書かれる女

浅野じゅんぺい

書かれる女

その夜、何かが終わる気がした。

だから、あの安い居酒屋に向かった。


煙草と焼き鳥の匂い。湿った空気。

誰かの笑い声と、古びた木のカウンター。

ここでは、誰の娘でも恋人でもない。

ただの「私」として、いられる気がした。

少し背筋を伸ばすだけで、世界と距離が取れた。


カウンターの隅に、男がひとり。

知らないはずの背中に、懐かしさが差し込む。

短冊メニューを眺める横顔は、

時間から逃げながら、誰かを待っているように見えた。


「作家さん、ですよね」

「昔はね。今は、ただの呑んだくれ」

乾いた声の奥に、少しだけ優しさが混じっていた。


「でも、まだ書いてるでしょう?」

「書かされてるんだ。過去の自分にね」

笑ったようで、泣いたようにも見えた。

触れてはいけない痛みに、指先がかすった気がした。


黒いワンピースに、赤い口紅。

見せたくてじゃない。

ただ――誰かに、見つけてほしかった。

夜の底で、心が小さく鳴った。



風俗を始めたのは、静かな反抗だった。

「誰かの娘」ではなく、「自分」として生きたかった。

一夜ごとに、見えない鎖をほどくように。


彼は裁かず、慰めず、ただ目を合わせた。

その静けさに、痛みがやわらいでいった。

初めて、誰かの沈黙に救われた気がした。



数週間後、文芸誌に彼の短編が載った。

登場人物は違うのに、明らかに「私」だった。


喫茶店で、指をカップの縁に沿わせながら言った。

「知らないところで、切り売りされてた気分です」


彼は息をのみ、目を伏せた。

「娘がいた。十四で事故にあって……あの日から、何も届かなくなった」


言葉が、喉で止まった。

彼の止まった時間と、私の痛みが、静かに重なった。

沈黙の中で、コーヒーの湯気だけが揺れていた。



あの店には、もう行かない。

彼の小説は光を集め、私は影に戻った。

それでも――ある夜、また店の前に立っていた。

ネオンが濡れた路面を揺らし、足元がにじむ。


「続きを、書いてください」


その瞬間、夜の底で、ペンの音が小さく灯った。

終わりと始まりは、いつも同じ場所で。

でも、ほんの少しだけ違う。

余白の中で、私の胸が、またそっと震えた。

書かれることを、もう恐れなかった。













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書かれる女 浅野じゅんぺい @junpeynovel

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