聖騎士による信仰の断章【連作短編シリーズ】

久瀬栞

第1話:甘やかなまじない

 女王様の役に立てない騎士に価値はないので、恥をかく前に死んだほうがいい。

 たとえばぼくらの女王様に向かって「お慕いしております」と叫んだとて彼女は聞き入れないだろうし、耳に届いたとしても知らないふりをする。ぼくたちの言葉は崇高な彼女に似合わないため、ヴェール越しのまなざしを一身に受けるには彼女の忠実な騎士であることを示し続けなければならない。

 だからぼくは、未来を約束した同胞を殺した。


 *


 誰も訪れない森の中でぼくは息絶える人を見下ろしている。雨で湿った草木と血のにおいが、すっかり混ざりあっている。


「……ああ」


 女王様の恩寵で蓄えた栄養から成る血肉がまろびでている。ぼくは未だに訓練生なのにもかかわらず、案外うまく殺せた。


「ごめんね、痛かったよね」


 愛おしき記憶が彼女の命令によってすべて打ち砕かれていく。それだけが唯一の忠誠の証でありながら、告白でもある。


「ごめん……」


 息を吸うたび、毒針が刺さったみたいにどこかが痛む。呼吸で痛みが生じるならば肺のあたりのはずなのに、頭なのか心なのか捉えにくい場所がじくじく痛んでいた。それが喉を通って、言葉になる。息を吐くたびに出てくるものは、とっくに効力がない約束を破棄するまじないだった。

 この国に住む人々は一人も残さず女王様を信仰していて、期待に応えるように女王様は市民を統べて国を守る。騎士は女王様の忠実なしもべであり、剣である。民衆の前に姿を一切表さない孤高の女王のためにこの身を使うと毎日誓っていた。

 だからぼくは一人きりで呼び出されたあとに女王様から「疑わしい者がいる」と囁かれた瞬間、まるでおかしくなってしまったおもちゃみたいに走り出した。

 彼女の囁きは我を忘れるほどうつくしい言葉で、声で、すべてを蠱惑する。まるで脳髄に直接届くような音だった。ぼくが考えることをやめたのではなくて、彼女の命令が脳みそいっぱいに広がって、もはやただの文字列がぼくの頭を支配していたのだと思う。そして、その文字列と同じ名を持つ騎士を殺して、今に至る。

 ハッ……。

 鼻が曲がるようなにおいだった。唾を飲み込むとき、鼻から生臭いにおいが入り込んで、まるで血を飲み込んでいるような味がする。この隊服をもらったあの日から一年も経っていないのにこうして汚してしまうなんて、あの方のそばに立つ資格はないと思った。それでも「深い信仰の証ね」と、かんばせを覆うヴェールを剥いで、慈愛のこもった母のようなまなざしでぼくを見つめて、褒めたたえてほしいと願っている。

 たとえ未来がどうであれ、今のぼくは裏切り者を置いて生きていかねばならなかった。滅多に人が入らない森を、来た道をたどって一人で歩いていく。まじないが幸をなしたのだろう。先ほど感じていたはずの痛みは、もうとっくになくなっていた。きっとあの痛みはやさしさからできていたのだから、寂しく無惨な姿で眠る彼の元で、まだ留まりながら慰めているのかもしれない。


「おやすみ」


 夜の静けさは声も死体も包み込んでいく。とっくに気配のない森に向かって、彼女の真似事をするように囁いた。ぼくは彼女へと報告をするために、軽やかに歩いていく。


 *


 彼女の棲まう城はどこもかしこもきらびやかだった。とくにぼくを出迎えた謁見の間のシャンデリアは、この国で見たことがないほどに光を反射しているし、いくつかの蝋燭がゆらゆらと揺らめいていた。その細やかな揺らぎに合わせて、玉座とぼくの間に張られた薄い帳が彼女の影を色濃く示す。


「女王様、ぼく、女王様に言われたとおりにしました」


 ぼくの言葉を聞いた女王様はかすかに笑う。彼女は笑うときにうつむく癖があって、すごく愛らしいと思う。それでもそのときに映る影にはさらに顔を覆うようにヴェールがかけられていて、彼女の寵愛まじりのまなざしをいただけないんだと残念だった。


「というと」


 と、女王様は言った。ぼくは意気揚々と心躍るまま口を動かす。


「ダミオンを殺しました。彼の遺体は森の奥にあります」

「殺した?」


 厳かな声が、一気に空気を支配する。それを聞いた途端に背筋が凍って女王様で満たされきっていた脳みそが突然止まった。悪いことをした子どもを叱るような甘い声色ではなくて、今からぼくを押し潰そうとしているような圧がかかった重苦しい声だった。

 息ができなかった。しかし苦しみもがくさまを見せてしまうのはどうも不敬だと思って、帳越しに映るぼくがあわれでないように平生を装う。声を出そうとしたときに、肺がひしゃげる音が鳴る。息を吸うことすら苦難だった。


「そう恐れなくてよい。問うているのだ。答えよ、リヴィア」


 は、と息を吐いた。呼吸のリズムがすっかり狂ってしまったみたいで、赤子のように稚拙な呼吸をする。その薄い布から見えるぼくの影はどんな姿なのだろうと疑問に思った。しかし好奇に魅了されて彼女の命令を背くことができるほど、信仰心の薄い人間ではない。


「ぼく、ぼくは、たしかに殺しました。女王様を疑う人間はいらないと考えたんです。……その、そういうことではなかったですか」


 女王様の役に立てない人間は死ぬのがよい。ならば彼女の命令を望むようにこなせなかったぼくは、死ぬのがよいのだろうか? 救いを待つみたいに、ひたすらに女王様を見つめる。彼女がうつむいて、影が大きく動いた。


「いいえ、リヴィア。よくやった」


 帳がひらく。

 つまり、彼女のすべてが見えるということだった。

 薄絹のヴェールが幾重にも重ねられて、表情は見えない。しかし彼女が動くたびに、シルクで作られた長衣の手の甲まで覆う袖がきらきらと星空のように輝いていた。病的なほど白い指先がぼくの頬へ触れる。氷でできた孤城に閉じ込められているひとのようで、人間らしい素朴なぬくもりは一つもなかった。ぼくの熱がその冷ややかさを崩してしまうようでおそろしい。


「そうね……」


 そのまま下唇に触れて、ぼくの言葉を封じるように親指で唇をなぞる。


「おまえ、いい子ね。急くところはあるけれど、よい忠誠心をもっている」


 喉まですべらせて、急所を押さえられる。呼吸まで操られているような感覚になった。先ほど恐れおののいていたときよりもずっと感情的で愛しさを含む営みだ。彼女の心地のよい手がぼくから離れていく。ほんの少しの熱が奪われる。それさえも甘美だった。

 なぜならば、価値のない騎士がどれだけ熱心に愛の言葉を告げても彼女にはけして届かない。

 しかしながら、今、ぼくの言葉は彼女にふさわしいものと認められたも同然だった。美しき星はぼくたちを祝福するかのようにまたたいている。


「ありがとうございます」


 ふと、血のにおいが気になった。絢爛な彼女にふさわしくないと思ったし、裏切り者の血を見せてしまうのは不敬だった。だんだんといたたまれなくなって、礼をしたあとに言う。


「あ。ぼ、ぼく、血がひどくにおいます。……女王様も、あなたの城の空気も汚したくはありませんから、ぼくはここで失礼させていただきます」


 また、女王様はうつむいた。影で見るとおりの動きだけど、薄絹がひらひらと揺れて蝶みたいでかわいらしい。なぜ笑うのだろうと気になったけども、彼女の笑みを絶やすことはしたくなかった。


「栄誉の証ね。……またここを訪ねなさい。いつでも待っているわ」


 そうして彼女は足元が隠れるほどの裾を器用に動かして玉座へと戻った。その言葉はなによりも愛おしく、喜ばしい。胸のうちは軽いものへとなっていた。彼女のためであれば、たとえ同胞だろうが殺してしまえるとわかった。謁見の間から離れたとき、彼女に忠誠を誓った証をもう一度見た。黒い隊服にはべったりと乾ききった何かがついていて、はっ、と笑ってしまった。


「女王様……」


 呟く。夜の静けさは何もかもを包み込んでいく。


「お慕いしております。ですから、あなたに、この身を……」


 愛の告白じみたまじないは、とけていく。


 * * *


 この美しき信仰はいつか途絶えてしまうんだろうか?


 あの夜から絶えることなく、ぼくたちは密会を交わしていた。十数年が過ぎても彼女は飽きることなくぼくを呼びつけていたし、ぼくも女王様に承認されるたびに頭も身体も心も喜んでいたのだからお似合いなものだと思う。おもちゃみたいな子どもらしさは未だ残されたまま、ぼくは大人になった。

 異なることがまだあるとすれば、あのとき訓練生だったぼくは見事に立派な団長になったことだろう。みじめに祈りを乞うておこぼれを賜る子どもではなくて、少なからず女王様の役に立ち、ただ一身に寵愛を受けるにふさわしい人間となったのだ。

 今日も今日とて剣を振るう。鍛錬のためではなく、あの方へ信仰の証を示すためだ。剣を一払いすると鮮血が飛び散り、森を彩っていく。微細な飾り付けは主役がいないと華やかさがない。美しくもなんともないただのゴミ同然と化す。


「ふふ」


 にっこりと笑う。ぼくはその垂れた鮮血が囲う作品を気に入っていた。それはときどき笑みがこぼれてしまうほどによくできた芸術品であり、すべてを反映する献上品だ。人々の死体が幾重にも折り重なって、相当な高さになっている。けして美しいものではないけど、あわれな敵軍が身の程を知らずに襲ってくるさまは、いかにも風刺的で愛おしかった。だからこれは、愚かさを象徴するオブジェだ。森の入口にはおぞましい死体の山がいくつも置かれている。もう一度この国を侵略しようと望んだ愚かなひとも、これを見たあまりのおそろしさに不敬を働く気は失せるだろう。

 あ、馬の蹄が森を蹴る音がする。

 ぼくはこれから出迎えるひとを知っていて、なんならこの死体の山を見て「ありえない」って叱ってくることもわかっている。だから一瞬で憂鬱な気分になる。たとえぼくが超凄腕の最高の騎士であっても、ぼくは徒歩であいつは馬で、逃げ切るような真似はできない。高く重ねた積み木の底を抜いて形を崩すこともできるけど、叱られるよりも証を自らないがしろにするほうがありえなかった。


「リヴィア!」


 ほら、ロンニスの声だ。彼の声は森を裂き、沈黙を破壊していく。そう遠くはない位置にいるとしたって、こんなに鮮明に聞こえるなんておかしい。ロンニスとはぼくが女王様の声を聞くよりも前からずっと親交があって、今では副団長として隣でよくやっている騎士だった。女王様への忠誠心はほんのすこしばかり薄いけど、文句を一つも言わせないほど剣技がすばらしかった。

 ほら、もう来る。来る。来る。


「ようやく見つけた」


 ほら、もう来た。知っていた。

 声色はずいぶん落ち着いているけど、まるで安心しましたみたいな色も混じっていた。厳しく吊り上がる瞳はいくらか柔らかくなったあとに、またぼくの横にある山を見て元に戻ってしまった。

 これは、怒るときの顔だと思う。

 ひどく顔を歪めてからぼくを睨みつけて、ふつふつと腹の底から湧き上がっている怒りを肺に留めている。まるで全世界の恨みを彼一人が背負っていますみたいな顔だ。それでも無遠慮にぼくに怨嗟をぶつけずに、理性で耐えんとしている。その様子にぼくは感心してしまって「おお……」と声をあげる。その声に反応したように馬から降りて、すばやくぼくの方へと歩いて、叫ぶみたいに言った。


「馬鹿か! 敵とは言えど人間だ。死体を愚弄して、おまえは何がしたい!」

「ああ、待ってよ。何がしたいって、騎士として当然だろ。この国を守るんだ」

「守る? 子どものような遊びを死体でやることで、いったい何が守れるんだ?」

「あー……」


 めんどうくさいと思う反面、彼はおかしいくらいに正しいんだろう。情けはないけど慈愛に満ちている。まさしく人間らしい騎士で、時折その清らかさに喋る気を奪われることがある。清純さはよいところではあるけど、彼の場合は磨ききった宝石のようだから、なかなかぼくたちの意見に染まらない。つまり、対話が難しくなる。


「それとこれとは話が別だよ。女王様が喜ぶかと思ったし、それに敵国への牽制にもなる! 弄んだわけではないよ。わかるだろ?」


 だからぼくたちは均衡が釣り合うところで折り合いを探す。お互いのテリトリーを侵害されきったらぼくたちは我を忘れてしまうだろうし、少なくともぼくは剣を抜いてしまうと思う。けして短くない時間をともに生きてきた数少ない友人は、ぼくの言葉の真意を違わず理解する。ぼくに遠慮がない彼は、きっとぼくと離ればなれになることを恐れている。


「ね?」


 もう一押しするように、ぼくは甘えた。人の、とくにロンニスの懐に入り込むことは得意だった。彼はたちまちぼくを見つめる目を細めて、顔を顰めて、静かに息を飲む。こんなにも幼稚な抗弁に対して深刻そうに受け止める理由は、彼がぼくのことを好きすぎるからだ。ロンニスはぼくの忠義を否定することはないから、彼の抗議は結局ただのままごとらしい。

 彼は息を長く長く吐いて、ぼくを見る。表情はかわらず恨めしそうだった。その目は日が照る空の色と同じで、一つの曇りもないよい瞳だと思う。女王様がロンニスの瞳の色を褒めていたときは彼をうらやましいと思ったけど、その羨望を忘れるくらいには、ぼくもその瞳が好ましかった。


「わかった」


 と、ロンニスが言って馬に乗った。そういえばこの死体の山を作り出す前から記憶が混濁してめちゃくちゃだ。女王様のことをひたすらに考えていたせいで、それ以外のすべてがすっぽりと抜け落ちている。


「あれ、ぼくの子は?」

「……紐に繋がれなくともいい子に待っていた。早く来い」


 軽やかに走る。夜は黒い隊服に付着した色を隠していき、簡単とはいえ、面倒な戦いもこなした。あとはロンニスと帰って女王様に会うだけなんて、最高な夜だと思った。ロンニスはぼくの走る速度に合わせて、馬を操る。沈黙が訪れて、二人と一匹の呼吸音が聞こえる。

 木の幹に紐が縛り付けてあって、その端にはぼくの愛馬が待っていた。しつけの甲斐があってか鳴き声をあげずに、ぼくのにおいに反応して迎えに来る。頭を撫でて抱きしめながら「ごめんね」と言って、紐を外して手綱を握った。


「疲れたーっ」

「おまえがアルベルトの作戦のみをこなしていたらこんなに遅くならなかった」

「ええ、ああ、うーん。でも二十人くらいはせき止めたよ?」

「話が噛み合わんな。あの気味の悪い遊びをやめて帰ってきていればもっと早く終わったと言っている」

「なら、迎えに来るのが遅いよ」

「減らず口だな。噛み切る前に閉じろ」


 ロンニスはそう言い残して、体重をかけて片足で馬を蹴った。それに呼応するように、彼の馬は走り出す。ぼくも同じように馬を蹴って走らせる。風が心地よくて、鼻歌を歌いながら彼を追っていた。



「このあとは女王様の元へ行くのか」


 しんと静まる空間にロンニスの声が響いた。当たり前のことを、まるでぼくの行先を知らないひとのように訊くものだから、少し困ってしまう。

 もちろん彼女に会いに行く理由に浅ましい私情がたっぷりと込められていることは間違いないし、言い逃れするつもりはない。しかし私情を抜きにしたとしても、今回の攻め込んできた敵軍について報告をしなければならなかった。女王様への報告は、作戦に携わるもっとも階級の高い者がおこなう決まりがある。だから今回はぼくが報告することは明白で、互いに言葉を交わさずとも理解できるものだった。

 だから、わけがわからなかった。


「なんで?」


 と訊いた。


「訊いているのはこっちだ。質問に答えろ」


 と言われた。似たようなことを昔に女王様が言っていたことを思い出す。いつまで経っても質問に答えるというのが苦手なのかもしれない。「女王様の元へ……」と呟いてもロンニスは動じずにぼくを見ていた。話題を逸らすことは許されない。それだけはわかった。


「行くよ。そういう決まりごとだろ」

「おまえが行きたくないなら、適当にごまかして俺が行く」


 彼は予想外に言った。凛として、いかにも自分が正しいと示すみたいに、揺るがない声で告げた。


「え?」


 え? と思ったし、思わず声に出た。というか出さざるを得なかった。ぼくがどんな気持ちだと想定して、どういう意味で、なんのために言ったのかわからなかった。自分で言うのも抵抗はあるけど、ぼくは女王様のことが第一優先だとありとあらゆる方法で示しているつもりだし、とくにロンニスは近いがゆえに、その言葉と行動のほとんどを見つめていたに決まっている。

 それなら、こんな戯言を言う隙はないんじゃないか?


「おまえが女王へ会いに行きたくないと言うなら、俺がかわりに伝えると言っている。言葉の意味は理解できるな?」

「意味はわかるよ。だけど、そこにたどり着いた理由がまったくわからないな……」


 ふーっと息を吐く。冷静になりたかった。息は、ぼくの腹にたまっていく不快感を取り除くことはない。心臓がにぶく鐘を打ち付けている。最悪な予感がしていた。


「おまえが変わるさまは見ていられないんだ」


 ロンニスはぼくの手を掴んだ。

 拒まなかったというより、拒むことができなかった。


「いつからおかしくなった? ……昔のリヴィアは、俺を置いても俺を見ていた。その瞳が遠くを眺めて俺を映さなくなってから、どれほど経ったかわかるか」

「おかしく?」

「仲間を殺すやつは、おかしくないのか。一度だけではないだろう!」


 握りこむ力は強かった。彼がこの地位に就くために絶えず続けた鍛錬の結果が、ぼくを絞めている。ロンニスの顔はひどく歪んで、曇りなきまなこがぼくを睨みつけていた。彼の腹の底に溜まり続けていた怨嗟はようやく耐えきれなくなって、彼の口からこぼれ落ち、形をもってぼくの身体を襲っている。じくりと、身体の感覚が効かない場所が痛んでいた。

 彼の視線を一身に背負っている。そう、彼は女王様ではなくて、ぼくをひたすらに見つめ続けていた。その瞳は遅効性の毒のようにぼくの身体をじんわりと蝕む。彼のまなざしを浴びるところが、太陽に焦がされたみたいに穴が空いていく。まるで、すべての均衡が崩れてしまうようだった。形容してはいけないものが穴からぐつぐつと沸き上がっていく。

 壊れる。壊される。砕ける。割れる。

 すべて、崩れてしまう!


「おかしくなんてない。彼女の望む世界を、僕は……」


 すべてを恐れたような掠れた声が漏れ出た。

 ぼくらは同じ場所に立っていたはずだった。いつの間にかぼくはうずくまって、そのさまを見下ろされている。助けてほしかった。ロンニスはぼくを大切に思う人であり、ぼくの絶対的な味方であり、懐に入ることを許してくれる寛容さを併せ持つ、疎ましい太陽だ。

 ぼくと離れたくないくせに、ぼくを殺そうとする。

 そこが狂っていた。

 そうか。狂い始めたのは、今この瞬間だ。

 あくまでも冷静を保ち続ける無機質な廊下の感覚があり、口からぼくがぼくを壊さないためのまじないがこぼれる。そんな振る舞いを嘲るみたいに薄氷を焦がすまなざしを向ける。

 きっと彼はぼくを陥れようとしている。理由はわからなくても、女王様の寵愛を賜る身ならば結論にたどりつくことができる。いつか言葉が脳みその深くまで届いたときの爽快感を思い出した。

 彼はぼくを奈落の底へ落とそうとしている。

 これが答えだと、ぼくはわかる。

 信仰を捨てて、ぼくを女王様の役に立たない愚図にしたいんだ。きっとロンニスはぼくのことが羨ましくて、見初められていくぼくに耐えられなくなって、ぼくと彼女を引き裂こうとしている。


「そうだ。女王様は騎士をすべて愛してるよ」


 彼が言葉を挟む前に、わざとらしく言った。


「きみのことだって愛しているよ、ロンニス! 寂しがらないで。きみが女王様と謁見ができるように声をかけてみようか? 心配しなくともぼくは喜ばしいかぎりだよ」


 その言葉は彼女が定める価値を明確かつ真実的に示していたし、ぼくは嘘をついた。

 女王様が騎士を愛しているのは本当。彼女はぼくを捨てることはないけど、ぼくだけを選ぶことはありえない。ぼくが彼女の失いたくないものを守れるように躾られてきたも同然だった。

 彼が女王様と会えるように取り持とうとすることも本当。女王様はロンニスと会って、あの愛らしい笑い方をして談笑をするのだと思う。彼女の感情とぼくは同期する。そんなふうに笑ってくれたら、ぼくのすべてはさいわいに満ちていく。

 ぼくが喜ばしいことは嘘だった。ぼくの手が彼女の信仰の証を示さんと柄を握りしめる。ぼくだけが見ることができるものを他人に渡すことはしたくなかったし、ぼくだけが満足に受け取ることができる寵愛ではないとわかりたくなかった。


「リヴィア」


 と、ロンニスはぼくの名前を呼んだ。凛とした声はほか一切の感情なんか知らないみたいに同じ薄氷の上に立ち、無遠慮に侵害する。ぼくが「黙ってよ」とか「待って」と静止を図っても彼は言うことを聞かないで、まさに正しさを示すようにしゃがみこんだ。そうして、柄を握っていないほうのぼくの手を掴む。今度は痛くなくて、ひどく献身的かつ感動的で、まるで神に祈るみたいにぼくの手を包み込んだ両手を額に当てた。


「う」


 短い悲鳴が走る。拒絶というよりも、よくわからない感情がせり上がってくるような気持ちから出る言葉だった。


「なあ」


 はあ、と吐き出された息は震えていた。遅効性の毒は今もなおぼくを食んでいて、その神聖さを見るとより一層毒が回るような気がした。空の色をした瞳を伏せて、沈黙を裂くはずの声は静謐を守り、ぼくの手を彼のぬるい皮膚へと導くように、彼はぼくに願っていた。彼は頭を垂れる。甘える子どものように何度も額にぼくの手を擦り付ける姿は、すがりつくみたいに惨めたらしい。彼は手を組んで、女王様に祈るみたいにする。


「女王の寵愛なんていらない。おまえの一欠片だけでも、俺にくれないか」


 口腔が乾いたときの少し掠れた声で、ロンニスはまじないを囁いた。希うような繊細で美しい色でもありながら、甘えるように傲慢で地の底の色でもあった。

 まじないとはどのような姿をかたどってどのような質量を持っているのか、不可視が可視へと変化する。

 それはひどく重苦しい。不定形のおぞましい化け物のようだった。ふつふつと湧き出る情念が蒸発して、そのたびにむせるようなひどい腐臭がする。触れられているところが黒く変色していき、だんだんと痺れが襲う。熱を持つ。太陽の熱さはこのようなものかとわかってしまうくらいに熱い。皮膚がとけていく感覚がある。ぼくたちは影と同じように二人が一つになっていく。

 わかる。ぼくは知っている。ぼくと彼はまったく同じで、ぼくはこの感情を知っている。信仰とは醜いもので、おぞましいもので、それでも相手に示さなければならないとわかっている。


「はは」


 乾いた声が漏れる。気高いこの男が、ぼくに向かって何かを乞いている。


「ロンニス、きみがそういうなら悪いようにはしないさ」


 柄を掴んでいた手を、彼の背に回す。だんだんと指先から手のひらまで黒くなって、痺れて、熱を持って五指すべてが朽ちていく。すべてなくなっても、ぼくは彼を撫で続けた。こうするべきだった。信仰に応えてくれるあのひとはこのように振る舞っていた。


「もちろんあげるよ、大切なきみだからね」


 彼の耳元で言う。不定形のかたちを定めてやるように輪郭をなぞり、撫でて、すべてをあらわにしていく。頬に触れて、彼の顔をもう一度上げてやる。唇に触れて、彼が話してもいいと教えてやる。喉に触れて、きみのすべてをぼくが支配しているとわからせてやる。すべては女王様の受け売りだけど、このあらわにする神聖な儀式は心を満たすと知っていた。

 ロンニスがロンニスのかたちをして、戻ってきた。彼の瞳はくもることはなくとも雨が降るように潤んでいて、すべてを飲み込み、咀嚼して、手を離す。ひどい顔をしていた。


「元気出たろ? 報告はぼくがやるから、きみは先に休んでいるといい。あとで部屋でも行ってあげようか」


 彼は迷うように沈黙を保つ。なんて愛らしいやつなんだろう。ぼくへの献身は女王様に繋がり、彼はぼくが受け入れることで満たされていく。だから拒絶することは一切許されない。彼の心は、ぼくが射止めておかないと。

 もう一度「ね?」と甘えてやると、彼はようやく話す許可を得たことを理解したように、ゆっくりと口を開いた。


「……頼む」


 一つも口角を上げずにひっそりと言う彼の姿は、親の帰りを待ち続ける弱々しい子どものようだった。どちらが甘えているのかわからなくて、彼ってもしかしてぼくのことをとても愛しているから、ぼくが甘えなくとも許してくれるんじゃないかと思った。


「ふふ」


 思わず笑みがこぼれる。そう思うとたまらず愛おしくなって、さらに首に触れた。急所を触られているにもかかわらず彼はくすぐったそうに身をよじって苦しそうに息を漏らすのみで、面白くなってさらに首を包んで親指で喉仏を上下に動かしたり押したりする。彼は無抵抗で、すべてをさらけだしている。ぼくが無遠慮に触れて、すべてをまさぐっていく。腹の底からじっとりとした欲が湧き出て、たまらなくなって言葉にならない感情が笑みとして表出する。女王様もぼくに触れるときはこんな思いなのだろうか?


「やめろ……」


 目を眇めて、睨みつけた。怒るときの顔なのに語気がいつもよりずいぶんと弱々しくて、それすらも面白い。ぼくの手ひとつで彼は従順に手懐けられてしまうのに、様式美みたいに抵抗をする。ぼくらは均衡を保ちたがるので、手を離してあげる。


「ごめんごめん、ちょっと面白くって」


 支配から解放されたロンニスはまた息を吐いて、調子を整えるみたいに咳払いをした。ぼくの軽口に何も返さず、毅然とした様子で立ち上がった。


「俺は先に戻る」


 彼は長い廊下を先に歩き出す。静謐な黒い隊服は静かに闇に溶けていき、次第に姿は失われていく。ごうごうと燃えていた彼の視線は、何もかもを焦がし尽くす前に無事に鎮火された。

 ああ、めでたしめでたし。

 無事に彼のせり上がった感情をせきとめて、すべてを焦がそうとすることを抑えた。だから、今からぼくはこのすべてを彼女に報告しなければならない。

 信仰を証明して、ロンニスとの応酬を伝えて「おまえは期待に応えてくれる子ね」と褒めてもらわないと気が済まない。そしてぼくもロンニスみたいに、彼女に向かって愛の言葉を伝えてみたい。ぼくも、彼みたいに拒絶されずに報われたい。あわよくば彼女にも、ぼくが抱いたみたいな感情を抱いて、すべてを暴いてみてほしい! たとえぼくを慰めるための嘘だとしてもいいから、あの幸福を享受してしまいたかった。

 女王様の元へと走っていく。思わず踊り出してしまいそうなほどに機嫌がよかった。おぞましい化け物になってひどいにおいを放って、彼女を溶かすような真似をしても、彼女は受け入れてくれるだろうか。いや、答えは明白だった。他人の返り血で染まった浅ましい化け物を彼女はこの十数年間受け入れ、触れて、夜空のような衣でぼくを包んできた。それは愛の他ならない。

 ぼくは扉の前に立つ。この奥には彼女が佇む御座があり、ぼくのことを待っている。ぼくも彼女に会いたくてたまらなかった。それって、どうしようもないくらいにまっすぐな愛だと思う。

 扉を叩いてから息を吸う。まるで子どものようだった。無邪気で無垢で、彼女が愛したころのぼくにひどく似ている。浅ましく、みじめで、おもちゃのような声が廊下に響いて、あまりにも馬鹿らしかった。

 まじないはいつか、愛の告白となる。


「ねえ、女王様。ぼくです、リヴィアです。件の侵略と、あと、あなたに褒めてほしいことがあるんです!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖騎士による信仰の断章【連作短編シリーズ】 久瀬栞 @HisaSe__

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ