愛故に

@nata_de_coco

愛故に

「愛って何ですか」

 青年は私に問いかけた。

 少し伸びた黒髪の隙間からほんの少し灰色がかった瞳をのぞかせ、じっとこちらを見つめている。

 仕事終わりに立ち寄ったパブは思っていた以上の賑わいで、店内には酒を飲み、騒ぐ人々の声が響いている。

 その喧騒に混じって、青年はカウンター越しに問いかけてきた。

「僕には愛が分からない。今まで様々なかたちの愛を見てきました。でも、そのどれもが僕には分からないのです。貴女には分かりますか。たくさんの人に愛されている貴女には。愛って何ですか」

 青年は淡々と話す。

 私は、手に持っていたカクテルを飲み干すとスッと席を立ち、彼にこう告げた。

「私は私を愛しているわ。それだけよ」



 熱狂的な歓声に包まれて、鮮やかな薔薇が敷き詰められた道を歩いていく。

 艶やかな黒髪をなびかせて、真っ赤なドレスに身を包み、ヒールを鳴らしながら歩く私に、観衆は精一杯の愛を浴びせている。

 私は、愛されている。

「やあ、ジェイド。今回の映画も最高だったよ」

「ありがとう。多くの人の愛によって、私は輝き続けることができているわ」

 記者に対して、舞台のようなセリフを発する。

 多くの人の愛によって、ね。

 確かに、私を愛してくれる彼らによって、私はここまで生きてくることができた。

 しかし、彼らの愛は、本当の愛なのだろうか。



「貴女は、何故、自分自身を愛しているのですか」

 青年は私に問いかけた。

 私は、昨晩と同じカウンター席に座り、カクテルを嗜んでいる。彼はカクテルグラスを拭きながら、話しかけてきた。

 何故、ね。

「私は私しか愛せないわ。愛を証明できるのは自分自身だけよ」

 カクテルを置き、背筋を伸ばして、凛と語る。

 私の言葉に納得していない様子の彼は、問いかけを繰り返す。

「彼らの愛を疑っているのですか」

 彼らというのは、私を愛してくれている人々のことだろうか。言葉遊びのようね、と思いながら彼に反論する。

「嫌な言い方。疑ってなんかないわ。信じられないってだけ」

 納得していない様子の彼は、では、と質問を続ける。

「誰かと関係を持ったことはありますか」

「やだ、口説いてるの。……あるわよ。それこそ貴方の小さな手では数えきれないほどに」

 女優なんて仕事をしている以上、うんざりするほど多くの男性に迫られる。それこそ、男性に限らず、女性にも。

 でも彼らは勘違いしているだけ。舞台上の私が彼らに語り掛けていると。彼らの隣にいるのだと。

 青年は問いかけを続ける。

「その中に、本当の愛は」

「あったわ。いつだって、私は私を愛しているもの」


「今日は私が質問する」

 いつもの席に座り、青年に向かって話しかけた。

 彼の差し出したブルームーンを傾けて、言葉を続ける。淡い紫をしたそのカクテルは、ほのかにスミレの香りがした。

「貴方、どうしてそんなに愛について聞いてくるの」

 私がそう尋ねると、青年は俯いたまま押し黙ってしまった。

 灰色がかった瞳は曇り、どこか遠くを見つめているようにも見える。

 何か、気に障ることがあったのかしら。そう考えていると、彼はゆっくりと口を開き、語り始めた。

「……母は、愛を求めていました。彼女は夜に生きていて、僕の父は誰かも分かりません。たくさんの男性を愛して、たくさんの男性に愛されていました」

「貴方は」

 彼に対して尋ねる。

 貴方は、母を愛していなかったの。貴方は、母に愛されていなかったの。そう尋ねようとすれば、彼の言葉が重なる。

「でも、母の愛はすべて偽物でした。どの男性とも続かずに、彼女は、毎回、泣き崩れていたから」

 私は黙って彼の言葉に耳を傾ける。彼の瞳を覗いても、目が合うことはない。

「愛って何なの。それが、母の口癖でした。でも、そんなの、僕も分からない。分かるわけがないんです。だって……」

 ――愛されていなかったのだから。彼の言葉は続かなかったが、なんとなく、分かった。重たい沈黙が訪れる。その沈黙を破ったのも、彼だった。

「母から僕への愛も、偽物でした。他の男と同じように」

「そうじゃないわ。彼女の愛は本物よ」

 彼の言葉を遮るように、私は口を開いた。彼は驚いたように私を見て、瞬きを繰り返す。

 ――やっと、目が合ったわ。

 カクテルをあおり、言葉を続ける。まろやかに溶けた氷が小さく弾けた。

「誰が生涯でただ一人だけを愛しなさいなんて言ったの? 彼女の涙は、偽物の証なの?」

 青年は言葉に詰まって、ただ私を見つめるだけ。

「彼女は、偽物の愛を振りまいていたんじゃないわ。すべてを、等しく、愛していたのよ。男たちも、貴方もね」

 グラスを打つ氷の音、酔客の笑い声、遠くで誰かが歌う調子外れの歌。騒めきは確かに周囲に満ちている。

 それなのに、私と彼のあいだにはまるで厚い膜が張られたように静寂が落ちていた。

 彼の灰色の瞳は宙をさまよい、過去の光景を探るように揺れている。

 その沈黙は重く、けれどどこか澄んでいて、彼が心の底で言葉を探し、編み直していることを告げていた。

 私はただ待つ。騒音に満ちた世界の只中で、ふたりだけの静謐を抱えながら。

 青年は長い沈黙ののち、ゆっくりと口を開いた。

「母は、愛されたいと願いながら、必死に、すべてを抱きしめていた。すべてを愛していた」

 その声はどこか軽やかで、長い雨がようやく止み、曇りが晴れて澄んだように聞こえる。

 彼の灰色の瞳に、わずかな光が差している。

「貴方の母は、愛にあふれる、素敵な女性ね」

 青年は照れたように俯いていて、その頬はほんのり染まっている。

 彼の様子が、何故だか微笑ましくて、気が付けば私の口元からも静かな笑みが零れていた。



「彼女とのことは、単なる遊びだ。まったくのデマだよ」

 液晶越しに話しかける彼の姿に、私は目を奪われていた。

 目を疑った、の方が正しいのかもしれない。

 彼の声は、確かに彼のものだった。しかし、その口は確かに私を切り捨てていた。

 記者は淡々と質問を続ける。

「では、彼女――ジェイドとの熱愛は否定するんだね」

「ああ。彼女とはただの友達だよ。それ以上でも、それ以下でもないさ」

 その言葉は、鋭利な刃物のように私の胸を裂いた。

 私は私を愛しているはず。誰に裏切られようと、誰に侮られようと、私という存在は、私自身によって肯定され続けるはずだった。

 傷ついた心臓は血を流し、悲鳴を上げ、今にもぼろぼろと崩れてしまうような、不思議な感覚に陥る。

 私が信じてきた「絶対的な自己愛」という城壁は、彼の何気ない一言に打ち砕かれ、瓦礫のように音を立てて崩れていく。

 ――彼の愛が欲しかったの。

 ――そんなはずはないわ。

 私は他人の愛なんて信じていなかった。舞台の上で浴びる歓声も、紙面を飾る称賛の言葉も、所詮は幻影にすぎないと。ずっと分かっていた。

 ――それなのに。どうして、彼に否定されただけで、胸がこれほどまでに痛むの。

 彼の声が頭の奥で反響するたびに、私の中で何かが悲鳴を上げる。

 私は、彼に愛されていなかった。

 その残酷な真実だけが、焼きつくように鮮明に心臓を突き刺していた。



「愛って何なのかしら」

 いつものパブで、いつものカウンター席に腰を掛け、いつもの青年が私の視線の先にいる。

 いつもと違うのは、視線が青年とは合わずに歪んで見えることくらいだろうか。

 私の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「私は彼を愛していたわ。そして彼も、私を愛していた。そのはずだったのに。彼の愛は偽りだった。私は利用されていたのよ。彼の役者人生のために」

 言葉を紡げば紡ぐほど私の瞳からも雫が溢れ出す。

 とめどなく溢れ続ける涙を拭うこともせず、私は口を開く。

「ねえ、愛ってなに」

 あの日、青年が問いかけたことを、私も問いかける。

 彼は、少しの沈黙ののち、私の目をじっと見て、答えた。

「貴女は知っているはずです」

 彼は簡潔に、淡々と答える。

「知らない。分からないの。私は、私を、愛している。自己愛だけが、本当の愛であるはずなのに。どうして、私の涙は止まらないの。どうして、こんなに、胸が苦しいの」

 顔は、ぐしゃぐしゃに歪んでいて、涙と嗚咽が混じり合い、呼吸は途切れ途切れに掠れていた。

 私の抑えきれない慟哭に対して、彼は落ち着いて言葉を紡ぐ。

「貴女は、愛して欲しかったのではないですか。自分で自分を愛すことで、愛されていることを感じていた。そして、すべての人を等しく愛していた。それが貴女の、愛のかたちなのではないですか」

「私が、彼を愛していたというの」

 青年の言葉に対して、間髪入れずに叫ぶ。

 言葉が震えるたび、胸の奥で閉ざされていた扉が軋みを上げているのを感じる。

 拒み続けていた真実を、もう覆い隠すことはできなかった。

 涙が滲む視界の向こうには、涼しい顔の青年がいた。

「貴女のその瞳から零れる雫が証明しているでしょう」

 青年の声は淡々としていた。けれど、その静けさは、私の心の奥に波紋を落とした。

 私は彼を愛していた。

 拒み続けていた事実を言葉にした瞬間、私の瞳から溢れ続けていた涙は、ぴたりと止まった。

「私は愛を求めていた。そして、すべてを愛していた。私の自己愛はそれを誤魔化すためのヴェールだったってことね」

 唇からこぼれる吐息は、もう嗚咽ではなかった。

 諦めたように、今までを否定するように、零した私の言葉に彼は異を唱えてきた。

「誤魔化してなどいません。貴女が貴女を愛していることだって、他と同じ、――愛だ」

 瞬間、何かが、弾けた。

 蕾が破裂して花弁が一斉に開くように、熟れきった果実が裂けて甘やかな汁を滴らせるように。

 その瞬間、世界の色彩が一変した。

 視線の先にいる青年の姿だけが鮮明に浮かび上がり、他のすべては溶けて霞んでいく。

 私の胸を満たしたのは苦痛でも悲嘆でもなく、ただひとつの甘美な衝撃。

 その奔流に抗うことなどできなかった。

 ――私は青年を愛していた。

「私って、なんて愛にあふれた人生を送っているの」

 頬を濡らす涙を拭うこともせず、私はほほ笑む。

 涙と笑みが同じ顔に宿るとき、それは絶望と再生が重なり合う証のようで、胸が苦しいほど熱くなった。

「ねえ、キスして」

 かすれる声で言葉を紡ぐ。

「この気持ちを確かめたいの」

 答えはすぐには返ってこない。

 ただ、彼の沈黙が私を包み込む。

 その沈黙さえも、水底の静寂のように心地よかった。

「つれない男ね」


 夜の街に似つかない、焦げた匂いが漂っていた。

 炎は激しく唸りを上げ、窓から吹き出した火の粉が夜空に舞い散る。

 耳を裂くような叫び声とけたたましく鳴り響くサイレンの音とが交錯し、世界は混乱に飲み込まれている。

 しかし、私の耳には何も届かなかった。

 ただ、燃えさかるその建物だけが、異様なまでに鮮やかに目に映った。

 ――彼が、中にいる。

 その確信は、誰に告げられたわけでもないのに、胸の奥に重く沈んでいく。

 走り出そうとした足は動かない。

 泣き叫ぶことも、助けを乞うこともできず、目を見開いたまま、燃え盛る炎を見つめ続けた。

 その火の向こうに、彼の面影を探しながら。


 夜は長く、火は呆気なくすべてを食い尽くし、黒煙だけが空へと昇っていく。

 私は人波を縫うように進み、あるべき形を失った残骸の前に立った。

 ――ここに、彼がいる。

 誰かが私に声をかけていた。同情の言葉か、あるいは確認の言葉だったのかもしれない。

 けれど、何一つ耳には入らなかった。

 私はただ、その残骸を見つめていた。

 涙は、不思議と流れなかった。頬に残るのは煙の熱であり、胸の奥に宿るのは燃え盛る炎の残響だった。

 喪失の痛みではない。それは、彼を想う炎だった。

 ただ、静かに燃え続けていく。閉じた瞼の裏で、炎が揺れている。夜空に溶ける黒煙の奥で、なお鮮やかに赤く脈打つ炎が、私の胸を焦がしていた。

 彼が去った今も、その炎は消えない。むしろ、彼の死によって強く、純粋に、永遠に燃え続けるのだと分かる。

「愛している」

 声にならぬ囁きが、夜の闇に溶けていった。

 瞬間、喧騒も悲嘆も遠ざかり、世界はただ静謐に包まれた。

 炎の余韻を宿す私の胸の奥で、確かにひとつの愛が完成していた。

 彼の死によって、私の愛は永遠になった。

 死こそが、私の愛を燃やし続ける。

「貴方を、愛しているわ」

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