徒然日記
茅河臨
第1話
先日、友人に誘われてある冊子に記事を寄稿した時、私は初めて人の目に触れる文章というものを書いた(まあ、その冊子というのも権力によって存在を抹消されてしまって、今ではその存在と内容を知る人は手足一対あれば数えられる程しかいないけれど)。そこに記した内容はあまりにも個人的であるから、この広い広いインターネッツの海に投げ捨てるのも怖いもので改めて掲載する気にはあまりならないし、私の優秀な友人達はリアルに充実している人種だからこんな場末(一応断っておくが比喩である)なサイトの底辺物語を見ることは億が一にも無いだろうが、身バレというのは恐ろしい。そんなこんなで初めて自分の文章を公の場に晒してから(遠い昔に駄作を電撃大賞に送りつけたことは黒歴史なのでノーカウントである)、元々自らの内に秘めていた創造欲の抑えが効かなくなったのか、それとも”本物”である友人達への”凡下”である私の拙い抵抗の現れなのか、それともそれとも現実逃避なのか、またはその全てなのか、私の書いたものを誰かに見てほしいみたいだ。
だから気の赴くままに私の思うことを書いてみようと思う。
ところで諸君はこの記事を何だと捉えるだろうか。多分、随筆文、具体的には日記だと考えてるだろう(まあ、題名からしてそんなことは一目瞭然なのだろうが)。小説投稿サイトに随筆文を投稿するのはどうなのかと、私は思ったりしているのだが、よく考えてみよう。ここで突然だが日本三代随筆を知っているだろうか。兼好法師の『徒然草』(ちなみに、最近の研究だと神道で有名な吉田家と兼好法師は血縁では無いとかかんとか耳にした気もする)、清少納言の『平安版Twitter』、鴨長明の『方丈記』である。この現代、これらの文章を随筆、もしくは日記と読む人がいるだろうか。いや、いない。れっきとした文学作品の扱いを受けているのではないか。それに加えて私小説はどうだろう。私の個人的な意見だが、あんなもの作家のその変態的な自身の醜態・黒歴史を赤裸々に語っている随筆文じゃあないか。
つまりはこの文章もいつかは私小説として扱われる時が来るのだろうよ。
(メタい話をすればこの文章のタグがエッセイやらノンフィクションになってないことを考えてみてほしい。)
徒然日記 茅河臨 @kayakawarin
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