『私は、カレンさん』
香樹 詩
第1話 『私は、カレンさん』
秋を飛び越して冬が顔を見せたような寒空。
何も考えられずに、ただ、ぼぉっと歩いていた。
正面から刺さる冷たい風に、とりあえず羽織っている薄手のコートの前を合わせる。
今日はお店は休みにしよう。
とても笑顔を振りまける気分じゃない。
そう決めたのに、無意識の体は、当たり前に路地裏へと差し掛かる。
気がつけば、通い慣れたいつもの道。
どの店もまだシャッターがかかっていて、夜の賑わいの気配すら感じない。
この物悲しさが、今の心情を表しているようで、ため息が溢れた。
気がつけば、店はもう目の前。
ここでようやく、日常を繰り返していることに気がついた。
やけに虚しくて、またため息が漏れた。
冷たい空気に混ざるように、微かに響く音。
それは小さくて、弱くて、今にも消えそうで。
足を進めるたびに近づくその音が、鳴き声だと気がつくまでに、少しの間があった。
こんなに弱々しい鳴き声を聞いたことがなかったから。
足が前に進むたび、近づく鳴き声。
勝手口のすぐ傍の、空き瓶ケースの隣。
見慣れぬ小さな籠。
胸騒ぎは確信に変わる。
籠の中の小さな命に、手が震える。
呼吸さえも、ままならない。
あぁ……なんてこと。
この寒空の中、産着と掛け物一枚なんて。
感覚をなくした指で、スマホを動かす。
警察と救急車。そう思って番号を押すけれども、
誰もが知るその番号が、出てこない。
必死の思いで繋いだ電話。
焦りすぎて、要点のまとまらないSOS。
それからすぐに、警察と救急車が到着した。
籠の中の子は、女の子だった。
生まれて数日の、臍の緒もまだ乾かぬうちに捨てられた新生児。
搬送先の病院でいろいろと検査して、何も問題がなかったことに安堵して涙が溢れた。
あの日から毎日、時間を見つけては、ガラスの内側で力強く泣いている女の子に会いに行く。
いつも飽きるまで眺めて、聞こえないのに声をかける。
「またね」って。
今日は珍しく起きていて、自分の右手を必死に口元に運んでいる。
その仕草が愛らしくて、ガラス越しに言葉をかけた。
「ねぇ、お腹が減ってるの?」
「抱っこしてみますか?」
周りが気にするくらい、かじりついて見ていたのだろう。
背後から、顔見知りの看護師さんが尋ねた。
戸惑って、最初は断ろうかと思った。
でも無性にその温もりに触れてみたくなって、気づけば頷いていた。
初めて抱っこした、小さな命。
柔らかで、壊れそうで、ミルクの匂いがして。
左腕に抱いたその子の手の近くに、そっと自分の右の人差し指先を近づける。
キュッと小さな手が、大きな指を握りしめた。
まるで、離れないよって言われたみたいな感覚がして、無性に愛おしく感じた。
後で知った『把握反射』。
赤ちゃんなら、どの子だって同じことをするだろうと。
でも、あの時はただ、その温もりが嬉しかった。
信じた人に裏切られ、さよならと言った日。
それが、この子と出会った日だった。
誰も引き取り手のいない、女の子。
何も知らない顔をして、今日もガラスの内側でスヤスヤ眠っている。
誰かの話し声が聞こえた。
「このまま引き取り手がいなければ、施設に入るそうよ」
あぁ、もう会えないのか……。
想像して、胸の中が冷えた気がした。
一晩、また一晩と、あの子のことを考えると眠れない日が重なる。
あぁ、離れたくない。
心が決まれば、後は動くのみ。
朝日が昇り、通勤時間の終わりを待って、向かうは児童相談所。
その日のうちに、女の子の保護者になりたいと申し出た。
それからまた、同じ日々。
時間を見つければ、あの子の元へ。
新しい年が始まって数日、ようやく降りた短期委託。
言葉にならない安堵と高揚感。
寒空さえも心地よく感じて、跳ねるように歩いた。
迎えに行った日、この腕に抱いた重みに約束した。
何があっても守るから。
「これからよろしくね、真希ちゃん」
心から、真に希んだ女の子。
これからに思いを馳せて、楽しいことばかりが頭をよぎった。
過ぎゆく日々は駆け足で、今日が何日の何曜日かさえ曖昧で。
それほどに現実は、想像を絶する過酷さ。
シンクの中の重ねた食器、干すだけ干した洗濯物。
飲みかけのコーヒーは、すっかり熱を失っていて、もう飲む気力さえ湧いてこない。
それでもこの子だけは、しっかり育てないと。
誰にも後ろ指を刺されないように。
その思いだけで突き進んできたけれど――
どうして、今日は泣き止まないの?
オムツ? ミルク?
どちらも試した。
眠いの?
もう三時間も抱っこであやしている。
蓄積された疲労と睡眠不足は、思考を奪い始めた。
真希ちゃんを抱いたまま、とぼとぼ歩く朝の商店街の裏通り。
「あら、カレンさん。まぁ、真希ちゃんも」
優しい笑顔で歩いてくるのは、この商店街を取り仕切っている佳子さん。
大学卒業後に勤めた会社を辞めて、いきなり飛び込んだこの業界。
一番お世話になった人。
店を出すって言ったら自分のことのように喜んでくれた人。
真希ちゃんを引き取りたいと話した時、周りで唯一反対した人。
「考え直した方がいいよ。あなた一人で抱え込むには荷が重すぎるから。かわいい、可哀想だけじゃ、子どもは育てられないの」
そんな言葉に、私は自ら距離を置いた。
「あらあら、どうしたのかな? おねむさんかな」
真希ちゃんに話しかけながら、両手を出してきた佳子さん。
「ほら、ばあばにおいで」って。
さっと抱っこして、真希ちゃんの背中をポンポンとあやす手慣れた動き。
「うちの子たちの小さな頃を思い出すわ。あら、真希ちゃん、可愛いお洋服ね。髪の毛も綺麗に整えてもらって、いいね」
軽く揺らしながら、真希ちゃんに話しかけている佳子さんの腕の中で、ようやく泣き止んだ。
「カレンさん、愛情いっぱいに育ててるのね。頑張ってるね」
その言葉に、限界だった心と体が反応する。
堰を切ったように溢れ出す涙。
孤独と闘ったこの二ヶ月。
親になることを望んだはずなのに、この子の幸せを望んだはずなのに……
徐々に上手く回らなくなった日常に、焦燥感だけが膨れ上がっていった。
……こんなはずじゃ、なかったのに。
……毎日ニコニコ笑って過ごすはずだったのに。
ショーウィンドウに映る、表情の抜け落ちた顔に、ギョッとした。
「カレンさん、私、今日暇なのよ。1日、真希ちゃんと遊んでるから、ちょっと休んでおいで」
優しく言って、真希ちゃんに「ばあばと遊ぼうね」って話しかけている。
真希ちゃんが来てから、初めての一人。
ただ何をするでもなく、自宅の散らかった部屋をぼーっと眺めてた。
ソファの洗濯物を一旦床に下ろして、横になる。
気がつけば、二時間が過ぎていた。
ぐっすり眠った頭は、いつになく気分が冴えている。
窓を開けると、また冷たい風が吹き抜ける。
徐に始めた部屋の片付けは、昼前には終わった。
軽くお腹が鳴った。
ふと過ぎる……真希ちゃん、お腹空いてないかな。
とりあえず顔を洗って、身だしなみを整える。
いつぶりだろうか、メイクなんて。
お店に出る時のような派手な服は選ばず、簡素なワンピースにコート。
昼は久しぶりにカフェでも行こうと、家を出た。
すれ違う母と小さな男の子。
公園の遊具で一緒に遊んでいる父と娘。
目に入ってくるのは、親子ばかり。
行きつけだったカフェでランチを注文する。
ほとんど見ていなかったスマホのSNS。
あんなに日常的に見てたはずなのに、面白さを感じなかった。
気がつけば読んでいるのは育児コラム。
そんな自分に、くすっと笑みが溢れた。
出てきたランチを食べながら、このかぼちゃのポタージュ、離乳食にアレンジできそう。
そんなことばかりが、頭をよぎる。
夕方まではまだ時間があるのに、もう落ち着かない。
早くあの子に会いたい。
気がつけば、佳子さんの家の目の前にいた。
チャイムを鳴らすと、真希ちゃんを抱いた佳子さんが笑った。
「あらあら、すっかり親の顔してるわね」
真希ちゃんがこっちを見た。
あぁ、化粧してるからわからないかぁ。
そう思って、真希ちゃんって呼ぼうとした時、
真希ちゃんの口が徐々に“への字”になっていく。
大きな目には涙が溜まってきて、短い手を必死に伸ばして「うぁー」と声をあげて泣き出した。
さっと腕に抱くと、小さな手が胸元を掴む。
離さないよって言われているようで。
「ちゃんと、誰が親なのかわかってるのね。あなたの愛情が確かな証拠よ。
子育ては、完璧じゃなくていいの。
ありのままで」
小さな背中を、ポンポンっと刻むそのリズムに。
薄れゆく鳴き声。
気がつけば、微かな寝息と穏やかな顔。
その顔を見たら、何かが剥がれ落ちた気がした。
あぁ、ありのままの自分でいいんだと。
そう、私でいいんだと。
軽くなった心で、寝てる真希ちゃんに話しかける。
「真希ちゃん、私があなたの親になるの」
月日は流れて、真希ちゃんは小学生になった。
一緒に帰ってきた友達が、私を見て首を傾げる。
「真希ちゃんのお母さん? それともお父さん?」
あぁ、なんて答えよう。
ちらっと真希ちゃんに視線を送ると、いつものようにニコニコと笑ってる。
そしてはっきりと、当たり前のように言った。
「カレンさんだよ!」って。
あぁ、この子にとって私は私。
そう、私はカレンさん。
『私は、カレンさん』 香樹 詩 @seitoroumakizou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます