後編
アリキの研究室が持つ月面農場は、同じ研究室のメンバーが一か月ごとに交代で泊まり込んでいるのだが、今月の担当が一人、月面肺炎になって入院した。宇宙服の換気フィルターの換えを買えなかったらしい。農場の世話もデータ取りもほとんど自動なのだが、それでも誰かが現地でこまごまとした手当てをしてやる必要がある。誰か行けるものは、と言われたが、誰一人手を挙げようとしない。アリキは少し迷って、じゃあ僕が、と言った。
「お前はちゃんとフィルター買えよ」と同期が背中を叩いて研究室を出ていく。「しばらくバイト入れないのに?」とアリキは恨みがましく言ったが、かといって友人がフィルターや金を融通してくれることはない。端末から預金残高を確認して頭を抱えた。家賃を払ったらほとんど残らない。バイト先のオーナーに通信を投げて、シフトの調整を依頼すると同時に「すみませんが先月分を先に振り込んでいただくことは可能ですか」と言うと、うーん、と唸った後、「まあ、いつもお世話になってるからね。来月はもっと入ってもらうことになってもいい?」と言う。とため息を隠して了承した。
数日前に、何とか出願した、というミヤビからの連絡はあったものの、ハレヤカとは話せていなかった。合格発表は一か月後。向こうの惑星の周期上、入学の時期は星系外からのアクセスがしづらくなるので、すぐに大学の寮に入って、高校の授業は遠隔で受けることになる、とミヤビは言った。
続けてハレヤカに通話をかけると、仕事の休憩中らしかった。ハレヤカは文句を言いながらも地球外来種の駆除会社に勤め続けている。最近はマトル人の同僚が入って、ものすごく仕事がしやすくなったと言っていた。そういうわけだからしばらく会えない、と言うと、ハレヤカはそうか、金は大丈夫か、遠慮とかしないで言え、と立て続けに言った後、少し間をおいて「さみしいよ。頑張ってな」と付け加えた。アリキは思わず口元を緩めてから、すぐ気を取り直して「……ミヤビと話し合ってね」と言った。
「分かってる。ありがとう」
離れて声だけで話していると、ハレヤカの声が好きだ、といつも思う。奥行きのある、胸に響く声で、いつでも心がこもっている。
通話を切った後、しばらく窓から外を眺めていた。いかにも地球らしい──アリキは太陽系の外に出たことがないから話に聞くだけだが──オールドスタイルな高層ビルの三十階からは、街が途切れて荒廃したあたり、おそらくいまハレヤカがいるであろうあたりまでよく見える。エイダ以前、旧人類の遺産。折れたままの赤いタワー、地面にしがみつくように這う線路の跡。有害で大型の地球外来種はおもにそちらの旧市街のほうに住処があって、ハレヤカの会社はそれらが新市街のほうに来ないように防衛線を張っている。時折マナーの悪い観光客が本物の「エイダ以前」を求めてそちらに紛れ込んで野生動物に襲われては、ハレヤカの会社に助けられたりもする。廃墟を取り壊して公共施設でも作ろうという試みは百年に渡って進みが悪い。
ハレヤカはどうしてこの星が好きなのだろう、と思う。観光客頼りは情けないと言うのも、方針にぶつぶつ言いながらも今の仕事を続けているのも、どうやら地球ガ好きだからであるらしい。
ミヤビを地球に押しとどめようとするのも、ミヤビが好きだからだろうか?
アリキは目を閉じて、椅子に大きくもたれかかって天井を見た。とにかく彼女は出願できて、あとは結果次第なのだ。アリキにできることはない。二人が話し合うしかない。
上を向いたまま端末に触って、カレンダーを見る。月に行くのは明後日から一か月、その間にミヤビの合格発表が出る。ひょっとしたら彼女が地球を出るのと入れ違いになるかもしれない。
「そうならいいんだけど」
とつぶやいてから、自分で怪訝に思う。そうならいい? 彼女に別れを言えないのが? 一言、向こうでも頑張ってと、顔を合わせて言えないのが?
窓の外は薄暗くなっていた。バイト先に集う観光客たちは今頃、地球の夕焼けの写真を撮っているだろう。
合格発表の日を過ぎても、ミヤビからの連絡はなかった。二日に一度のハレヤカとの通信でも、その話には二人とも触れることはなく、アリキは半分忘れたような気持ちで農場の世話をし、データを取り、自分の論文を書き、月面都市で単発のバイトをした。
月-地球直行便の、一番安い狭い座席からなんとか立ち上がって、久しぶりの地球重力を感じながら伸びをする。月にだって疑似重力はあるが、やっぱり本物は違う。その足でバイト先に寄って、店長に詫びの月饅頭を手渡し、廃棄寸前の蜂蜜ピザを何枚かもらって家に向かう。
家に入ると、ハレヤカが待っていた。
「え、掃除までしてくれたの?」
「冷蔵庫もだいたい片づけた」
「助かるー!」
抱きついて頭をぐいぐい撫でると、ハレヤカは嬉しそうにアリキの背中を叩く。会いたかったよハニー、と言うと大声で笑って「調子に乗るなバカ」と言った。それからちょっと抱きしめ返して、すぐ離れる。
「なんか食べた?」
「まだ。ハレヤカは?」
「じゃあなんか食べに行こう。俺今日は帰らないと」
「オッケー」
バッグを開けて、洗濯機に着替えを放り込む。月では最低限の洗濯しかしていなかったので、密閉袋を開けるやわずかに嫌なにおいがした。自分も変なにおいかもな、と案じて、着ていたシャツも脱いで入れる。新しいシャツはこの間ハレヤカと一緒に買ったものだ。
「お待たせ」と言って部屋に戻ると、ハレヤカの手のなかに見慣れない端末があった。アイスブルーとピンク。ハレヤカの趣味ではない。
「あれ……端末変えた?」
「ん? いや、これはミヤビの」と言ってポケットにしまう。アリキは瞬いてそれを見た。言われてみればミヤビのものだ。
「……なんでミヤビのがここにあるの」
端末がなければ公共交通機関にも乗れなければ買い物もままならない。ハレヤカは肩をすくめて「うん、こうしないとどうやっても行こうとするんだよ」と簡単に答えた。
「どこに」
「だから、大学に。話さなかったっけ」
アリキの心臓がふいにどくどくと鳴りだした。足や買い物どころではない、端末がなければ生活はままならない。大学どころか隣町に行くこともできない。下手をすれば、家から出ることも。そうやって子供から端末を取り上げる親のことを、そう、何と言うのだったか。それは虐待の一つとして数えられるのではなかったか。
「……合格してたの?」
「そう。で、どうしても行くって聞かないんだ。飛び出していきそうな勢いだから、俺が外出するときはこうやって」
「ハレヤカ」と止める声を、アリキは他人のもののように聞いた。「それは……だめだ。それはだめだよ、ハレヤカ」
ハレヤカはけげんそうな顔をした。その顔があまりにもいつもどおりで、かえって見知らぬ他人のように感じた。
「ミヤビだってもう子供じゃない。せっかく合格したのに、なぜ行かせてあげないの」
「だから、何回も言ってるだろ。心配なんだ。わざわざ苦労させたくない。そんなに遠くにいたら、何かあっても助けてやれない。なんか変なこと言ってるか?」
視界が狭まって、心臓が強く脈打つ。信じられない、という思いの裏に、いや、こうなることは知っていた、という自分の声がする。こういうふうになることを知っていたから、わざわざ月行きを引き受けたのだ。目の当たりにしなくて済むように。彼が折れるか、彼女が折れるか、結果だけをのほほんと受け取って、過程に干渉しなくて済むように。
「ハレヤカ。ハレヤカにその権利はないよ。保護者だからって、なんでもしていいわけじゃない。端末を取り上げるのなんてやりすぎだ」
「取り上げたって、人聞きの悪い──」
ちょっと眉を上げて、口角をゆがめ、冗談に聞こえるように声のトーンを上げるのが、自分のことのようにはっきり分かる。無意識のうちにごまかそうとしているのだ。アリキをというより、ハレヤカ自身を。ハレヤカ自身の──そう、ミヤビが言っていたとおり、支配を。
「ちょっと……ごめん、本当に見過ごせない。そうやって無理やり取り上げるのはほとんど暴力だよ。それに、能力と意欲がある人が学校に行けないのは、僕は本当に嫌なんだ」
アリキが冗談にしないのを見て取って、ハレヤカは顔のパーツのひとつひとつを曲げるようにして、なんでもない表情に戻した。しばらく彼の顔を見つめ返した後、「そうだな」とつぶやいた。「お前はそう思うだろう」
二人はしばらく見つめあっていた。こういう風に見つめあうのは、まだ交際を始めたころ、相手の手に触れるのにもためらうころ以来だった。ハレヤカ、と囁くと、彼の眼差しが揺らいで、眉のあたりに不安と失望が見えた。彼は寂しさや悲しみを隠すことはない。恋人が自分の意見を分かってくれないのを、彼だって分かっていたはずだ。だから何でもないような声を出していたのに、アリキはその殻を無理やり破ってしまった。
「俺が間違ってるのか? 俺が家族のことを心配してるのが? ミヤビ自身より、お前より、ミヤビのことを知ってるし、考えてるよ。それで出した結論がこれなんだ。俺のどこが間違ってるんだよ」
ハレヤカの、奥行きのある、胸に響く声。いつでも心がこもっている。
アリキが手のひらを差し出すと、ハレヤカは素直にミヤビの端末を渡した。その手を握り締めて抱き寄せたくなるのを、アリキは懸命にこらえた。抱きしめて、ごめん、僕が違っていたよと言えればどんなにいいか。
「……ミヤビに返すよ。いいね?」
「お前がそうするのが正しいと思うなら」とハレヤカは疲れたような声で言って、椅子に座った。外からぽんぽんと花火の音がした。もう日が暮れるのだ。
「俺はミヤビは行くべきじゃないと思ってる。お前にも、なんで分かってくれないんだよって思ってる」
彼の指先が机を軽く叩く。そこに触れるとどんな硬さをしているか、アリキは知っている。
「意見が違うのは最初から分かってた。俺はするべきだと思ったことをした。お前もするべきだと思うことをする。お前の意見はお前の意見で、覆すのは無理だ。蜂蜜ピザ屋で働いてるのを、俺が何か言ったことがあったか」
アリキは言葉を失って彼を見た。さっきよりも強く花火が鳴った。この間花火の火が飛んで火事になりかけたらしいな、と場違いに思い出す。その再発防止がどうなったという話は聞こえてこない。ただ有耶無耶になっただけなのだろう、たぶん。
「……ミヤビにはそう思えなかったんだね」
なんとか絞りだした言葉だったが、ハレヤカに届いたとは思われなかった。彼は表情を変えずに「お前と妹は違うだろ」とだけ答えた。アリキの膝から力が流れ出て、床が水浸しになったような気がした。
ミヤビの端末を握り締めたまま外に出ると、観光客の一団とすれ違った。このあたりはただの居住区なのに、最近はよくスイット星系の人たちを見かける。彼らは賑やかに地面を這い、「重力が強いねえ!」とはしゃいでいる。
花火の音に背を向けて、ミヤビの家のほうに歩きだす。
ワープゲートの中継所まで行く船はもうなかった。アリキは宇宙港を駆け回り、なんとか探し出したレンタル宇宙船にミヤビを乗せた。船内のあまりの狭さに少し唇を尖らせる。旧式だから安かったのだとはいえ、アリキの実家にあるものよりさらに古い。ミヤビは無言のまま補助座席に自分の尻と大きな荷物を押し込んだ。シートベルトを締め、座席の角度を調整する。アリキは運転席に座って緊張を押し殺した。なにせ自分で運転するのは五年ぶりだ。
「中継所までで悪いけど、そこなら乗り合いが拾える。向こうとは連絡ついてるね?」
「……うん。抜けた先のワープゲート港で待っててくれるって」
「オッケー」
アリキもシートベルトを締めて、安全装置をいくつか確認し、自動運転モードに切り替えた。あとは射出機の順番が空き次第離陸できる。地球の重力から逃れた先でもだいたい自動運転で行けるはずだが、この古さだとあまり信用しないほうがよさそうだ。
ミヤビは無言のまま端末を見つめていた。ミヤビにもアリキにも、ハレヤカからの連絡はなかった。あの部屋で一人外を見ているハレヤカを想像すると、胸がつぶれるように痛んだ。
やがて射出機の順番が来て、再度安全装置を確認するようメッセージが出る。口に出してそれぞれの機能が動いているのを確認し、ミヤビに「いいね?」と尋ねると、ミヤビは両手を握り締めて頷いた。
離陸の瞬間はいつまでも慣れない。こんなおんぼろで本当に大丈夫なのか、と思っているうちに体中を押さえつけていた圧力がふわりと軽くなり、予定軌道に乗ったことを示すランプが点灯した。大きく息をつく。
「……地球見る?」
「そういうのいいから」
ミヤビはなんとかいつものようなおどけた調子で言った。それから本当に小さな声で「……ありがとう」と囁いた。
「……僕は、僕がしたいようにしただけだよ」
ミヤビは首を振った。
「アリキさんは……お兄ちゃんを取ると思ってた」
アリキは言葉を探した。はるかに背後にいるハレヤカの、頭を撫でたときの感触を思った。美しい、男らしい、愛しい恋人。抱きしめたときの筋肉の動き。
「取るとか取らないとかじゃないよ」
「でも別れることになっちゃったんでしょ」
アリキは反射的に「違う」と言った。「ハレヤカがどう思ってるかは分からないけど、僕はそんなつもりない」
言ってから、そうなのか、と思った。
彼を許せるだろうか? 彼が妹にしたことを、彼が妹を思っていると言いながら自由を奪うのを目の当たりにして、まだ愛せるのか?
「じゃあどうして私のことを助けてくれるの」
「……僕の両親は、僕が大学に行くのに本当に最後の最後まで反対してたんだ。今も反対してる。それだけだよ」
宇宙船がぐんと傾いて、軌道を変える。地球が遠ざかる。アリキはミヤビのほうを見て、彼女の少しだけうるんだ瞳を見て、「……違うな」と言った。
ミヤビの金色がかった瞳。この瞳が欲しかった。ハレヤカと同じ髪の色に、瞳の色に、肌の色になりたかった。生まれてこの方ずっと一緒なんですと言いたかった。だから同じように考えて、同じように感じて、同じように行動するんですと、そう誰かに言いたかった。
「君が邪魔だったからだ」
「え?」
「もし、ミヤビがあきらめて、地球に残って、ときどき一緒に食事をして……そのたびに僕は、ハレヤカが……ハレヤカの嫌いなところを思い出す羽目になる」
自分でも不思議なほど声は静かだった。ミヤビの目が見開かれ、指が震える。彼女を傷つけているとわかったが、口は勝手に言葉を紡いだ。
「君さえいなければ、見なかったふりができる。ずっと好きでいられる。一度の衝突さえ耐えれば済む」
まだ愛せる。いくらでも愛せる。ここにさえ触れなければ。好きな人の嫌いなところを、見ずに済ませられるなら。
何かのランプがちかちか光ったのを潮に、アリキは彼女から目をそらして、何か操作をしなければいけないふりをした。
「鞄に蜂蜜ピザが入ってる。よかったら食べて。ワープゲートから先テラの食べ物はあんまりないよ」
ミヤビは言われるままにのろのろと鞄に手を伸ばした。蜂蜜ピザの袋を開けて、包み紙を破く。蜂蜜のついた紙が漂っていかないよう、アリキは手を伸ばしてそれをつまんだ。ミヤビはピザをくるくる巻いて筒状にしてからかぶりついた。
無重力下で食事をするのはこつがいる。ミヤビは長いこと、本当に長いことかけて蜂蜜ピザを嚙みちぎり、咀嚼し、飲み込んだ。涙は流れずに目の周りにとどまった。
目的地に近づきました、というアナウンスが流れたあと、ミヤビはアリキのほうに手を伸ばした。「それでもありがとう」と彼女は言った。「それでも、本当に、本当にありがとう」
彼女の指先に蜂蜜がついていた。アリキは壊れ物を手にとるように、彼女の手を握り返した。
自分の家に帰ると、生姜と大蒜の匂いが出迎えた。それから肉を焼く匂い。ハレヤカは振り返らずに「おかえり」と言い、フライパンを煽った。ハレヤカは料理がうまい。アリキは「ただいま」と返してから、しばらくその背中を眺めていた。
自分たちはとてもうまくできるだろう、とアリキは思った。何もなかったように過ごせるだろう。時折思い出すことがあっても上手に話をそらして、意見がぶつかりそうになっても体をかわして。
ハレヤカの肩に手を置いて、フライパンをのぞき込む。麻婆豆腐だ。初めてアリキの部屋に来た時、このコンロ火力が足りねえ火力が、と文句を言いながら作ってくれたときと同じ。
「うまそう」
「うまいよ。山椒なかったから買ったよ」
「普通山椒なんてないんだよ、普通の家には」
そうかなあ、とハレヤカは笑う。彼が火を消すのと同時に、アリキは相手の腰に手を回して、肩に額を乗せた。重いよ、とハレヤカが囁く。同じ身長、似た体格、同じシャンプーのにおい。
まだ愛せる。
本当に長いことためらってから、アリキはささやいた。
「ハレヤカ」
「うん?」
「ミヤビは無事にワープゲートを抜けたよ」
見なくても、ハレヤカの顔からすっと表情が抜けたのがわかる。彼の腕から逃れようとして体がこわばる。アリキは顔を上げた。まともに視線がぶつかる。
「もう少し話したいんだ。どうしてこういうふうになったのか」
「なんで」とハレヤカは本当に戸惑ったように言った。「もう終わっただろ。お前はお前の我を通した。俺はそれを受け入れた。それだけじゃないか」
そのとおりだ、と頭の半分では思っていた。彼には彼の意見があり、自分には自分の意見がある。無理やり意見を覆させることはできない。ぶつかったなら、それ以降はそこを避けて通るようにする。
「それも一つのやり方だと思う。正直、本当にさっきまではそのつもりだった。でも、その道はないよ。なかったことにするんだ、今」
そうやって踏んではいけないところが増えるうちに、二人は離れられなくなっているだろう。愛情以外のものをつなぎにして。まだ愛せる、と繰り返して。
空っぽの胃に、絶対においしい麻婆豆腐の匂いがしみわたって、ほとんど吐きそうになりながら、アリキはハレヤカの目を見つめ続けた。
「これから同じようなことで百回喧嘩するか、今すぐ別れるか、どっちかにしよう」
金色がかった瞳が揺れて、さっきの、涙を目の淵にためながら蜂蜜ピザを食べていた彼女とそっくりになる。この人と、本当に一体になれればよかった。スイット星系の人たちのように、あるいは地球の、もう滅びたいくつかの種族のように、決めたつがいがいずれ一つになる体に生まれてくればよかった。抱きしめそうになる自分を、さっきよりもずっと強い力でとどめなければならなかった。
沈黙は長く、麻婆豆腐の表面が曇ったように膜を張るまで、二人はそのままの姿勢でいた。やがて、ハレヤカはアリキの手を取って体から外させ、握手するときのように握りなおした。
「分かった。話そう」
アリキは全身からどっと力が抜けるのを感じて、ほとんど泣きそうだった。でも、ここからなのだ。これはスタートラインで、彼とこれから喧嘩をしなくちゃいけないんだ、と自分に言い聞かせても、膝はぐにゃぐにゃと曲がって、彼にすがりつきそうになっていた。
彼の手もまた油で汚れていた。二人は台所の床に座り込んで、夜が明けるまで手を握りながら話した。
話しても話してもお互いの意見が一致することはほとんどなくて、明け方になってようやく二人は麻婆豆腐のことを思い出し、温めなおして食べた。信じられないくらい山椒が効いていて、アリキが身もだえすると、ハレヤカは「お前が帰ってくるか不安で間違えたんだ」としれっと言って蓮華を口に運んだ。
仕事に行くまでには二人とも少し時間があったが、続きは明日にしよう、とハレヤカは言い、アリキも同意した。仕事中に俺の言い分をもう一回考えておくよ、と言うので、どっちかっていうと僕の意見をもう一回考えてみてほしいんだけど、と返すと、空気はやや険悪に傾いた。それでもとにかく朝は朝だった。
手をつないで外に出ると、朝日がまぶしかった。紫外線除けの巨大な傘をさしたツリーズ星系人がしゃなりしゃなりと歩いていく。アリキの職場の近くまで来ると、街路樹の下でなにやら観光客たちが話している。
たぶんガガガリア人の、たぶんテラ人で言うと未就学児くらいの子供が泣いていて、大人たちがそれをなだめている。子供が持っていた風船が飛んで、街路樹にひっかかったようだ。アリキがそれに気づくのと同時に、ハレヤカはアリキの手を離して駆け寄り、風船に手を伸ばす。すぐに振り返って「肩車ならいけるんじゃない?」と言った。
アリキが近寄って風船を見上げているうちに、ハレヤカはさっさとしゃがんで背を向ける。ほら、と促されて、アリキはその肩に手をかけて、ほんの少しためらってから足を上げて首にまたがった。Tシャツの向こうの汗が感じられる。みっちりと詰まった筋肉の感触。アリキの好きな、男らしい肩。
「行くよ? せーの」
ぐんと視界が高くなって、アリキはちょっと笑ってしまう。「うはは」と笑い声すら漏れる。少しふらついたのは立ち上がるときだけで、ハレヤカはしっかりと立って背中を伸ばした。
「行ける?」
「行ける!」
ハレヤカの頭に左手をついて、右腕をうんと伸ばす。彼の硬い髪。いつもアリキが切っている。風船の糸をつかんで外すと、足の下でわっと嬉しそうな声が上がる。アリキも笑って、ちょっと泣いているのをごまかすために、彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。風船の糸を指に絡めて、汗ばんだ頭を抱きしめるようにする。おい、なんだよ、とハレヤカが嬉しそうに困ったように笑う。
この人の、こういうところだけ見ていたかった。男らしくて、愛情深くて、優しくて力強いところだけを。アリキは恋人で男で同い年でテラ人で、兄弟ではなくて、だから本当は見なくてもすんだかもしれないところを、そのまま見逃しておけばよかった。
ハレヤカがゆっくりしゃがむ。風船を出迎える子供が晴れやかに笑っている。
ふたりきりの夜に 六 @69rikka
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