二メートル越えの、世界で最も温かい誤解

Tom Eny

二メートル越えの、世界で最も温かい誤解

二メートル越えの、世界で最も温かい誤解


第1幕:愛の誇張と凄惨な痕跡


ユキ、五歳。もうすぐ誕生日の娘を世界一喜ばせたくて、パパのケンジは二メートルを超える巨大なクマのぬいぐるみ、「ベアード」を物置に隠すことにした。ベアードは、妻のマユミに**「また変なことを」と諦められた、ケンジの孤独な愛の大きさ**を具現化した、誇張された証だった。


その夜、ケンジは背中の筋肉を軋ませながら、ベアードを物置の奥にある古い棚の上に押し上げた。棚はミシミシと悲鳴を上げ、古びた木の繊維がケンジの指にざらりと食い込むのを感じた。ベアードはわずかに傾き、不安定なまま固定された。施錠した後の薄暗闇は、カビと防虫剤の乾燥した匂いに満ちていた。その瞬間、ベアードの大きなガラスの瞳が、ケンジの**「愛が命を与える」という妄想を煽るように**、一瞬、強く煌めいた。


翌朝、ケンジは心臓が凍りつくのを感じた。一瞬にして体温が奪われ、Tシャツの裏地に汗の冷たさが張り付いた。


物置のドアは、鍵穴の周りがまるで鋭い爪で引き裂かれたように歪み、ノブは不自然に傾き、金属が引き延ばされた「キィン」という悲鳴がそのまま固まっている。中に入ると、さらに凄惨だった。棚は傾き、古い道具箱やペンキ缶が爆発的に散乱している。


そして、ベアードがいた場所。そこは虚無に変わっていた。


床には、絨毯を剥がしたかのような幅広くて深い引きずり跡が、ドアの外まで続いている。ケンジはしゃがみ込み、引きずり跡の端に残る茶色い毛の繊維を握りしめた。彼は確信した。愛の念がクマに命を与え、娘に会いたい一心で自力脱走してしまったのだと。


(短く息を飲む沈黙。)


その瞬間、リビングのテレビから緊急速報の音声が響いた。


「【速報】山から巨大なクマが出没!」「体高2メートル級の獰猛な個体とみられ、現在、町内をさまよっている模様。住民は厳重な警戒を!」


自分の愛の象徴が、凶暴な「怪物」として誤認され、撃たれてしまうかもしれない。彼は、娘の夢と、自分の愛の失敗の証の両方を守るという、孤独な重圧に苛まれた。


第2幕:現実主義の拒絶と孤独な焦燥


ケンジが玄関に飛び出そうとしたとき、マユミが立ち塞がった。彼女は冷たいガラスのような目で彼を見た。


「あなた、どこへ行くの? こんな時に。あなたが変なものを隠すからこんな騒ぎになったのよ。」「いっそ、あの巨大な綿の塊が、本物のクマにでも襲われてどこかに消えてしまえば、ユキの安全は守られるんだから。」


(沈黙。ケンジは何も言えなかった。)


マユミの無機質なトーンの声は、背中に氷の刃のように突き刺さった。ケンジは、妻の**「現実主義の盾」**を背負う。これは、誰にも理解されない、孤独な自己責任の救出劇なのだ。


街に出たケンジは、熱くなったアスファルトから立ち上る夏の湿った匂いを深く吸い込んだ。スマホで情報を集めると、SNSはユーモラスな誤認で溢れていた。


「#コストコベア #歩く巨大ぬいぐるみ」


ケンジの目には、それが、愛する娘に会うため、体幹を失いながらも懸命に移動している真実の姿にしか見えなかった。


防災無線が、町の空気を**「キィーーン」という金属音**で切り裂く。


「地元猟友会による合同捜索が開始されました。危険な巨大個体のため、やむを得ない措置を取る可能性があります。」


ケンジは、愛が命を与えたベアードの命が、今まさに危機に瀕していると確信し、捜索エリアである森へ向かう。


第3幕:愛の奮闘とすれ違いの頂点


ケンジは、ゴミ箱の裏の湿ったコンクリートに身を隠した。辺りは生ゴミの酸っぱい匂いがこびりついている。遠くから聞こえる猟銃の金属音は、**心臓を抉るような乾いた「カチン」**という音だった。


「撃たれるな、ベアード…! あと少しだ!」


本物のクマの捜索隊が近づくたび、彼は息を潜めた。この焦燥と恐怖が、彼の孤独な愛の試練だった。


(その頃、娘の部屋では。)


外の騒乱を知らないユキは、押し入れの扉を開けてベアードの頭を撫でた。ベアードの毛は、わずかに物置の埃の匂いが混じっていたが、彼女の小さな手にはふかふかと温かい感触だった。


ユキは、パパがサプライズを計画していることに気づき、彼をがっかりさせまいと、小さな体で鍵をこじ開け、ベアードを運んだのだ。この温かい奮闘こそが、すべての騒動の真実だった。


「パパ、まだ見つからなくて、がっかりしてるかな。大丈夫、ユキが最高の笑顔にしてあげるからね!」


夜明け前の空は、鈍い鉛色に沈んでいる。ケンジは力尽きた体で帰路についた。Tシャツの背中は夜露で湿り、皮膚にねばりついた。彼は、最悪の結末を覚悟していた。


第4幕:奇跡、そして愛の真実


父親がリビングのドアを開けた瞬間、テレビの速報が「山から下りてきたクマは山奥へ退避。警戒態勢は解除」と告げた。外の緊張が一気に溶け、一瞬、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。


ケンジはソファに倒れ込み、「ごめん、ユキ。パパ、クマを見つけられなかった…」と力なく謝罪した。


その時、ユキが目を輝かせた。


「パパ、大丈夫だよ! 今度はユキのサプライズの番!」


ユキは父親の手を握り、自分の部屋へ連れて行く。そして、押し入れの扉を勢いよく開けた。


そこにいたのは、誇らしげに鎮座するベアード。その足元からドアノブまで、うっすらとした細い線(娘の引きずり跡)が続いていた。


「パパ、これ、お誕生日のプレゼントだって知ってたよ」ユキは、愛おしい茶色の汚れがついた小さな手を差し出した。物置の茶色の埃と泥が愛おしく付着していた。


(ケンジは、その小さな手が辿った道筋を辿ろうとするように、目を細めた。)


「パパがサプライズ失敗でガッカリしないように、ユキが内緒で、物置からここまで運んで隠してたの!」


父親は、物置の凄惨な跡、歪んだ鍵、深い引きずり跡、外でのクマ騒動。そのすべての原因が、娘の**「二重サプライズ」**という、愛が生み出した世界で一番温かい誤解だったことを悟った。


ケンジは嗚咽し、マユミも驚きと感動で涙ぐんだ。彼女は、夫の孤独な行動の裏にあったのが、自分の予想した「奇行」ではなく、娘への純粋で自己犠牲的な愛であったことを知ったのだ。


ベアードが見守る中、誕生日ケーキに火が灯される。娘がローソクの火を吹き消し、世界の時間が止まったような沈黙が訪れた瞬間。


ケンジは、ベアードの大きなガラスの瞳が、水面に波紋が広がるように、ゆっくりと弧を描き、優しく微笑んだように見えた。微笑みが消えた後、瞳のガラスに、部屋のローソクの光が小さく反射し、一瞬強く煌めいた。


父親は、すべてを悟り、微笑む。


(ケンジの心の中で、一つの問いが響いた。本当に命が宿ったのは、ベアードだろうか? それとも、最初からずっと、娘の小さな心の中に宿っていたのだろうか?)


その二メートルを超える巨大な茶色の塊は、今や、ケンジにとっては、この家族の愛情のすべてを受け止める、世界で最も優しい守り神に見えた。


マユミが、そっとケンジとユキを抱き寄せた。三人の間には、もはや言葉はいらなかった。


ただ、消えたローソクの煙と、巨大なベアードの体温だけが、部屋の隅々にまで満ちていく。愛の匂い、奇跡の余韻だった。

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