第7章
数日後、学園には穏やかな日常が戻っていた。理事会の不正はすべて明るみに出され、新理事長には鈴香の母が就任していた。校舎の屋上、ひんやりとした冬の風が髪を撫でる中、鈴香は白い雲をぼんやりと見上げていた。
「……お前のお母さんが理事長に?」
隣で颯太が呟く。驚きと、どこか納得の混じった声音だった。
鈴香は風に髪を押さえながら、わずかに笑みを浮かべる。
「ええ。わたしも最初は驚いたわ。でも、お父様だと突っ走りそうだし、理事長の椅子は少し向いてないと思うの」
少し皮肉を込めたつもりだったが、心の奥には不思議と温かいものが感じられた。
「確かにな」
颯太が賛成してくれるのが、さらに鈴香の心を温かくする。
「信頼回復と経営再建を同時に行わないといけないみたい。大変でしょうけど、お母様ならきっと上手くできるわ。だから引き受けたのよ」
言葉を口にしながら、胸の奥で何かが静かに動き出した気がした。
鈴香が思いをめぐらせていると、颯太が何か言いにくそうに口を開く。
「実はお前に……一つ言いたいことがあるんだ……」
「え?」
普段と違う颯太の表情を見て、過去の記憶が思い出され、思わず鈴香の胸がざわつく。
「その……なんだ……」
今回もやはり、颯太にしては歯切れが悪い。
(もしかして……また何か? でも、今回は早合点しないようにしなくちゃ……)
鈴香はゆっくりと視線を颯太に戻し、息を整える。
「突然で驚くかもしれないけど……。でも、オレの思いをはっきりと伝えたいんだ……」
「え? え?」
(……颯太の……わたしへの『思い』って……、まさか?)
思わず頬が熱くなる。
颯太は視線を遠くに置き、静かに呟いた。
「今回の事件を解決したことで、オレの父さんの無念も晴れた。生きていたら、きっと誇らしく思ってくれたはずだ。ありがとう、鈴香。お前のおかげだ」
鈴香は耳に届いた自分の名前に驚き、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。そのさりげない言葉が鈴香の心に深く刺さる。
(いま、颯太……わたしの名前を……)
それがただの感謝の言葉だと分かっていても、頬が熱くなる。視線を合わせ、鈴香はそっと微笑んだ。
「ええ。きっとそうね」
鈴香は目を閉じ、過ぎた出来事を思い返す。
父の豪快な行動力、母の冷静な洞察力、そして祖父の先見と深謀――。
今まではただの「力」として見ていたそれらが、今回の事件で一つになり、真の解決のための「手段」として機能した――。
そのことが、鈴香の中で確かな意味を持ちはじめていた。
頬を撫でる風が少し強くなり、鈴香は身をすくめる。
その瞬間、颯太の手が同じ方向へ伸び、偶然にも指先が触れた。短い沈黙。わずかに触れた指が離れるまでの一瞬が、永遠のように長く感じられる。
「まあ、お嬢様と颯太様、お二人の距離がますます近くなりましたね」
いつの間にか近くにいた綾音が、柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。
鈴香は思わず眉をひそめ、両手を組み直す。
「ち、違うわよ! 別にそんな……」
慌てて言い返す鈴香をよそに、颯太は静かに缶ジュースを口に運ぶ。無言のその仕草が、かえって二人の距離を際立たせた。
綾音のからかいに鈴香が慌て、颯太が無視する――その普段どおりのやり取りが、屋上にふっと暖かな空気を漂わせた。
鈴香は、筋を伸ばし、突然宣言した。
「探偵活動はまだまだ終わらないわ。これからも退屈しない毎日にしてみせるんだから!」
「マジかよ! 俺、また事件に巻き込まれるのか……?」
周平が苦笑混じりに声を上げ、屋上の空気が一気になごむ。
「田村様も、結局は楽しんでいらっしゃるのでは?」
綾音が控えめに微笑むと、周平は肩をすくめて笑った。
「……まあ、そうかもな」
綾音がふと思い出したように口を開く。
「そうでした。お嬢様、校長先生から伝言がありました。『カフェテリアに遅くまで居座るのはやめなさい』とのことです」
「え? だから今日は屋上なのね。まだ寒いのに……」
そのとき――突如として上空にパラシュートが開く。光沢のあるスーツ姿の男が、風を切って屋上に降り立った。
神戸グループ会長にして、鈴香の父である。彼は優しげな笑みを浮かべながら、ゆっくりと娘の前に進んだ。
「私の可愛い娘の探偵活動に金の力が必要だそうじゃないか! お前たちの活動の拠点は、この私が用意してやろう!」
屋上が一瞬で静まり返る。
鈴香はその男に向けて、大きく声を張り上げた。
「うるさいわね! わたしの探偵活動の邪魔をしないで!」
そのセリフを発しながらも、鈴香は自分の声に笑みが混じっていることを意識した。
(まったく……相変わらずなんだから)
強引で目立ちたがり屋で、でも、実は誰よりも自分のことを気にかけてくれる――そんな父の不器用さを理解し、鈴香の胸の奥には温かいものが広がっていく。
いつの間にか鈴香の母も姿を現していた。
「解任された理事の部屋が空いているわ。これからはそこを使いなさい。校長先生には私から話しておきます」
母の口元にも、優しい笑みがゆっくりと広がる。
「すげえな、この親子……」
「本当に仲の良いご家族です」
「この掛け合いといい、間合いといい……オレはまだまだだ……」
微笑ましい親子のやり取りを見守りながら、三人も笑顔を浮かべた。
綾音は、ふと思い出したように鞄の中を探った。
「お嬢様と颯太様、実は今度こそ本当に、私からプレゼントがあります」
綾音が取り出したのは、薄いリボンでデコレーションされた小さなフォトブックだった。
「これは、わたしが撮った写真をまとめたものです。初めての事件から今日まで――『探偵』と『相棒』の記録です」
鈴香がフォトブックのページをめくる。そこには笑顔や驚き、緊張や安堵――様々な表情が収められていた。
屋上での休憩時間、カフェテリアでの作戦会議、街のカフェでのひととき、帰り道での何気ないひとコマ……。一枚一枚が、そのときの空気や感情を鮮やかに蘇らせていく。
「……こんなに撮っていたのね」
鈴香は小さく笑いながら、ページの中の自分たちに視線を落とした。
「どの写真も、すべてが物語の一部です」
綾音の声は、どこか誇らしげだった。
颯太がページをのぞき込み、わずかに口角を上げた。
「こうして見ると、けっこういろんなことがあったんだな」
「ええ。でも、アルバムの余白は、まだまだたくさんあります」
綾音が微笑むと、鈴香も頷いた。
「その余白は、これからの事件で埋めていくのね」
「そのとおりです。『探偵』と『相棒』で」
綾音が軽くウインクした。
すると、鈴香のスマホが静かに震えた。差出人不明のメールだ。画面に表示された差出人は、一文字のアルファベット「M」。本文は短く、挑戦的だ。
『次なる謎は、我々が用意しよう。』
鈴香は画面をじっと見つめ、ふっと小さく笑みを零す。視線を空に移し、低く囁いた。
「まだ見ぬ強敵からの挑戦状……まるで、わたしたちを試しているかのようね」
鈴香は顔を上げ、颯太、綾音、周平を見渡す。
「ねえ、聞いてくれる? お金の力も、スリルのある人生を彩る最高の道具のひとつだと思わない?」
屋上の風に揺れる四人の輪。鈴香の瞳には、以前とは異なる、未来への探求心と確固たる決意が映っていた。その光は、これから始まる新たな日常を、静かに予感させていた。
こうして、神戸鈴香の探偵活動は、祖父たちから受け継いだ血脈と、硬く結ばれた仲間たちとの絆を胸に、大いなる決意を持って、さらなる未知の謎へと挑んでいくのであった。
富豪令嬢探偵 大神杏平 @Zenyy
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