ジーマと汐海さん

蓮田蓮

ジーマと汐海さん

 東京の空は、どこまでも高く、そして不思議な色をしていた。きらきらと輝く高層ビル群、まるで生き物のように蠢く人々の波。7歳のジーマは、そのすべてに目を奪われながら、家族と一緒に東京観光を楽しんでいた。ママのワンピースの裾を握りしめ、パパの大きな背中を追いかける。初めて訪れる日本のすべてが、ジーマにとっては驚きの連続だった。

 しかし、その日は突然訪れた。どこかのアトラクションを出たところで、一瞬の気の緩み。パパとママが、いつの間にか人混みに消えていた。ジーマは、胸に抱きしめたお気に入りの狼のぬいぐるみ「ヴォルク」をぎゅっと抱きしめ、必死に周りを見渡した。

「ママ?パパ?」

小さな声は、雑踏の喧騒にかき消される。ジーマの心臓は、まるで東京の地下鉄のように速く鼓動し始めた。英語は少しだけ分かるけれど、日本語は全く分からない。ここは、どこ?どうすればいいの?

 気づけば、ジーマは巨大な駅の中に立っていた。頭上には無数の表示板が光り、人々は迷うことなくそれぞれの方向へと吸い込まれていく。どこへ行けばいいのか、誰に助けを求めればいいのか、全く分からない。ジーマはベンチの隅に座り込み、ヴォルクの顔に自分の頬を押し付けた。今にも泣き出しそうになるのを、必死にこらえていた。

 その時だった。

「どうしました、坊や?」

優しく、しかしはっきりとした日本語が、頭上から降ってきた。ジーマがおそるおそる顔を上げると、そこに立っていたのは、JS-TC線駅員の制服に身を包んだ、まだ若い男性だった。彼の胸元には「汐海」と書かれた名札。背はあまり高くないけれど、その佇まいはどこか軽やかで、まるで今にも踊りだしそうな雰囲気だった。

彼は、JS-TC線の人気車掌、汐海さんだ。

 汐海さんは、困惑した様子のジーマに、にこやかに微笑みかけた。彼の乗客を案内する指差呼称の動きは、日頃から鍛えられた身体能力を感じさせるほど流れるようで、周囲の駅員からも一目置かれていた。

「君、もしかして、迷子かな?」 ジーマは小さく頷いた。その目には、大粒の涙が浮かんでいた。汐海さんは、そんなジーマの姿を見て、そっとしゃがみ込み、目線を合わせた。彼の表情は、まるで親しい兄のようだった。

「Don't worry. I will help you.」

汐海さんの優しい英語に、ジーマは少しだけ安心して、小さな声で「Thank you...」とつぶやいた。

「Where are your parents? Mama? Papa?」

ジーマは首を振った。「No... gone. Lost...」

汐海さんは、ジーマの手にそっと触れた。「OK. Let's go to the office.」

そして、人混みの中を軽やかなステップで誘導し始めた。その動きはまるでダンスのようで、ジーマは不安を忘れ、思わずその背中を目で追った。人々の間を縫うように進む汐海さんの後ろを、ジーマはヴォルクを抱きしめながらついていく。

 駅員室に入ると、汐海さんはジーマを小さな椅子に座らせ、温かいリンゴジュースを差し出した。

「Drink? Apple juice.」ジーマはちびちびとそれを飲みながら、ようやく落ち着きを取り戻し始めた。

「Who is this friend?」汐海さんがヴォルクを指さすと、ジーマは少し得意げに答えた。

「Volk! My best friend. He is wolf. Russian wolf.」 汐海さんはヴォルクにも優しく「Hello, Volk!」と挨拶し、ジーマはくすりと笑った。

 言葉の壁はやはり厚かった。汐海さんは、ジーマの家族の特徴を聞き出そうと、絵を描いたり、ジェスチャーを交えたりする。

「Mama... hair? Long? Short? Color?」 ジーマは自分の短い髪を指差し、次に手をひらひらとさせて「Mama... long, brown, like this!」と身振り手振りで説明した。パパについては「Big! Strong!」と言って、胸を叩いてみせた。

その間、汐海さんは駅構内のアナウンスで、迷子の男の子の特徴を複数の言語で放送し、同時に警察にも連絡を入れた。彼は時折、ジーマの様子を伺い、不安そうな顔を見せると、JS-TC線の路線図を見せながら「This is JS-TC Line. Silver and Red train. Very fast!」と説明した。

 ジーマは、銀色の赤い電車に興味津々で、目を輝かせた。汐海さんは、小さな電車の模型を取り出し、テーブルの上で走らせて見せた。

「Choo choo!」ジーマはヴォルクと一緒に、その模型を追いかけた。汐海さんの、子供を楽しませる優しさと、どこかリズム感のある動きに、ジーマはすっかり心を許していた。

 数十分後、駅員室のドアが勢いよく開いた。

「ジーマ!ジーマ!!」 そこに立っていたのは、顔を真っ青にして、今にも泣き出しそうなママとパパだった。彼らは駅のアナウンスを聞きつけ、慌てて迷子センターに駆け込んできたのだ。

「ママ!パパ!」 ジーマは椅子から飛び降り、二人の腕の中に飛び込んだ。しっかりと抱きしめられ、安心感からか、大粒の涙が止めどなく溢れ出した。パパとママも、ジーマを抱きしめながら涙を流し、汐海さんに深々と頭を下げた。

「Thank you... Thank you so much!」 ママは震える声で、汐海さんの手を握りしめた。

汐海さんは、にこやかに微笑み、小さく首を振った。

「It's my job. I'm glad he is safe.」 彼はジーマに、JS-TC線のイラストが入った小さなパスケースをプレゼントした。「For you. My friend.」 ジーマは、それをぎゅっと握りしめ、汐海さんを見上げた。そして、覚えたばかりの日本語で、精一杯の感謝を伝えた。 「アリガトウ!」

その声に、汐海さんは再び、まるでダンスのフィナーレのような、軽やかな仕草で微笑み返した。

 ジーマは、東京の旅の途中で出会った、この優しくて少し風変わりな車掌さんのことを、きっと一生忘れないだろう。そして、あの銀色の赤い電車を見るたびに、彼のことを思い出すに違いない。


終わり

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ジーマと汐海さん 蓮田蓮 @hasudaren

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