書かれる女
浅野じゅんぺい
書かれる女
その夜、何かが終わる気がした。
だから、あの安い居酒屋に向かった。
煙草と焼き鳥の匂い。湿った空気。
誰かの笑い声と、古びた木のカウンター。
ここでは、誰の娘でも恋人でもない。
ただの「私」として、いられる気がした。
少し背筋を伸ばすだけで、世界と距離が取れた。
カウンターの隅に、男がひとり。
知らないはずの背中に、懐かしさが差し込む。
短冊メニューを眺める横顔は、
時間から逃げながら、誰かを待っているように見えた。
「作家さん、ですよね」
「昔はね。今は、ただの呑んだくれ」
乾いた声の奥に、少しだけ優しさが混じっていた。
「でも、まだ書いてるでしょう?」
「書かされてるんだ。過去の自分にね」
笑ったようで、泣いたようにも見えた。
触れてはいけない痛みに、指先がかすった気がした。
黒いワンピースに、赤い口紅。
見せたくてじゃない。
ただ――誰かに、見つけてほしかった。
夜の底で、心が小さく鳴った。
*
風俗を始めたのは、静かな反抗だった。
「誰かの娘」ではなく、「自分」として生きたかった。
一夜ごとに、見えない鎖をほどくように。
彼は裁かず、慰めず、ただ目を合わせた。
その静けさに、痛みがやわらいでいった。
初めて、誰かの沈黙に救われた気がした。
*
数週間後、文芸誌に彼の短編が載った。
登場人物は違うのに、明らかに「私」だった。
喫茶店で、指をカップの縁に沿わせながら言った。
「知らないところで、切り売りされてた気分です」
彼は息をのみ、目を伏せた。
「娘がいた。十四で事故にあって……あの日から、何も届かなくなった」
言葉が、喉で止まった。
彼の止まった時間と、私の痛みが、静かに重なった。
沈黙の中で、コーヒーの湯気だけが揺れていた。
*
あの店には、もう行かない。
彼の小説は光を集め、私は影に戻った。
それでも――ある夜、また店の前に立っていた。
ネオンが濡れた路面を揺らし、足元がにじむ。
「続きを、書いてください」
その瞬間、夜の底で、ペンの音が小さく灯った。
終わりと始まりは、いつも同じ場所で。
でも、ほんの少しだけ違う。
余白の中で、私の胸が、またそっと震えた。
書かれることを、もう恐れなかった。
書かれる女 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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