【5】研究所にて

 ――これは、その不死性を他者に解析されることとなったナユタの話。



 遠く遠く時を隔てた時代。

 世界は斜陽へと舞台を移し、生物の命数はつきかけていた。

 星という枠組みを抜け出し宇宙にまで版図を拡げんとしていたはずの人類は、しかし進歩が滅びのスピードに追いつくことが出来なかったのだ。


『おはよう、ナユタ君。今日も調子が良さそうね』

「おはよ、ポーラさん。おかげさまで元気だよ」

 三重の厚い扉によって外界と隔たれた狭い部屋。ブザー音とともに二番目までの扉をくぐって入室してきた女性研究員は、最後のガラス扉越しに中に居たナユタに気軽に話しかけてきた。

 年の頃は二十代、赤みがかった巻き毛にそばかすに眼鏡、白衣の下は野暮ったいブラウスにスカートという典型的な研究者スタイルをしたポーラというその女性は、朝食のトレーを室内に通じるボックスに入れた後、小脇に抱えていた端末を操作し、眼鏡を直してから覗き込む。

『今日は……ええと、基本のバイタルチェック以外はスケジュール無しよ、おめでとう』

「あはは、ありがとう。それじゃ、頼んでた本を読みたいんだけど、届いてるかな?」

『どうかしら。あとでヘンリに訊いてみて。10時に採血だから。そこで少し大事な話もあるわ。じゃあ、ごゆっくり』

「あーい」

 それだけを言って、ポーラは軽い会釈をしてから部屋を出て行った。

 ドアが閉まり気密性が戻った音までを確認したナユタは貼り付けていた笑顔をゆっくりと解き、ひらひらと振っていた手を下ろす。そして大きく息をつき、扉の脇のボックスを開き、朝食に目をやる。

 バター付きのパンにポタージュスープにサラダにヨーグルト。

 汚染された海面の上昇により農地などろくに確保できなくなったこのご時世においてはなかなかに貴重な献立だった。

 幾重もの扉で外と隔てられた白い密室。それは、外気を内側に呼び込まないという目的以上に、ナユタをけして外に出させない檻の役割も果たしていた。

 ここは、ヘンドリクセン研究所。山脈の峰の合間、海抜2千メートルに位置する清廉な環境に設置された最後の希望だった。

 ついに星の保持していた資源を使い果たした人類は、代替エネルギーを模索し続けるものの緩やかに滅びへと舵を切っていった。

 住環境を制御できず気候に翻弄され、十分なエネルギーを確保できず食料生産も衰え――善意はすり切れ、人のこころを含めた世界のすべてが荒み、かすれていった。食料の奪い合いで個人どころか国同士までもが争い、残された貴重な土地すら汚染し、ヒトという種の減少を加速させていった。

 そんな中で人類再興の崇高な目的のもとに集った数十人の優秀な人材が、残された僅かな清浄な環境の中で一縷の望みを託してこの研究所にて未来への模索を続けているところだった。だが魔法のように全てを一瞬で解決できる術などあるはずもなく、滅びを目の当たりにしながら使命感だけを柱として折れそうな心を支えているというのが現状でもあった。

「……さて」

 のびをしてから朝食の盆を載せた小さな卓を引き寄せ、ベッドにて食事にありつく。メニューとしては申し分ないそれらは、しかし隔絶された窓の無いこの部屋にて一人ぼっちで食べていてはひどく味気なかった。

「バイタルチェックだけなら……痛いのは4回、かな」

 静まり帰った白い空間で自嘲ぎみに嘯きながら、ナユタはサラダの葉野菜にフォークを突き刺した。



 代替エネルギーの開発、穀物の品種改良、広がりゆく疫病への対応。指針も手がかりも無くまさに暗中模索といったていで毎日を成果無く終えているチームの多い中、ポーラをはじめとするチームが抱えている切り札は異質なものだった。

「おはよう、ナユタ。今日は新入りを紹介するよ」

 午前十時きっかりに、ヘンリが警備員を伴って医療器具を載せたカートを押して入室してきた。大柄な体躯に鷲鼻でいささか険しい顔をした、どこかアウトローのような雰囲気のあるヘンリだったが、研究に対しては真摯で、ナユタへの対応も鷹揚なものだった。ポーラの夫でもあり、閉塞的なこの研究所において互いにしっかりと支え合い心を保っているカップルだった。

 ヘンリに声をかけられ、その大柄な背に隠れていた人物が、ゆっくりと姿を現す。

「……どうも」

 吹けば簡単に消えるろうそく。それが、第一印象だった。

 細身の青年だった。黒髪を後ろで縛っており、神経質そうな顔立ちをしている。眼下が窪んでおり、ぎょろりと瞳が動くと人間離れした不気味さすらあった。

「マルクだ。来月からこのチームの責任者になる」

「へ?」

「……どうも。噂はかねがね聞いていました。あなたを研究できるのが楽しみだ」

「あ、よろしく。じゃなくて……ポーラは?」

 とりあえず立ち上がり青年と握手を交わすナユタだったが、さらりと告げられた事項に首を傾げる。

 すると横のヘンリは苦笑し、マルクという男を憚りつつもその低い声で悲しい現実を口にした。

「……今月いっぱいで、俺とポーラはここを出ることになった。もともと、成果が出せなかったのもあって降格人事が決まっていたんだ。それに……」

「それに?」

 ヘンリはどこか照れた様子で頭を掻く。

「お腹に、こどもが」

「おぉ! やっぱりかあ~おめでとう」

 青年の青白い手をなおざりに解き、ナユタはヘンリの手を握る。

「ああ。ありがとう。これを機にポーラの実家の方へ降りようと思っているんだ。まだ麦の育つ、良いところらしい」

「そうかぁ。元気な赤ちゃんが生まれることを願ってるよ」

「……ありがとう」

 にこにこと笑うナユタに、ヘンリはどこか気まずそうに笑顔を返す。それを、興味なさそうな目でマルクが左顧していた。

 そして挨拶を一通り終えた後、ナユタは道具を展開し、問診の末にナユタの血液採取を始める。

「今日は昨日投与した薬の影響を調べるだけだ。どこかおかしいところは?」

「無いよ。いつも通り。昨日きみの前で『リバース』したきりだよ」

「……流石」

 感嘆とも悲嘆とも取れる息をついたヘンリが、手際よく血を抜いていく。そして数本の採血管を赤黒いナユタの血で満たしたヘンリはそれを掲げながら吐息混じりに呟く。

「一応検査にかけるが……何もなさそうだな。いつも通りの綺麗な数値が出そうだ。数ミリグラムで即死、運良く生き長らえても重篤な後遺症ってレベルなんだけどな」

「確かに即死したよ」

「……まあね」

 こともなげに死んだと告げると、ヘンリはどこか疲れたような顔をする。猛毒を投与した張本人であるにも関わらずだ。

 ここでは、特異な体質であるナユタがいったん死に万全の状態に戻ることを『リバース』と表現していた。

 険しい環境で生きて行かざるを得なくなった人類のために――。

 どのような環境でも生き長らえる特異体質のナユタは人間に紛れて生活していたものの、不意の事故により発見し保護され、ポーラやヘンリをはじめとする研究者達により、人道にもとる実験を繰り返し行わされていたのだった。

「そうそう。ご所望の本だ」

「お、ありがとう」

 採決を終えたヘンリがカートを押して退出する直前、その下に置いていた紙の包みを拾い、ナユタに手渡してきた。

 中身は小説本だったが、ナユタが先日からほしがりわざわざ取り寄せてもらった品だった。既に紙の書籍の文化は廃れつつある。ナユタが指の腹でざらりとした紙の感触を確かめていると、ヘンリはその様子を見やってから、カートを掴んで踵を返した。

「それじゃ、あとの検査は午後になるから、それでも読んでゆっくりしてくれ」

「分かった。また後で」

 白衣が翻った瞬間、腰のホルスターに収められたハンドガンがちらりと姿を現す。その後ろに付き従う警備員に至ってはさらに物騒な銃を携えている。

 一応は人間として扱われているものの、ナユタはあくまで観察対象だった。逃亡の防止のため、細心の注意を払うよう規定されていることが窺えた。

 ヘンリが出た後、マルクが立ち止まり、首を巡らせて肩越しにナユタを見ていた。

「……うん?」

 目が合うと、生気の乏しい青年は青みがかった唇を歪めながら嗤う。

「これから、よろしく」

「……ああ、こちらこそ」

 ポーラやヘンリの親しいながらも一線を隔てた態度とはまた違う、底知れない思惑を感じさせる昏い眼差しだった。

 警備員に促されて部屋を辞したマルクの背を見送りながら、ナユタは今後自分の身に降りかかる実験という名の加虐を思い、肩を竦めた。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 残念なことに、ナユタの想像は的中した。

 短い引き継ぎ期間の後、ポーラ・ヘンリに実験動物なりに別れを告げた後、ナユタの身柄はマルクの管理下に置かれることとなった。

 数年前から白い部屋に隔離され続けているナユタは外界の状況をあまり知らなかったものの、マルクによる方針変更によってそれらを多少はうかがい知ることができた。

 かつて百億に届きかけた星の人口は、初期の食糧難による激減を経て、現在はゆるやかに推移を続けている。今は十数億と言われているものの、その数値に確固とした根拠は無いとのことだった。

 疲弊しきった国々が寄り添い分け合い滅びまでの道をできるだけゆっくりと歩もうとしている中、なけなしの資材をかき集め、虎の子の発電設備のエネルギーを回して何とか運営しているのがこのヘンドリクセン研究所だったのだ。

「――どうしてそんなことを君に話すのかというと、多少の覚悟をして欲しくてね」

 二年ぶりにマルクにより部屋から出されたナユタは、警備員を伴わずに別の研究棟へと連れてこられていた。流石に手は自由が利かないよう分厚い金属製の枷でひとまとめにされている。

 清潔を通り越して無機的な印象を持つ薄暗い廊下。二人の足音が響く。

 マルクはポーラ以上に外見に頓着しないようで、汚れた白衣の下は何日着ているか分からないシャツとスラックスを纏っている。一方のナユタに至ってはモスグリーンの術着にスリッパのままだった。

 数年間ろくな運動をしていないナユタではあったが、毎日のように死んで『リバース』して万全の状態に戻っているため、筋肉は衰えておらず不自由なく歩くことができた。

「ここも、かつては研究が行われていた場所だった。今は人員削減で撤収を余儀なくされたけれどね」

 マルクは喋らせると思いの外饒舌な男だった。だがナユタが想像したとおりの性格であることは外れはしなかった。今日も実のところ、朝一番から手術台に乗せられ心臓を抉られ『リバース』している。他の研究員が戦いている中、マルクだけは狂気にも見える強い光を宿した目でナユタの死と復活をつぶさに観察していた。

「……ほら、ついた」

 そう言って、廊下の奥の部屋へと通される。暗い部屋に一歩を踏み入れると、冷ややかな空気が身体を包む。

 マルクが扉の側の照明のスイッチを入れる。ヴン、と鈍い音がした後、白々しい灯りに照らされ、室内の全容が明らかになった。

「これが何だか分かるか?」

「……鳥?」

 そこには、ナユタの部屋を思わせる、分厚いガラスで隔てられた小部屋があった。覗き込むと真っ白な床に小さな赤いものが落ちているのが見える。まるで落鳥しているように床に力なく転がっているため、鳥と認識するのすら時間がかかった。時間をかけて目をこらして見ていると、何とかその小さな棟が上下しているのが窺えた。

 頭と羽根は黒いが、喉から腹にかけては朱色に近い赤をしている。見たことの無い鳥だった。

「パッセンジャーという名のハトだ。見ていたまえ」

 そう言うと、マルクは横にあったコンソールを操作する。程なくして部屋の上部にあった管から白い煙が吹き出し、降り注ぐ。

「即効性の毒ガスだ。白く着色している」

「なっ……」

 ナユタが愕然と見ている前で、煙のようなそれは瞬く間に部屋に満ちる。霞がかった中でハトがもがいているのが見え、ナユタは思わず一歩を退く。

「マルク、何を……」

「見ていろと言った」

 冷徹な声でそう言うマルク。やがてハトは床に溶けるように拡がってくずおれる。さらにセンサーで完全な死亡を確認した後、マルクは再びコンソールを操作し、ガスを排出していった。

 やがて視界はクリアになり、ガスが完全に無くなった。

 マルクの意図を掴みかねていたナユタが彼とハトの死骸を交互に見やっていると、やがてマルクがとんとんとガラスを指す。

「ほら、始まった」

「――!!」

 その指の先では――力尽きたはずのハトが、何事も無かったかのように起き上がっていた。

 羽根の色は先ほどよりも艶やかで、足取りもしっかりしている。鳥特有の軽やかな動きで、とことこと床を歩き回っていた。やがて羽を打って舞い上がり、上部からつるしてある止まり木に飛び移った。

「…………、『リバース』?」

「そうだ」

 ナユタの呆然とした呟きに、マルクがしっかりと是と応えた。そして研究者特有の冷ややかな眼差しをして、羽繕いを始めた生物を見下ろしている。

「これは、数百年前に絶滅したパッセンジャーという種の、唯一の生き残りだ。

 十七年前、北大陸の汚染区域の調査で発見された。汚泥で満ちた死の海に面した島で、唯一飛び回っていたのがこの個体だったそうだ。しかも、生と死を――『リバース』を繰り返しながら愚かにも飛び続けようとしていたとのことだ」

 マルクはちらりと横目でナユタを見やってきた。

「緊急保護の後、このヘンドリクセンに移送され、研究が始まった。何度でも生き返る奇跡の個体。当初の期待は、それはもう高かっただろうな。原理を解明しあらゆる分野に応用するつもりだったろう。だが――」

 マルクは再びコンソールに手を伸ばす。その意図を察したナユタが止めようとするも間に合わず、再びハトの部屋が白い毒ガスで満ちた。

「やめろ、マルク……」

 ハトの苦しみを思い、自分の与えられている苦痛を思い出し、ナユタは不自由な両手でマルクの腕を強く掴む。だが細身で青白い男は、予想に反してびくともしなかった。

「どうせ、生き返る」

「…………」

 何も言えなくなってしまったナユタの目の前で、ガスを抜いた後、ハトは再び『リバース』をする。時間が巻き戻ったかのように起き上がり、部屋中をとことこと愛嬌すら感じさせる足取りで歩き始めた。

「インテリジェントデザインという学説を知っているか? 神の手を持った何者かが生物の進化をコーディネートしているというものだ」

「いや……」

「僕も信じているわけではないが、このハトや君を見ていると少しだけ信念が揺らぐ。

 不死の存在。傷つけることはできるものの、いったん死ねばすぐさま超自然的な現象が起こり従前の状態へと巻き戻ったかのような状態まで回復する個体――僕は個人的にリザーバーと呼ぶことにしている」

「リザーバー?」

「保存体、といったところだろうか。死なず、老いず、ただ種のあるべき形態を保存するための個体。このパッセンジャーというハトは、とうに絶滅している。唯一残っているこの個体は、研究しようにも不死で『リバース』が起きれば君のと同じようにサンプルは呆気なくロストする。おかげでこの個体に関する研究自体は進んだが、応用など何もできないまま予算が縮小され、今に至る。

 今となっては放鳥することもできず餌をやることもせず、数日おきに餓死させながら『リバース』させ、まさに飼い殺し状態という有様だ」

「……餓死なんて」

 ナユタにも幾度か餓死の経験がある。記憶だけは持ち越すため、死そのものは無くなったとしても当時の感覚だけは残っている。怖気を覚えて思わず首を横に振ると、マルクが小さく鼻で笑った。

「君を見るに、おそらくは他の種にもこういった不死の個体がいるのだろう。現存種ならば紛れることができだろうが、絶滅種であれば――たった一個体で永遠に生き残って、何になるのだろうな」

 その言葉は、ハトではなくナユタに向けられているようだった。

 数年前に保護されこの研究所に連れてこられたナユタ。当初はそれこそあらゆる実験を繰り広げ臓器を含めてサンプルを採取され尽くされたが、『リバース』が起きるとそれらは跡形も無く消失するため、結局ろくな研究成果は出ずじまいになっていた。

 今となっては研究員が思いついた実験を行うだけで持て余し続けているようなものだったのだ。餌を与えられている分だけ、ハトよりも幾分かましな待遇ではあったが、いずれにせよ未来の無いことだけは確かだった。

 人類が滅びつつある中、ただ一人だけ、生を確約された存在。恩恵を受けることもできず、ただそれが目の前でのうのうと暮らしているのを、研究員達は何を思って見ているのだろうか。ポーラとヘンリの抱いていた感情は、本当はどんなものだったのだろうか。

 立ち尽くしていたナユタに、マルクが向き直る。いつになく強い眼差しをして、彼は言った。

「ナユタ。今日これを見せたのは、君に覚悟をして欲しかったからだ」

「覚悟……」

「悪いが、僕にも残された時間は少ない。既に予算は縮小され、研究費を供出する政府も減り続けている。ヘンドリクセンは、いずれ、閉ざされる。

 その前に、少しでも生命のメカニズムを解明したい。たとえ今すぐに形にならずとも、いつかそれを使って命を繋ぐことができるように。このハトのように……君も、それぞれの種でたった一個体ずつが残る博物館のような星にしたくはないだろう。

 ――僕に協力しろ、ナユタ」

 そう言って、手を差し出される。青白く骨張ったそれは、しかしとてつもない強さに満ちているようだった。

「……」

 自分の身に降りかかるであろう苦痛を思う。おそらくは今まで以上の嗜虐的な実験を行われる、これはその予告でもあるのだろう。

 それでも――

「分かった」

 ナユタは枷で括られた腕をもたげ、その手を握り返す。ぎょろりとした目に歓喜の色が宿る。

「ありがとう」

 握ったその手は温かかった。けして、人類の未来のためという崇高な目的だけで無いとしても、どんな思惑があっても、握ることのできる手があることが、嬉しかった。

 ナユタは――人間のことが、好きだったのだ。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 そして、マルク主導による、ナユタを対象とするさらなる研究が始まった。

 それは凄惨で凄絶で、多大な痛みを伴った。

 ときには死に、痛みの記憶だけを残して巻き戻された。ときには死を食い止められ、殺して欲しいと喚きながらも聞き入れられず、臓物を一つまた一つと持ち去られ、身体をバラバラにされた。

 そうして幾人ものスタッフが惨状を目の当たりにして心を折られ研究所を去り、何とか持ちこたえた人員だけでナユタの身体を細切れにしながら実験を進めたところ、いくつかの新たな事実が判明していった。

「パッセンジャーピジョンは小さすぎるし痛みに弱い。すぐに死んでしまって『リバース』してしまうので分からなかったが、君のおかげで保存体についての大まかな概要が明らかになってきた」

 鮮血に染まった手術台。その横に平然と立つマルクは落ち着き払った声でそう言った。

「まず、保存体を保存体たらしめている拠り所について」

 そう言って、マルクは傍らにある機械を示す。彼の身長の半分ほどの高さをしたそれは、何本もの管が複雑に入り混じり、まるで絡まった毛糸のようになっている。

「それは、ここ。左心房にあった。内壁に寄生し、ここの収縮運動が停止した瞬間に作動する。そして大動脈を介して全身に治癒――いや、巻き戻しだな――に必要な物質を供給し、元通りの身体を作り上げる。

 ここに質量保存の法則など存在しない。ただ体を組み直すのに必要な量の細胞を生産し供給する器官のようなものだ」

 マルクはとんとんと指先で機械をつつく。入り組んだ管の中央には円筒状の容器がある。全ての管はそこに繋がっており、その中をせわしなく何かが流れ続けているのだけが窺えた。センサーランプにはチカチカと規則的に点滅している。

「そして、リバースが始まった瞬間、本体から切り離されていた存在は全て砂と化して消失する。リバースをしない限りは人間の器官と変わらないはずのそれらは、左心房の……そうだな、ブラックボックスとでも呼んでしまおうか。このブラックボックスが働き出した瞬間に不思議と消え去ってしまう。この変質も観察しているものの、解明には至っていない。

 ――科学的根拠を探すのは、もう諦めた。メカニズムの把握が最優先だったからな。

 さて。では、ここで問題だ。ナユタ」

 そしてマルクはくるりと振り返る。手術台に横たわるナユタへと。意思の疎通をさせるために最低限の麻酔しか投与されていない哀れな実験体へと。

「これからこの人工心臓を停止させ、君を死に至らしめた場合、ブラックボックスはどうなるんだろうな? とても、楽しみだ」

 狂気を戴いた研究者に見下ろされるナユタ。気道に人工呼吸の挿管をされており返事をすることはできず、ただ瞳孔の保つかぎり、マルクを見上げ睨み付けることしかできなかった。

 ――その胸には機械が繋がれている。人工心臓だった。

 心臓が止まったら作動するブラックボックス。マルクは、それを騙しながら、けして鼓動が止まらないように細心の注意を払ってナユタから摘出し、人工血液を循環させる機械へと移し替えたのだ。

 そしてナユタにはその替わりに人工心臓を繋ぎ、延命を続けさせている。

「さて、試してみよう」

 マルクがベッドを回り込み、反対側になった人工心臓の装置に手を伸ばす。

 規則的に動き血液を強制的に循環させているいくつかのスイッチを順に切ってから、最後の一つ、主電源に手を伸ばす。

「さようならだったら、済まないね」

 申し訳なさなど微塵も感じさせない声でそう言ったマルクの目は、いつも以上にぎょろりと光っていた。

 パチン、と音を立ててスイッチが落とされる。やがて麻痺しているはずの全身が酷く冷え、視界が狭まり――ナユタの意識は闇に沈み込むように消失していった。


 

 だがそれは、結局だたの『リバース』に終わった。

 意識を取り戻したナユタには死ぬ直前までの記憶があった。傍らには懸命にメモを取り独り言を繰り返しているマルクが立っていた。

「――ッ!!」

 喉に強烈な違和感を覚え、ナユタは咳き込みながら起き上がる。そして自分の喉に繋がっている管を無理矢理引き抜き、投げ捨てた。

「は、ぁ、……っ」

 気道の挿管を無理矢理引き抜いたため、口から喉の奥までが酷く痛み、血の味がした。いっそ、もう一度リバースしてしまった方が楽かも知れない。一瞬そんな考えが頭をよぎる。

 そうして何とか自発呼吸をするナユタの横で、マルクは真っ黒になるまで書き連ねられたメモを片手に唸っている。

「実験は成功したはずだ……なぜ、こちらが復帰したのだ……? 

 まだ、僕の知らない何かがあるのか……?」

「マルク」

 かすれる声でナユタが呼びかけると、マルクがはっとして顔を上げた。

「……失敗だ」

 そう言って、首を横に振るマルク。

 失敗というのが、この手術台の上に居るナユタがリバースしてしまったことに対する評価であることを察し、ナユタは思わず顔を顰める。

 彼の推論では摘出した心臓の方に何かしらの働きがあるはずだったのだろう。だが、実際にはブラックボックスを含む心臓を摘出されていたナユタの方に各器官が蘇り、リバースしたのだ。

 胸に手を当てると、そこには確かな心臓の鼓動があった。逆に、左方を見やると摘出した心臓を動かしていた円筒状の機械が異常を訴え赤いランプを点灯させている。おそらくは中にあったはずのナユタの心臓が消失したのだろう。

「何が……何が、足りなかったというんだ……」

 術衣の上から頭をかきむしるマルク。その目は焦点が定まっておらず、どこか虚空を見ているようだった。

 痩躯を揺らし慟哭するマルクを、ナユタは気おされながら見上げることしかできなかった。

 どれほどの時をそのまま過ごしただろうか。掻きむしりすぎて指に血を滲ませたマルクが、やがてゆっくりと手を下ろす。

 そして、ナユタに向き直る。

「次は……次は、脳だ」

 その目には、確かな狂気の光があった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 頭の天辺から足の先まで、あらゆる臓器を、器官を剥ぎ取られた。まさに死すら生ぬるい苦痛を与えられ続けた。正気を失うこともできず、ただ痛みの記憶だけを承継しながら、ナユタは一人の哀れな科学者によって、人類の未来のためという大義名分の元に、研究され続けた。

 そうして、一年ほどの月日が流れた。

 ナユタは毎日死に続け、リバースし続けた。それを目の当たりにした研究者達は相次いで心をおかしくして去って行った。いつしかマルクの行動の主旨は、奇妙な不死者の解明から、不死者を何とかして自分の手で殺めることに移っていった。

 冴えた頭脳をもって考案された殺害計画――もとい実験を行ってもリバースし元通りの姿に戻ったときなど、どうして死なないのだ、と半狂乱のマルクに詰め寄られたことすらあった。

 人類の衰退を反映するかのように、ヘンドリクセン研究所の人員もすり減っていった。いまやマルクの研究班に残っているのは二人だけ。マルクと、もう一人の男性助手のみ。ただしその一人も既に精神の限界が近付いており、研究をしようにも機器の準備や後片付けなどに手が回らなくなりつつあった。

 食事もいつしか簡素になり、今となっては必要な栄養だけを詰めた固形の糧食となった。その衰退を見ていると、ナユタの脳裏には今なお餓死とリバースを続けているであろう哀れなハトのことがよぎる。いつかはそうなるのではないかという危惧が、常にナユタの意識の片隅に陣取るようになっていた。

 そうして狂気を使命感と言い換えた月日を過ごすうち、ついに終わりを告げる時が、懸念が現実になる日が訪れた。

 

 

 その日は、朝から食事の供給が来なかった。

 数日前からマルク達の様子がおかしかったため、密かに抱いていた予感があった。それがついに現実と化したのだと、ナユタは思った。

 白い部屋。数年間を過ごした慣れ親しんだ我が家。毎日必ず訪れていたはずの第二扉までの使者は、いくら待っても姿を現さなかった。ナユタの部屋に時計は無い。だが日照時間に合わせて照明の明るさが自動的に変化するようになっている。そんな中でなすすべ無く、暗くなるまでをただ無為に過ごした後、ナユタは空になった腹をさすりながら眠りについた。

 第二扉がスライドして、憔悴しきった青年が幽鬼のように入室してきたのは、二日が過ぎた後のことだった。

 背を丸めて空腹をやり過ごしていたナユタが顔を上げると、不健康そうな顔をさらに青くやつれさせたマルクが、ゆらゆらと進んだ末にドアのガラスにもたれ掛かった。

『……おしまいだ』

 スピーカー越しの、弱り切った声。

 ナユタが立ち上がりガラス越しに覗き込むと、マルクは額をゴツンゴツンとぶつけ、嘆き以上に狂気を露わにし始める。窪んだ眼窩に据わった目は、既に焦点が定かでないようだった。

「マルク。どうしたんだ」

『……今日の24時付でぼくのチームは解散、ヘンドリクセンはCS計画に移行する』

「……解散、か。でも、CS計画って?」

『そう。来たるべき日の、この世界の終焉の先に来たる世界で人間が再興するために優秀な人材や指導者を人工冬眠させるなんていう、愚の骨頂の計画だ』

「……っ」

 マルクのぎょろりとした目が見開かれる。大きな黒目に光は乏しく、どこか濁っているようにすら見えた。

『……お偉いさん達は、ついに諦めた……いや、認めたんだ、もうこの世界の衰退が止められないってな。

 君は知らないだろうが、外はもう手の施しようがない状況だ。このあたりは元々気流を計算して影響の少ないところを選んでいるからましだけど……赤子は産声すら上げずに死にながら生まれ、その中でも何とか無事に生まれた子は苦しみながら死ぬ有様。空が青色だったことを知る子供はもはやいない。毒の雨におびえて外になど出ない。海は汚染されきって今や滅びの象徴だ。世界は、もうすぐ終わる』

 狂気のままに饒舌に語るマルク。ナユタはそんな様子を固唾を呑んで見守ることしかできなかった。かつて自分を担当していた研究者の夫婦の赤子は無事に生まれたのだろうか。

 髪を振り乱し、額をガラスにゴツゴツとぶつけながら、マルクは続ける。

『先週一瞬停電したのは覚えているか? あのとき、ここが頼りにしていた発電衛星が、一基墜とされた。人工冬眠で破滅をやり過ごそうとした富豪が個人的に所有していたロケットで宇宙に逃げようとして、衛星軌道に侵入して見事衝突したんだとさ。

 残された発電ユニットは二基。これも、結局は人工冬眠なんかのために使われてしまう。皮肉なもんだ。

 ……なあ、ナユタ。人間は愚かだな』

 急に話を向けられたナユタが返事できずにいると、それを悪し様に受け取ったらしいマルクが口を歪めて嗤う。

『おっと、君はそんなことせずとも生き残ることができるんだったな。高みの見物かあ、羨ましいなあ?

 なあ、どうやったら君を殺せるんだ? 何で、バラバラにしても燃やしても溶かしても生きているんだ? おかしいだろう、そんな人間が居ても何の役にも立たずに世界は滅びるっていうのに』

「…………」

 スピーカー越しの声は、妙な抑揚があった。極度の興奮状態なのか、瞳孔は開き、ヘーゼルの瞳はせわしなく動いている。

『君を、殺してみたかったなあ』

 まるで旅行先で食べ損ねた名物を惜しむといった程度の軽さで、哀れな研究者は言った。そして前髪を掻き上げた後、どこか吹っ切れたような顔をする。

『せめて、僕と同じくらいの絶望を味わえよ』

「……どういうことだ」

『実はそのCS計画なんだが、優秀な人間の枠はともかく、指導者の枠の椅子の取り合いが酷くてね。暗殺に謀殺に、まるで大掃除だ。それで、政治家だの指導者だのがプツプツと消えていって、余計に人類は滅亡への歩みを加速させている。皮肉だな。

 ――ともかく、それでもう君のことを知る政治家も居なくなってしまった。最後の一人、このヘンドリクセンを支援していた翁が先週転落死した。それで枠が決まってようやくCS計画が本格的に始動したというわけだ。

 この意味、分かるか? なあ、ナユタ』

「!」

 ナユタの反応が面白いのか、マルクはよりいっそうの笑みを浮かべ、宣言した。

『君の存在を知っているのは、そしてここに君がいることを知っているのは、今となっては僕だけだ』

 そして、ドアの横に手を伸ばし、パネルを操作し始める。

「マルク、何を……」

『前にパッセンジャーピジョンのことで心を痛めていたな? 自分がそうなるのが怖いという気持ちがあったんだろう?』

 次の瞬間、ブツンと音がしてナユタの部屋の照明が掻き消える。部屋が一気に暗くなり、第二扉と第三扉の間の小部屋からのガラス越しの灯りだけが漏れ入ってくる。

 その光を遮るように、マルクが立つ。光に縁取られたシルエットは、まるでおとぎ話の道化の影絵のようだった。

「マルク!」

 咄嗟に扉に手を伸ばす。だが内側にはとっかかりのひとつも無い。なすすべ無く扉を叩くと、ついに狂気に心を全て委ねてしまった科学者は、肩をふるわせて嗤っていた。髪を振り乱し、影がまるで悪鬼のように揺らぐ。

 背後に迫る滅びを間近に感じながら不死のナユタを目の当たりにして心をおかしくして去って行く者が多い中、マルクだけは多少歪んではいるもののナユタに嗜虐することにより精神の均衡を保っているものだとナユタは思っていた。だが、今になってようやく真相を悟る。

 今までけして諦めずに誰よりもナユタの恒久生を否定したがっていたマルクこそ、真にこころを腐食され続けていた人物だったのだ。

 ひとしきり高笑いをした後、疲れたのか項垂れて肩で息をするマルク。怜悧な表情が戻ったかのように見えたが、直後のその印象は掻き消える。

『――永遠に、死に続けろ』

 ナユタがなすすべ無くドアを叩く前で、ガラスの向こうのマルクは扉の横に手を伸ばす。

 そうして、第二扉との音声が切られた。マルクが薄い唇を動かして何やら言っているが、室内のスピーカーからは何の音も聞こえてこなかった。

「マルク……」

 そして、マルクが背を向ける。しわくちゃの白衣が翻る。

 第二扉を出て行くマルクは、最後に僅かに首を巡らせ、肩越しにナユタを見やってきた。

『――――』

 音は、聞こえなかった。だが、その唇の動きで、何を言ったかはおおよそ察することができた。

 そして第二扉が閉ざされる。数秒後、そこの照明も落とされ、闇が訪れる。

「…………」

 嘆息しながら、ずるずると地べたに座り込むナユタ。

 かすかな駆動音は続いており、空調システムはまだ生きていることが窺えた。ヘンドリクセンには自前の陽光発電設備もあるため、当面はその恩恵を受けることができそうだった。だがマルクの言によると空が晴れることが少なくなってきているということだったので、いつかはそれも終わり、この密室が完全に気密化され、酸欠で死に、リバースしてすぐに死ぬという事態すら起こりうる可能性もあるだろう。

 先ほどまでと変わらないはずなのに、まるで黒い水で満たされたかのような空間が目の前にある。自分の手すら見えず、目がおかしくなっていないことを確認しようと指で触れようにも距離感が分からず失敗するていたらくだった。

「永遠……」

 呟く声が、闇に吸い込まれる。

 死への恐怖は無い。だが、不死への恐怖はある。

 マルクの見立ては的確だった。サンプルとして捕えられたパッセンジャーピジョンが永遠に生と死を繰り返す様が、怖かった。

 これから、自分もそうなるのだ。永遠に。

 内側からではけして開けられない扉。さらに外部からの侵入も防ぐ堅固な扉がもう二つ。

 誰にも知られない存在が、誰にも到達できない場所で、死に続ける。なんと、孤独なのだろう。

「……」

 思い出したように、腹が鳴った。考えてみれば既に三日も食事をしていない。指先が震え、力が抜けていく。乾きと飢えに耐えきれず、まるで押し潰されるかのように、ナユタはその場に溶けるように横になる。

 目を瞑る。喉までせり上がってきた渇望を満たす術など何も無く、ナユタはただじっと佇む。

 空調システムの低い駆動音だけが僅かに聞こえる中、不意に、マルクの声が耳に蘇る。

 ――きみが、うらやましい。

 それが、マルクがこの場を去る最後の瞬間に声なき声で告げられた言葉だった。

 どこかつかみ所の無い男だった。嗜虐性だけが本質ではないのだろうとは思っていた。きっと、音声を切った後のあの言葉こそが、彼の魂からの本音だったのだろう。そのときのマルクは、研究中によく見せていた狂気ではなく――静かな怒りを秘めたような、強い眼差しをしていた。

 ナユタはただ力を抜く。麻痺するかのように、優しい眠気が訪れる。

 これから起こりうる永遠の輪廻を考えないようにしながら、ナユタは人間としての最後の眠りに落ちていった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 飢える、餓死する、リバース。飢える、餓死する、リバース。闇の中、そんな不毛きわまりないループを、何度過ごしただろうか。

 記憶だけは継承されるため、途中までは死の回数を数えた。だがそれもいつしか飽き、ただ無機物のようにじっと、何も考えないままでナユタは短い生を過ごし、死んでいった。

 身体はけして死なない。死んでも元通りに健康な状態で蘇る。だが魂は着実に摩耗していった。

「なあ、マルク。実は、一つだけ言ってなかったことがあるんだ」

 独り言が増えた。知己の名を片っ端から呼び、闇の中に呼びかけた。

「俺、死ぬこともできるんだ。最後まで言わないで、ごめん」

 懺悔のように。贖罪のように。その言葉は生まれ続け、そして闇に呑まれ続けた。

「ポーラはさ、二百年前の絵に俺が描かれてたって言ってただろ。だから俺が不老不死だと確信してた。でも、違うんだ。あれは、多分俺の父親。父さんだ」

 寝台がどこにあるかも分からない。ただ床に大の字に寝そべり、永劫を過ごす。

「生殖行為をしたら、俺の不死の根源――ブラックボックスは相手の女性に移る。妊娠中は、その母親が不死になる。で、子供が生まれたら、ブラックボックスはその子供へ。そうやって、世代交代ができるんだ。俺の父さんは、母さんにブラックボックスを渡してから、死んだって聞いてる。

 ずっと、隠しててごめん。でも、教えたらきっと悪用するだろうから……」

 ナユタという名と、その不死性は一個体に与えられ譲渡不能なものではなかった。種族に混じり、生殖を繰り返し、秘やかに継いでいく特性だった。それは科学的な根拠などあるわけではないが、代々のナユタに本能的に知らされている事実だった。

 研究員達がそれに気づかなかったのには、いくつか理由があった。

 まず二百年前の肖像画に描かれているナユタと、今ここにいるナユタという個体がうり二つであったため、同個体と認識され、生殖の必要なくただ一人で生きつづける存在だと観測されたこと。

 次に、ポーラとヘンリは夫婦であり、いのちを作るという行為にまでは実験を拡げないという人間らしい良識を持ち合わせていたこと。

 最後に――マルクが、恋愛感情による籠絡からの逃亡などを危惧したのか、ナユタに女性職員を近付けようとしなかったこと。もし戯れにでもそこらの女を宛がわれ生殖行為を強制されていたら、事実が露見しブラックボックスを失ったナユタはあえなく命を落としていただろう。

「――君に殺されてあげればよかったかな」

 最後に呟く。

 力が抜け、冷たい波が満ちて身体が浚われていくような感覚を覚える。何度目になるか分からない餓死が近付いてきた。

 懺悔を終えたナユタは目を閉じ、安らかな気持ちで今回の死を享受した。

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 閉ざされた闇の中で連綿と続く再生と死。

 何日、何年――何百年経っただろうか。数日起きに餓死を繰り返していたナユタは、いつしか生き方も死に方も忘れていた。

 自分に肉体があることすら認識をせず、ただ闇の中で淡い明滅を繰り返すように意識を沈降させ浮上させ、闇の一部になったかのように過ごした。

 そんな円環の中の、ある日のことだった。

 いつも通り飢えを極めた末に安らかに餓死しようとしていたナユタの耳に、聞き慣れない音が届いた。

 こん、こん、と何かを叩く音。はじめは探るような小さいものだったそれは、次第に大きくなり、やがて激しい破壊音へと変貌していった。

 煩いなあ、死なせてくれ。

 意識が僅かに浮上するが、低血糖のためか声が出ない。手足がひどく冷え、痺れている。

 もう少し待っていたら死ねたのに。こうなったら意地でも死んでやる――なぜだかそんなことを思い、ナユタは目を瞑り、死に専念した。

 だが――

 ごんごんと拳で壁を叩かれた後、どおん、とひときわ大きな音とともに空気が震え、永劫だったはずの閉塞が破られた。直後、ガラガラと音を立てて何かが床に落下した。

「おおい、あんた、無事か!! オヤジ、こっちに一人いるぞ」

 天井から埃っぽい空気が流れ込んでくる。何者かが、天井の換気ユニットの継ぎ目を破って侵入してきたのだ。

 やがてすとんと着地の音がして、若い男が駆け寄ってくる。

「生きてるか!」

 耳障りな声と共に、顔の正面から強い光を当てられる。眼球の奥が刺すように痛んだ。長きにわたり深海生物のごとく光を失っていたナユタは思わず背を丸め、縮こまる。

「こら、光を消せ、馬鹿」

 さらにもう一人の声。侵入者は慌てて光を手で塞いだ。隙間から漏れる光だけでもナユタの目には毒のようだった。

 次いでごつんごつんという物騒な足音をたてながら、ナユタの側に何者かが走り寄ってくる。そして餓死寸前のやつれたナユタの背を軽々と抱き起こした。聴覚、視覚に次いで、触覚が蘇る。

「おい、大丈夫か。生きている……か?」

「……ぁ」

 さいごに声を発したのは、何回前の輪廻だっただろうか。喉の奥からかすれた音が漏れただけだった。だが、ナユタを抱き起こした男は息を呑み、そして嬉しそうに笑ったようだった。

「生きてる、生きてるな! よかったなあ、あんた。初めて生きている人間を見つけたよ」

 野太い声だった。絞られた僅かな光の中、何とか目を開けると、ひげ面の大柄な男が目に入る。布製の見慣れぬ服装をしていたが、それによって時代がどれだけ変遷したのを何となく察することが出来た。

 初めて生きている人間を見つけた――滅びゆく世界から取り残されたナユタの方こそ、この言葉を発したいくらいだった。

「水、あるか」

「うん」

 ランプに覆いを被せて男の背後に居た、彼の息子らしい少年が水筒から水を注いだ椀を差し出してきた。

「ほら、水だ。飲めるか? ゆっくり、口を湿らす程度でいいからな」

 男がナユタの口に椀を宛がい、ゆっくりと傾けた。口に水が触れる。不思議な感覚だった。ゆっくりと口の中に滑り込み、やがて潤いが行き渡る。それはまるで、ナユタが生きながらに失っていた生命そのもののようだった。

「……大丈夫だな、あまり呑むと良くないだろうから、これだけにしておこう」

 そして男は背後の息子に声をかけ、先導を命じていた。身軽そうな息子は頷き、ナユタに向けないようにしてランプの覆いを外す。

 光で照らされた天井に、大きな穴が開いており、そこから縄ばしごが垂らされている。何者も侵入できないはずの厳重な檻が、ひしゃげていた。覚えていないほどの昔、一縷の望みをかけて幾度か壁の継ぎ目などを探ってみたが脱出の糸口などどこにも見つからなかったのだ。

「外に出よう。絶対に助けてやるからな」

 その声はとても力強かった。一度死んだ方が元気になれるから殺してくれて構わない――などと言うこともできず、ナユタは男に背負われ、長年慣れ親しんだ死の床に別れを告げた。



 換気口の中に押し込まれ、引きずられながらどこかへと進む。やがて廊下に出るが、半永久的に残り人類の未来を託したはずの施設の端々には腐食が浮き上がり、朽ち果てようとしていた。

 ヘンドリクセン研究所――男の銘々によると『アンドリク遺跡』から外に出るまでの道すがら、男は背に乗ったナユタが質問してもいないのに、饒舌に現状を語ってくれた。

 二人は世界中にいくつかあるこのような遺跡を暴き、使えるものを発掘し売りさばくことを生業にしているというアンリとアウラという親子だった。

 どこも似たような構造をしており、不思議な機械の容れ物が並んでいると思ったら中には揃って干からびた遺骸が入っていたのだという。それがただの棺ではなく大昔の人間を生かすための装置だということは何となく分かっていたが、生存していた人間など一人も居なかったのだと。

 ナユタが初めての生存者で、収穫も無く干物ばかりで気が滅入っていたところで最高のお宝が見つかった、とアンリは言った。

「良かったなあ」

 アンリとアウラは何度もそう言った。収穫も無くやっかいな餓死寸前の男を拾っただけだというのに、道中の二人は朗らかだった。

 アンリの黒髪が頬に触れる。くすぐったかったが、どこか心地よい気もした。ナユタは心地よい揺れに身を任せ、低い声が肺に響くのを感じていた。

「生きてりゃいいこともあるさ。うまいもんを食べるだけでもいい」

 出入り口に向かうと思いきや、二人は廊下の途中で立ち止まる。見ると縄ばしごが上から垂らされており、天井には穴が開いていた。そうして母に背負われる赤子のごとくアンリの背に縛り付けられ、ナユタは背負われたままで何とか上昇していく。ナユタはアンリの邪魔にならないようじっとしていることしかできなかった。

 穴や空洞を利用しいくつかの階層を上昇した後かつての屋上にまで出た後、ようやくナユタは研究所の周囲の状況を把握した。

「目が慣れていないだろう、しばらくそのまま目を瞑っていろ」

 そう言われたものの、ナユタは腹の底から湧き出す感情に耐えきれず、うっすらと瞼を上げ、アンリの肩越しにまばゆい世界を垣間見た。

「……ッ」

 そこは、森だった。

 かつては空気の良い高原だったはずのそこは、いつしか植物に侵攻しつくされ、緑の天蓋で覆われていた。親子が掘り下げて穴を開けたところ以外は土に覆われており、そこに堅固な建造物があったことなど微塵も感じさせない環境となっていた。

 見慣れぬ植物の数々を視認し、世界がすっかり変わってしまったことを悟るナユタ。

 湿度の高い、濃密な空気が肺に入り噎せるナユタ。すかさずアウラが駆け寄ってきて背をさすってくれた。

 送電衛星が生きているのだろうか、土に埋もれた施設の空気循環システムが無事だったことに改めて安堵する。そうでなければナユタの生死のサイクルは餓死以上に早く回転することになっていただろう。

「そうだ。お兄さん、名前は?」

 応えるべく少年の方を向いたナユタは――再び噎せて咳き込む。

「――ごふっ、ごほ、」

「ちょ、ちょっと、大丈夫か?」

 心配そうに見上げてくる少年。光の下で改めて見るその姿は――昔の、知人に似ている気がした。

「ポーラ……?」

「ん、あんたポーラって言うのか?」

 赤毛にそばかすの少年が首を傾げるが、ナユタは何とか息を落ち着かせながら首を横に振る。

「いや……」

「無理して喋らんで良い、とにかく俺達のベースにしていたキャンプが近くにあるから、そこで休むんだ」

 予感がして軽く身を乗り出してアンリを覗き込む。やはり、鷲鼻で精悍な顔立ちをした、ヘンリという男によく似た横顔をしていた。

「…………」

 その証左などどこにもない。ただ、直感だけを根拠に。ナユタは、どこからか湧き出し身体に満ちる多幸感とともに微笑んだ。かつて時間をともに過ごした親しい人たちが、世界がどれだけ変わっていっても、子孫を繋ぎ生きていったということを思うだけで、不思議と苦しみが和らいでいった。

 やがて森の終わりが見えてくる。森の中以上に眩しいであろうそこに、外界の象徴たる光の中に、ナユタは目を細めて身を投じる。

 眩しすぎて何も見えない中、それでもナユタは真に解放を実感し、大きく息をついた。いつの間にか、五感がしっかりと働くようになっていた。心が動くようになっていた。

 しばらくしてもナユタの目は慣れなかった。外の世界が、少なくとも自然の営みによって覆い隠されたことだけは分かったが、世界が白んだままではっきりと識別することはできなかった。

 そんなときだった。

 ほんの一瞬、日が陰った。

「!」

 何とか見上げると、丁度一羽の鳥がナユタ達の上を飛んでおり、太陽を遮ったようだった。その鳥の胸は赤色をしていた気がした。

 不思議な感慨が胸に満ちる。元気でな、つがいが見つかるといいな。そんな言葉をかけるかわりに、ただ赤い姿が見えなくなるまで、願いながら祈りながら見送った。

 力強く羽ばたいていたその一羽の鳥が視界から消えた後、ナユタは晴れ晴れとした気分で、呟く。

「……ナユタ」

「ん?」

「俺の名前は、ナユタだよ」

 そう言って、ナユタは笑った。

 永劫の生死を繰り返す中でいつの間にか取り落とし忘れていたはずの笑い方も、思い出していた。

「助けてくれて、ありがとう」

 そう言うと、親子はそろってにんまりと笑って頷いた。


 ――これが、これこそが、一人の男が歩んだいのちの旅路の始まりだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る