様々な医療機器が目に付いた。
それでも意識はあるようで、祖父が何かを言った。
「……さい、たか?」
「え、何?」
僕も両親も聞き取れなかったようだった。僕は聞き返していた。
「にわの……もく、せい……」
祖父が、金木犀のことを言っているのだと分かった。
きっと、金木犀の花が咲いたかと聞いているのだ。
僕は
「ああ、ちょっとだけど咲き始めたよ」
嘘だった。金木犀の花期は、今夏の猛暑のためか遅れていた。庭には、まだ咲いている花はなかった。
「そうか…………」
祖父はそれだけ言うと黙ってしまった。嫌な間ではなかった。どこか安心したような空気があった。
しばらくして、僕は言った。
「もっと咲いたら、花瓶にさせるように持ってくるよ」
おそらく、その機会はないだろう――分かっていたが、そう言った。
それからしばらく後、ようやく庭の金木犀が花を付け始めた。例年よりも随分と遅い開花だった。
甘い香り。それは
結局、僕は花を持っていくことは叶わなかった。
あの日から数日後、祖父の容態が急変したと聞いて駆け付けた時には、既に事切れていた。
その後、淡々と祖父の通夜と葬儀が行われた。
それまで知らなかったのだが、両親はずっと前から祖父の病気のことは知っていたらしかった。妙に落ち着いていると感じたのも、こうなることを悟っていたのだろう。
祖父は
僕は部屋の窓から、花の香りを嗅いだ。甘い香りを肺一杯に吸い込む。
本来なら、祖父も嗅ぐはずだったその香り。少しだけ罪悪感を覚えた。
それでも、その香りを嗅いでいると、その考えもどこか遠くに消えていく気がした。
古来より愛されてきたその花は、多くの花言葉を持っている。
謙虚や気高いという花言葉もあり、中国では位の高い女性が香水に使っていたという歴史からも、いかにその花が重宝されてきたかを物語っているともいえる。
僕はふと思い出した。
花言葉の一つ、
祖父は自身の死期を悟って、聞いたのではないか?
確かめる
願わくば、この香りが「あちら」にも届きますように――僕はそう思った。
”香”景 異端者 @itansya
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