【4】亡国にて
――これは、その不死性を他者のために使おうと決めたナユタの話。
初冬の森を、二つの人影がひた走る。
儀仗用の騎士服を纏った人物と、外套を頭からかぶり、動きにくいたおやかなドレス姿で何とかそれについていく人物。
乱れた足音と、乱れた息。
時折枯れ枝を踏んで予想以上の大きい音が生じてびくりと肩を竦ませる。
せり出した根に足を取られて転ぶ同行者。咄嗟に抱き留めると華奢なその少女は恥じらって俯くが、騎士は有無を言わさず二の腕を掴んで引き上げ、再び走らせる。
二人は、木々の間をぬって逃げていた。追っ手の姿は見えないが、気を抜けばすぐ後ろに迫ってくるような気がして、足を止めることができなかった。
やがて、夜になる。死の使いが目を覚ます時間になる。そうなれば、鋭い牙で、爪で、人間など簡単に引き裂き食い尽くされてしまう。追っ手に捕まるのも、肉食獣の餌食になるのも、あってはならないことだった。
日は既に落ちた。木々の隙間から覗く空は次第に群青から黒へと色相を変移させていく。
「はあ、はぁ……レフィ、わたし、もう……」
足にまとわりつくドレスを何とか捌きながらレフィに手を引かれるまま必死で走ってきた少女は、吐息混じりの声を漏らした後、ついにレフィの指を解いて足を止めてしまった。
「アマラ様、ここで止まってしまっては……」
数歩先で立ち止まったレフィが駆け寄り、再び腕を掴もうとするが、少女――アマラはいやいやをするように首を横に振り、枯れ葉の敷き詰められた地面にくずおれた。
「もう、足が動かないわ……」
「姫様……」
手の力も抜けたのか、首元で掴んでいた外套が外れ、するりと滑り落ちた。毎晩手入れを欠かさず、結い師により見事に整えられていた黒髪は、今や乱れに乱れ、夜を彩る月のような銀の髪留めはいつの間にかどこかに落としてしまっていた。
瀟洒なドレスも低木の枝などに引っかけてところどころ裂けている。桜色の頬をして、微笑むだけで誰もが魅了されるかんばせは、今や血の気を失い青白い。
「……しかし、ここは危険です。狼や熊ににかぎつけられるとひとたまりもない。どうかお立ちになってください」
「……」
頬に涙の痕がくっきりと頬に残る少女は、目尻を再び潤して何かを言いたそうにレフィを見上げる。
その心情は分かりすぎるほど分かった。それまで温室で丹精込めて育てられたたおやかな花を荒野に放り出し、風に負けるなと言いつけたようなものだ。だがレフィは敢えて何も言及せず、ただ強い声でそう告げ、先に身を起こして哀れな少女が立ち上がるのを待った。
「……私の記憶が間違っていなければ、もう少し先に休憩できる小屋があります。そこで休みましょう」
「でも……」
「この時期は誰も居ないはずです」
するとアマラは少しの間俯いていたが、息が落ち着いたのかやがてゆっくりと立ち上がった。
「分かりました、向かいましょう」
まだ涙の残る目は、しかし王族としての誇りに充ち満ちていた。跪いて忠誠を誓いたくなるのを堪え、レフィは手を差し出し、姫君の細い手を取った。
そして走りはしないものの、半ば強引にアマラの手を引いて進む。
レフィの予想通り、少し進んだところに沢があり、その側に小さな木造の小屋が建っていた。
だが――
「お、お客さんかあ、珍しい」
立ち尽くすレフィとアマラ。
沢の側の、少しだけ開けた土地。闇で然るべき場所に、灯りが灯っていた。
戸の隙間から光が漏れている。ひたすら森の中を進んでいた者にとっては、火に吸い寄せられる羽虫のごとく思わず歩み寄ってしまいたくなるような、優しい色の光だった。
咄嗟にアマラを背で庇うレフィ。剣の束に手をかけ、身構える。
無人のはずの小屋に、一人の若い男がいた。桶を抱え、ちょうど水くみから戻ったところのようだった。
森の中で暮らしているにしては妙に軽装なその男は、中肉中背で、これといって特徴はないものの、人懐っこそうな顔をしていた。
「騎士とお姫様で駆け落ちでもしたの? 事情は訊かないけどまあゆっくりしていきなよ。って、俺が家主ってわけじゃないけどね」
男はナユタと名乗った。小屋に二人を招き入れ、水を暖炉の火にかけて茶を用意し始めた。警戒し固辞することもできたが、足に限界が来ているアマラを見やってから覚悟を決め、レフィは毛を逆立てた猫のようになりながら追っ手が居ないことを確認し、自身が先行して小屋へと入った。
三人が入ると手狭になるほどの小さい小屋だった。粗製の暖炉と、寝台の他には何も無い。青年の荷物らしきものは乱雑に隅におかれており、開いた麻袋から寝間着の袖がだらりとのびていた。
無防備に背を晒すナユタに、しかしレフィはあくまで警戒をしてアマラを自身の背後に立たせたままで唸る。
「お前は……何者だ」
「そうそう、ここらの地面で不思議な石とか見なかったか? 俺、そういうのを探して旅をしているんだけど」
「……宝探しの盗掘屋か」
「ですです。でも今日も収穫なし」
そう言って、ナユタはへらへらと笑う。その軽薄さがよりいっそう、二人の不信感を煽る。
「泊まっていくよね? 夜は怖い獣がいるから、火を絶やさないようにして戸締まりしておかないと」
ナユタの言葉の直後、ガサガサと思いの外近くで何者かの足音が聞こえた。咄嗟に抜刀するレフィ。アマラを下がらせ、呑気にきょとんとしているナユタを突き飛ばし、束を握りしめる。
「多分狼だ。そこに餌を置いておいたから。開けないでくれよ」
「……なぜ、そのようなことを」
「腹を満たせば襲ってこない。今は餌が減る時期だしな。むしろ、何もなかったらなりふり構わず襲ってくるよ」
剣を握ったままのレフィに、倒れた際にぶつけたらしき頭をさすりながら起き上がるナユタが応える。
そのまま耳を澄ませていると、やがて枯れ葉を踏む足音は遠ざかり、消えた。かわりに梟の緩やかな鳴き声が響く。
「その様子だと、何者かに追われてるのか?」
「……できれば、詮索しないでいただきたい」
「うん、まあそうか。じゃあとりあえず休んでいきなよ」
未だにぴりぴりと警戒をしているレフィと、明らかに訳ありという様子のアマラに対し、ナユタという男はへらへらと笑うだけで何の警戒もしていない。むしろナユタの方こそレフィ達の素性を探って用心してもおかしくないほどの状況であるというのに。
その軽薄な笑みがより一層レフィの不審を誘う。納刀はしたものの、いつでも抜けるように手をかけたままにしておいた。
「ほら、お茶くらいしか出せないけど、どうぞ」
鍋の水が沸いた後、木の椀に入った茶を二つ差し出される。だがすぐには口をつけず、同じ鍋から注いだナユタが自身の盃を呷るのを注視する。
「毒なんか入ってないよ」
ナユタが苦笑しているが、その言葉を信頼できる根拠は何も無い。
「……レフィ、あの……わたし、喉が……」
姿すら見せまいと背後に庇い続けた少女がおずおずと発言する。レフィは舌打ちしたくなるのを堪え、ナユタという不審な男が茶を飲み干しているのを見やってから、恐る恐る自身の椀を近付け、啜る。
糖蜜でも入れてあるのか、思いの外優しい味だった。おあずけを食らっているアマラを制止し続けながらしばらく口の中でそのまま様子を見た末、レフィは仕方なさそうに自身が口を付けた方の椀をアマラに手渡す。
「口を湿らせるだけにして下さい」
「うん……」
つい半日前までならば指先を動かすだけで何もかも用意を整えさせることができた姫君が、今や木の椀をありがたがって両手で包むように抱えている。
「美味しいよー」
アマラの僅かな変化も見逃すまいと目を見開いていたレフィの背後から呑気な声がする。その言葉通り、既に冷め始めていた茶を口にしたアマラは、嚥下の後強ばっていた顔を綻ばせた。
「おいしい……、わたし、こんなに美味しいお茶を飲んだのははじめて」
「あはは、お姫様にお墨付きを貰っちゃった」
状況を分かっているのかいないのか、たおやかに微笑むアマラ姫。
言いようのない苛立ちがレフィの中に少しずつ積もっていく。この極限の状況においてなお呑気にしていられる王族が羨ましく、そしてねたましくもあった。
「おかわりもあるから」
そう言って、アマラが結局飲み干してしまった椀を受け取るべくナユタが伸ばしてきた手を、レフィが払い落とす。
「いて」
「……レフィ!」
レフィは肩越しに背後を睨み、抗議の声を封殺する。
「おかわりは結構だ。
こちらは誰も味方の居ない状況で、お前のことも少なくとも味方だとは思っていない。この場を貸してくれたこと、茶をいただいたことは感謝するが、悪いがあとは何もせずに明朝まで離れていてくれるか」
「レフィ、この方は軍部なんか関係無いでしょう」
「どうだか」
あくまでお人好しのお姫様に対する苛立ちも転嫁させ、レフィは再び抜刀し、ナユタに向ける。
「夜が明けるまでそちらの隅に居て貰おう」
そして目線で自分達の対格の角を示すと、ナユタは肩を竦める。
「まあいいけど、ちょっと水汲みに」
「駄目だ」
「用を足しに」
「駄目だ」
「ええ、それは厳しいなぁ」
「この剣の錆になりたくなければじっとしていろ」
「あの、レフィ……?」
「何ですか」
「わたしも、その…………、用、を……」
「………………」
だから、水を飲み過ぎるなと言ったのに。むしゃくしゃする気持ちを何とか抑え――結局、三人全員で外に出て用を済ませたのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
呑気な発掘屋の男と、呑気な姫君。油断すればなれ合いしかねない彼らを剣で隔てながら、レフィは一晩中眠らずに過ごした。
寝顔すら、二人とも呑気なものだった。それがよりいっそう、レフィの苛立ちを塗り重ねていく。
自分がこんなに気を張っているのに。警戒しているのに。どうしてこんなに人を信じ、ゆったりと構えることができるのだ――それこそが自分の職務であることを重々承知だったものの、それでもレフィの心は重く沈み、何か良くない感情が渦巻いた。
「おおい、もう朝だよ」
「――!!」
意識が急浮上する。息を呑みながらがばりと起き上がると、頭上でレフィを覗き込んでいたらしきナユタが慌てて退く。
傍らを手で探り、寝る前からむき身のままで置いてあった剣を掴み、ナユタに向ける。
「お前、何をした……ッ」
「いや、起こしただけだけど……」
「そんなはずはない、この私が寝るはずなど!」
「疲れていたんでしょう。レフィもちゃんと休まないと、身体がもたないわ」
声のした方を見やると、暖炉の側に佇み茶を啜っているアマラ姫が居た。
髪は元通りとまではいかないものの櫛で整えられ、身形もましになっていた。つまりは自分よりも先に起きて一人でそれらを整えたということだった。
「姫……」
「大丈夫、ナユタさんは良い方だわ」
そう言って、優美に微笑むアマラ。こんな環境でこんな境遇であるにも関わらず、宝石とすら喩えられた姫君は美しかった。
――それを見た瞬間、蓄積されつつあったレフィの苛立ちに火がついた。
「そうやって誰でも信用しようとするから、あなたのご家族は!!」
「……っ」
アマラの手が大きく震え、茶がぽたぽたと床に落ちる。
悲痛な顔でじわりと木の床に染み込んでいくそれを見おろすアマラ。我に返ったレフィが自分の失言を思って顔を青くするが、時既に遅し。アマラは唇を噛んでうつむいたまま、レフィの方を見ようとしなかった。
数年前。シュレーフェン国王は東方の治世術を学んできたというとある男の手腕を見込んで重用し、その助言により様々な改革を断行した。不満の芽はあったものの全体として国は良い方向へと向かっていた。だが、多大な信頼を勝ち得て宰相へと上り詰めたその男はやがて牙を剥き――入念に周到に根回しを済ませた軍部を率い、王室こそが悪であると断じて政変を起こしたのだ。
途端に罪悪感が湧き出し、レフィの前身を支配する。崩れるように膝をつき、レフィは項垂れる。
「……申し訳ありません、姫様」
「いえ……でも、よくして下さったナユタさんには、謝って下さい」
「……了解しました」
そして、レフィは暖炉の世話をしたままおろおろとしていたナユタに向き直り、頭を下げる。
「非礼をお詫びする」
「いえいえ、気にしないで。でも、もう明るくなったから、行った方がいいんじゃないか?」
「……言われずとも」
窓のない小屋だったが、換気用の穴から外の様子がうかがい知れた。既に空は澄んだ青色をしており、夜明けからは相当な時間が経過しているようだった。
その後さらにしつこいほど詫びを入れたレフィは、アマラを伴い小屋を辞することになった。
「本当に、ありがとうございます」
「どういたしまして。無事の旅を祈ります」
「……どうも」
優美に笑う姫君と、仏頂面の騎士は、苦笑するナユタに背を向け、小屋を離れた。
そうして再び森の中を進む。目指すは森の先の峡谷を越えた、隣国だった。
「申し訳ありません、姫様。あの小屋に、忘れ物を」
レフィが足を止めてそう言ったのは、ナユタが居たあの小屋が見えなくなってから少しした頃だった。
「あら……大事なものなの?」
「はい。こちらで使えるか分かりませんが、通行免状などの入った袋を忘れてしまいました。走って取りに行きますので、どうか姫様はそこの岩の陰でお待ちいただけますか」
「……分かったわ」
そうしてアマラを隠れられる場所に残し、レフィは踵を返し、駆け足で小屋へと向かった。
疲労からか身体が重い。手足が思い通りに動かない。だが足を止めることはせず、静かな決意を腹に据え、走り続けた。
そして小屋に辿り着き、扉を静かに開く。
中ではナユタが荷物をまとめているところだった。
「うわあ」
驚嘆の声まで呑気なものだった。手を止めたナユタが立ち上がり、歩み寄ってくる。
「昨晩は世話になったな」
「はいはい、どういたしまして。忘れ物でもした?」
そう言ってきょろきょろと小屋の中を見渡すナユタ。だが忘れ物を目的としてここに戻ってきたはずのレフィは首を横に振る。
「済まないが、外で話できるか」
「うん?」
レフィが顎で外を指すと、ナユタは首を傾げながらも素直に小屋から出る。そして少し沢寄りのところまで歩かせた後、立ち止まった。
「悪いが、我々がここに立ち寄ったこと、去った方向をけして口外しないで欲しいのだ」
「うん、それはもちろん」
こくりと頷くナユタ。その眼前で――レフィは静かに抜刀する。
白銀の刃に、ナユタの驚いた顔が映り込む。
「……ああ、そういう意味かあ」
やがて観念したように目を瞑り、抱擁を受け入れるかのように手を広げるナユタ。
「せめて、痛くないようにしてくれる?」
そう言って、へらへらと苦笑する。相変わらず、腹立たしいほどの諦観だった。
なぜそのように事態を受け入れることができるのだ。そう問い詰めたい気持ちを飲み込み、歯を食いしばって嫌悪感を押さえ込み――
レフィは剣を振り上げた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
岩陰で小さくなってそわそわと待っていたアマラと合流し、レフィは少しだけ気分も良くなり、しっかりした歩調で森の果てを目指した。
森の先には地面が割れたような深い峡谷があり、底には速い流れの川が据わっている。そこを越えるとアマラの親族が嫁いでいる隣国との国境がすぐ近くに見えてくるはずだった。
アマラを無事に送り届ければ、レフィの孤独な任務も、残酷な決意も全て報われるはずだった。
半日ほど懸命に足を進めるうち、やがて木々の気配がまばらになり、日光が多く差し込んでくるようになる。
空の色が赤くなる前に森を抜けられたのは僥倖だった。後は夜まで潜み、暗闇に乗じて峡谷を越えれば良い。
世間知らずのお姫様を連れた強行軍ではあったが、何とか無事に目的を遂げることができそうだった。
だが、赤毛の騎士の希望的観測はいとも簡単に霧消した。
「……迂闊でした。森に追っ手が入ってこないと思ったら、ここで先回りされていただけだったとは」
「レフィ……」
遮ってくれる木々がなくなった途端、強い風が吹きすさび容赦なく体温を奪っていく。実りの季節が終わり、滅びの季節が迫っていることを感じさせた。奪われたものは一瞬で遠くまで飛ばされ、取り戻せないような錯覚を覚えるほどだった。
日が暮れてから追っ手の目を警戒しつつ秘やかに峡谷へと足を踏み入れた二人だったが、そこで目の当たりにしたのは、かかっていたはずの橋が破壊され墜とされた跡だった。
火をかけられたのだろう、橋があったと思しき場所には炭のように黒くなった木片がいくつか転がっていた。
「確かに、我々が頼るとしたら姫と血縁のあるエスレーヤ王家であることくらい簡単に察することができる……ここで先回りして道を塞ぐだけで、足止めが容易だったということか」
「そんな……わたしたち、どうすれば……」
項垂れるレフィと、ただ狼狽えるアマラ。黄昏の終わり、かすかな薄明かりの中で姫君の目に涙が浮かぶ。
生まれてからつい先日まで、ただ愛され崇められるだけの暮らしを送ってきた美しい姫君。仕方ないとはいえそんな彼女がただ悲嘆に暮れるのを見ているのはあまりいい気分ではなかった。
「ここに立っていてもいずれ軍部の追っ手がかかります。峡谷沿いに川下へ向かってみましょう……どこか生きている橋があればいいのですが」
「……分かりました」
目を伏せたまま頷くアマラ。レフィは疲労からか眩暈を覚えふらつくが、すぐに立て直してアマラの手を引いて歩き出そうとする。
そんなときだった。
「ありゃあ、大変だ」
「!!」
呑気な声とともに、土を踏む足音がした。
抜刀しつつ振り向き、迷わず声の主に斬りかかろうとした瞬間――視界に入った相手を見て、脳が焼き切れたような衝撃を覚え、レフィは意識を失った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……フィ、レフィ!」
気がつくとアマラの膝に頭を預け、レフィは地面に四肢を投げ出して仰向けに寝かされていた。
見上げると泣きそうな顔をしたアマラが目に入る。
既に空は黒い。夜空を背にして涙を浮かべる姫君はたいそう美しく見えた。いつもそうやって泣いていれば誰かに助けられるなんて、いいご身分だな――摩耗した心がそんな言葉を造り出すが、声にする前に飲み下す。
「……姫、私は……」
「よかったあ、中々目が覚めないから頭の打ち所が悪かったのかと」
「!!」
男の悠長な声が聞こえた瞬間、レフィは飛び起き、傍らの剣を掴む。そして側に立っていた声の主――昨晩小屋で友に夜を明かした男、ナユタを睨む。
自分が剣で斬り殺し、狼に食われるよう外に置いてきたはずの人物だった。
頸動脈を切り裂き鎖骨を粉砕し、心臓に至るまでを叩き折るように斬りつけた。血が噴出し、呆気なく絶命したはずだった。殺害の行為よりもむしろ剣の血を拭いアマラに悟られないようにすることの方が骨だったほどだ。
「貴様は……どうして生きている!」
「どうしてって……まあ、死ななかったから」
「私が確かに殺したはずだ!」
「……レフィ!?」
思わず口走ると、後ろで座ったままのアマラが悲鳴を上げる。
「あなた、ナユタさんに何を……」
「ああ、大丈夫だから気にしないで。ちょっと口封じに脅されただけだし、俺、死ににくいから」
「……そう、なのですか?」
世間知らずの少女はへらへらと笑う青年の言葉に一応の納得を見せようとする。だが、未だ刃から束を伝わって自分の手に残る人殺しの感触を覚えているレフィは、とうていそんなことで納得ができるはずがなかった。
「……貴様は、何者だ」
改めて問うと、夜の森に関わらず軽装をしているナユタはどこか自嘲のような寂しい笑みを浮かべ、言った。
「死ににくい人間だよ」
どういう意味なのか。
死ににくいどころか死んだのになぜ生きているのか。
そして、再び自分達の前に姿を現したのは何故なのか。
やはり、軍部の刺客なのか。
問い詰めたいことが止めどなく溢れてくる。喉でつかえたそれらを何とか声に載せようとしたところ、急にどくん、と心臓が強く脈打つ。息が苦しくなり、レフィは胸を押さえて蹲る。
「レフィ!」
飛び上がり駆け寄ってくるアマラ。だが実際には何もできずにおろおろと肩に手を添えるだけだった。忌々しいほどの可憐な姫君に構う余裕もなく、レフィが空気が抜けたような脱力感に耐えていると、頭上から平然とした声が降ってきた。
「俺が来たのは、助けがいるかと思ったからだよ」
そして膝をついうたナユタが背に触れてくる。レフィは咄嗟にその手を払いのけた。
「触るな!」
「いて」
加減などせずに思い切り弾くと、ナユタはぷらぷらと手を振って痛みを逃がす。そして彼にしてはまともな表情をして、再び覗き込んでくる。
「あと、真面目な人のようだから、俺を殺したっていう罪悪感があるんだったらそんなの気にしないでいいって伝えたかった」
「何を言っている……私は、姫を逃がすためならどんなことでも……」
大声で抗弁しようとした途端、腹の中でぐるりと胃が裏返ったかのようなおぞましい感覚とともに胃液がせり上がってくる。
ナユタは痛めつけられたことなどお構いなしに、そんなレフィの背をさする。脇のアマラはただ困り顔で佇んでいた。
そして、ついにナユタが誰にも明かしていない、自分ですら完全には認めていない事実を暴く言葉を口にした。
「人を殺したなんて記憶は無いにこしたこと無いよ。
だって――君、お腹に赤ちゃんがいるだろう」
「――!!」
「レフィ、あなた……」
一瞬で、気温がさらに下がったようだった。不意に風の音が止み、静寂が訪れる。
「まあ、勘だけど」
そう付け足すように言うナユタ。だがレフィの狼狽えぶりは相当なもので、それが真であることをアマラにすら悟られてしまう始末だった。
「な、何を……私は、そんな、」
「レフィ!」
アマラの眼差しから逃れるように、震えながら項垂れるレフィ。
「近衛騎士レフェッカ・クルス!!」
なおも応じようとしないレフィの肩を掴み、アマラが半ば恫喝のように問いかける。
「王女アマリアが命じます、私の質問に答えなさい。
――あなたは、お腹に子供がいるの?」
「………………」
予感がしただけ、僅かな兆しがあっただけ。レフィは否定しようと顔を上げるが、しかし首を横に振ることだけは、できなかった。
アマラの表情が次第に驚愕から深刻の色に塗り替えられていく。
「……お兄様との、子なの……?」
次いで恐る恐る投げかけられる、核心を突いた質問。
シュレーフェン王国第一王子。アマラの兄。
柔らかい金髪と、宝玉のようなすみれ色の瞳をした、美しいひとだった。
目を瞑ることをせずとも、思い出せるその優しい眼差し、穏やかな声、そして――頬に触れてくれる、温かい手の感触。下級の武家に生まれ髪を切り女を捨て騎士になった自分の、ほんの少し残された女々しいところを拾い上げ大事にしてくれた、誰よりも愛しく尊いひと。
許されるはずのない関係。密やかに、秘めやかに――月の光も届かない新月の日だけと決めて、何も見えない闇の中、手探りでお互いを確認し合い、言葉少なに縋り合った。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの……!」
「孕んだ確証はありません。もしそうだとしても、けして……父親を明かすつもりはありませんでした。殿下も……知らぬまま……お亡くなりになったのですから、もう気にかける必要は、」
「愚かしい!」
「!」
突然の叱咤。レフィが驚いて顔を上げると、つい先ほどまで風に吹かれて飛ばされそうなほどだったか弱い姫君が、目に涙をいっぱいにためて、とても強い眼差しをしてレフィを見つめていた。
弱い女。城を一歩出れば一人で歩くことなどできないくせに――身籠った不調からか苛立ち紛れにそんなことを思ってしまった自分を恥じ入ってしまうほど、それは王者の貫禄のある佇まいだった。
「誰かそれを責めるというのです!」
「……」
「貴方がお兄様と密かに愛し合っていたことは知っています。連れ立って歩くときの、二人のとても幸せそうな顔は、見ている私も嬉しくなってしまうほどでした」
「……姫様」
「ごめんなさい。あなたこそ一番大変だというのに、私は……自分のことばかり気にかけ、悲しんで……」
「あなたを、守るためです。この状況において最も守るべきは貴方様なのです、謀るつもりなどありません」
「違います」
「!」
いつしか、声に逆らえない響きが――誇り高き血族としての朗々たる声が、王女の喉に宿っていた。
「真に守るべきは、貴方です。シュレーフェン王位継承第一位のお兄様の子を宿した女性です」
「しかし、私自身は卑しい出です、王族の血など……」
言いかけたレフィを、アマラは一睨みして黙らせる。
「わたしのお姉様も同然です。どうか自分を卑しめないで。それに……」
そして、くしゃりと顔を歪めて笑う。
「お兄様の子が――わたしの家族が、一人でも多く生きているなんて、これ以上の僥倖なんて無いわ」
はずみで目尻から涙がこぼれ落ちた。めそめそと零していた湿った涙とは違う、きらきらと瞬く星のような、綺麗な雫だった、
「姫様……」
もはや何も言えなくなったレフィが見上げる中、アマリア王女はすっくと立ち上がった。そしてぽかんと二人の様子を眺めていたナユタに向き直る。
――その姿に、もはや守られるだけだった少女の面影は無かった。
「ナユタさん。事情は察していただけましたか」
「だいたいは」
「レフィに殺されたというのは、真ですか」
「そうだよ。ここからここまでばっさりと」
そう言いながらナユタは肩口から胸までを指先で示す。 服は着替えてきたらしく、刃の跡はどこにも見られないが、レフィが気まずそうに目を逸らす。
「では、どうして今はご健勝でいらっしゃるのですか」
「死なない人間なんだ、俺は」
「死なない……」
「殺されても元通りに生き返るよ」
「それは、人間と言えるのか……?」
自らの手でナユタを斬り殺したレフィが呆然と声に出してしまうが、アマラからの目配せで慌てて口を噤む。
「それを信じる術は私にはありませんが、レフィは分かっているのですね?」
「……はい」
「何なら見せてあげようか?」
「い、いえそれは……結構です……。では……」
アマラは一歩を踏み出し、ナユタに歩み寄る。毅然としたその横顔に愛おしいひとの面影を思い出し、レフィは思わず見とれる。
「私はシュレーフェン王国第二王女、アマリアと申しますこちらは近衛騎士で、兄王子の子を身籠もったレフェッカ」
「うん、聞いてたから分かってる」
「私達に、力をお貸し下さい。その超常の力を持って、私とレフィを、この先のエスレーヤまで亡命する手助けをして欲しいのです」
「姫様、しかしその者は」
「レフィ。静かにしていて」
「……」
抗議の声はあっさりと封殺される。破れかぶれのドレスで、乱れた髪をして立つ少女は、それでも王者の気配を纏い顕然と立っていた。
王族としての品格が、立っている場所でも身につけているものではないということ、改めて思い知らされる。
「先日、王城にて起きた宰相率いる軍部の謀反により我が王家は……私とレフィの子を除き弑されました。父や兄、姉達の命を賭した助けがあり何とかその場を逃げることは叶いましたが、私には追っ手がかかっており、ご覧の通りエスレーヤに通じる道を破壊されてしまいました。このままでは追い詰められた末に捕えられてしまいます」
「うん」
「何としても、兄の子を、レフィを、エスレーヤまで無事に届けたいのです」
「いいよ」
「どうか、私達に――――、ふぇ?」
張り詰めていたアマリア王女が、一瞬の戸惑いの後、目を丸くする。
「いいよ」
二度目の返事。事情を聞いてすら、その男はへらへらと軽薄そうな笑みを浮かべたままだった。
「そ、そうですか。感謝いたします」
「要はこの向こうまで行きたいってことかな?」
「はい」
「じゃ、どこかで隠れといて。行ってくる」
「ふぇっ」
言うなりすたすたと崖に向かうナユタ。渓谷から立ち上る強い風でふわふわの栗毛が巻き上げられる。
「あ、あの、ナユタさん、何を……」
「何って、落ちてくる」
「落ち……!?」
追いすがってきたアマラに、ナユタは平然と答える。
「ここで落ちて死んで生き返って、向こう岸まで行ってくる。エスレーヤに行って、助けを呼べばいい?」
「で、でも、諸々の準備が……」
「大丈夫、痛いけど死んでも生き返るから」
「……そ、そうですか」
一瞬納得しそうになったアマラだが、はっとしてなおも進もうとするナユタの腕を掴み、引き留める。そして首の鎖を外し、ナユタの手に握らせる。そこにはペンダントではなく、黄金の塊が繋がっていた。
「で、ではこれをお持ち下さい。私の王家の証たる印章です。ここから一番近いエスレーヤの東方領の主は私の大叔父に当たります。大叔父様に見せていただければ、きっと分かって救援を寄越して下さるはずです。
ナユタさん。あなたのことはとても親切で良い方だと思っています。ですが私自身はあなたのその不死のことを信じ切れていません。
それでも、この状況で縋ることができるのはあなただけなのです。
どうか、よろしくお願いします」
「こんな大事なもの、いいの? 盗んじゃうかもしれないよ」
「この状況でもっとも最適であると判断しました。あなたを信頼しています。それに、大事なのは印章ではなく、人間ですから」
深く頭を下げるアマラ。ナユタはアマラが顔を上げた後に、にんまりと笑ってみせた。
「分かった。信頼してくれて、ありがとう。
任せて。何日かかかるとは思うけど、その間あの小屋にでも戻って静かにしておいてくれるか。俺が戻ったらまた呼びにいくから。狼には餌をやらなければいい。そうすれば、そこらの護衛よりも心強い味方になる」
「……分かりました。ご無事を祈ります」
「ありがとう」
従容と頷くアマラを見て微笑んでから、少しだけ目の光を強くしたナユタは再び切り立った峡谷の淵へと向かう。
「待て」
「む?」
次にナユタを呼び止めたのは、レフィだった。
「いきなり王女の印章など示しても追いはぎでもしたとでも思われてしまうだろう、領主に近付いたら、まずそこらの騎士に赤毛の女武者の使いだと言えばいい。あそこのやつらは何度かのしてやったからそれで通じる」
「了解、女武者さん。身体、冷やさないようにな」
「……貴様はどうしてここまで我々に力を貸そうとする」
緊張の糸が切れてしまい立てずにいるレフィがそう言うと、ナユタは朗らかに笑った。
「困っている人を助けるのは当たり前。それに、最初はあんなに泣いてたお姫様がこんなに頑張っているのを見ると、何とかしてあげたくなる。
――あ、そうだ。いいことを教えてあげよう、お姫様」
「はい」
「俺のお嫁さんになって子を産んでくれるなら、俺の不死の力をあげてもいいよ」
「なっ……」
あまりの礼を失した言動にレフィが気色ばむが、アマラは腕一本でそれを制し、その手をやがて自身の腹部に添え、躊躇うことなく言った。
「それは、確かにとても魅力的な申し出のようですが……私の胎は、その印章を除けば現在私が持っている唯一の武器です。シュレーフェンの王家の血を繋ぐためか、単に誰か殿方を籠絡するためか――いつか最大限に効果のあるときに的確に使わなければなりません。
ただ、今そうしなければ協力しないと仰るのならば吝かではありませんが……できれば、まだ使いたくはありません」
「さすが、王女様。惚れちゃいそう」
「では、その好意を利用させてもらいます」
そう言って、強かに微笑むアマラ。ナユタは苦笑し、お手上げという様子で肩を竦めた。
「そう来たかぁ」
それ以上要求することはせず、ナユタはひらひらと手を振って、崖へと向かう。飛ばされてしまいそうなほどの風の中、一人の青年がひょこひょこと進む。
そうしてあと一歩、となったとき。
「どうして――不死のこと、教えて下さったのですか。わたしたちに力を貸して下さるのですか。
わたし達はただの通りすがりで、しかも追っ手のかかった者です。あなたには何の利益も無いでしょう? それどころか、不利益を被る可能性の方が高いくらいです。無理なお願いをしたわたくしが言うのも奇妙ではありますが……」
今更ともいえるアマラの質問に、ナユタは振り向き、笑顔だけを見せる。そしてゆっくりと後ろに傾いてゆき――暗がりの中に吸い込まれるように、消えていった。
「!」
思わず手を伸ばしたアマラの前を、一陣の風が横切っていく。そこには、元から何も無かったかのように、空っぽの空間があるだけだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「レフィ。これは食べられるみたいです。少しでもお腹に入れておかないと」
乾ききっていない薪が大きな音を立てて爆ぜる。その音にびくりとしながらも、アマラは横になっていたレフィを起こし、小屋で見つけた干した野菜をそっと差し出す。
気が緩んだためか時期的なものか、起き上がることができないほどの悪阻で寝込んでしまったレフィ。何とか起き上がり、干し野菜を受け取る。口にして一瞬嘔吐くものの、苦行を堪えるかのような顔でなんとかそれを嚥下した。
ナユタが崖に落ちて、丸二日が経過した。
レフィはアマラに伴われてナユタが居た小屋に戻り、追っ手の恐怖におびえながら日夜を過ごしていた。
目当ての進路を阻まれてはいたものの、場所を特定されてはいなかったようで、未だに軍部の手に落ちずに済んでいた。元は王家の所有していた狩猟用の森なので、王家と近衛以外は中の地形に明るくないことが幸いしたようだった。だが、道を封じた上で虱潰しに捜索されればいずれは見つかってしまうことも確かだった。
「彼は……戻ってくるでしょうか」
「そう願うしかありません。いざとなったら、あなただけでも逃がしてみせます」
つい先日剣を握り勇ましくアマラを庇っていたはずのレフィだが、いまや立場はすっかり逆転し、王女たるアマラが慣れないながらも彼女の世話を焼いていた。
その姿は、下女のようなことをしていてもどこまでも気高く美しかった。自身の報われない境遇と照らし合わせて何も出来ない温室の花などと内心で小馬鹿にしていたことを今になって心底恥じ入るレフィ。
「男の子かしら、女の子かしら。どちらでも、楽しみだわ」
レフィのそんな様子を悪阻故の顔色の悪さだと思っているらしいアマラが慈しむようにレフィの背をさする。
「……レフィ、わたしね、父様も兄様も姉様も死んでしまって、どうでもいいって思ってたところがあったの。怖いのも痛いのも嫌だ、こんなところで必死になって生きるくらいなら――って。でも……」
そして、王族特有の紫水晶のような瞳で、レフィを見やる。
「あなたのお腹に子供がいると聞いてから、自分でも分からないけれど、急に勇気が湧いてきたの。わたしがあなた達を守らなきゃいけない、って」
「姫様……」
艶やかな黒髪を結び腕まくりをしたアマラは、力強い笑みを見せる。
そんなときだった。
「アマリア姫。いらっしゃいますか」
「――っ」
小屋の外からのくぐもった声。若い男のものだった。
とっさに起き上がろうとするレフィの肩を抑え、アマラが立ち上がる。
「……奥に隠れていて」
そう言って、恐る恐るといった様子でレフィの剣を掴み、持ち上げる。そして重さでよろめきながら扉へ。
「アマリア姫?」
「何者ですか。名乗りなさい」
「グランブレウ選帝侯の使いの者です」
「!」
大叔父の名だった。アマラは唾を飲み込み、レフィに目配せしてから扉に手をかける。そして震える手でゆっくりと押し開く。
早朝の冷ややかな外気が滑り込んでくる。思わず目を細めるアマラ。
「アマリア姫ですね」
日差しを遮るように立つ男が居た。軽装の鎧を纏っており、腰には剣を佩いていた。アマラは身構えながらも頷く。
「はい」
返事をして前に出る。その瞬間――腕を掴まれ、引き倒された。
「きゃっ……」
冷たい枯れ葉の上に容易く転ばされる。直後、背に激しい衝撃と、重み。踏まれた、と気づく頃には、アマラは息ができないほど圧迫されていた。
「く、ふ……」
「アマリア姫」
先ほどとは打って変わっての、低く鋭い声。可憐でたおやかな姫君の背を踏みにじり、その男はゆっくりと抜刀する。
「首だけ頂く」
「姫……!」
朝の光で煌めく刃。這い出てきたレフィの手が伸びるよりも先に、その刃は振り上げられることもなく、ただ地面の虫を叩き殺すかのように、すとんと落ちた。
「いやあ、合言葉くらい決めとくべきだったねえ」
ぽたり、ぽたりと温かい雫が頬を伝う。
思わず目を瞑っていたアマラがゆっくりと瞼を押し開いていくと、やがて目に入ってきたのは――
「ナユタ、さん!」
背から胸を貫かれ、さらに貫通した刃を手で握り込んでアマラに届くまいとしている不死の男だった。
止めどなく血が流れ落ちてくる。全てが熱を失ったような世界の中で、ナユタの血だけが熱いほどに感じられた。やがて強く握っていた指がずるりと切り落とされ、アマラの頬に当たってから転がり落ちていった。
「な、何だ、貴様」
アマラを刺そうとした男が慌てて剣を引き抜こうとするが、なおも残った指で刃を握ったナユタが刃を掴んだまま放さない。そうして少しの間攻防した後、ナユタの頭を踏みつぶそうとした男が足を掲げた瞬間に、男の頭が横薙ぎに殴られ、呆気なく吹っ飛ぶ。細身のその男は面白いほど簡単に宙を泳いだ末、何度か地面を跳ねてからアマラ以上に無様に倒れ込んだ。
拳一つで刺客をなぎ倒して現れたのは、四十ほどの歳の、精悍な顔立ちをした男だった。騎士というより戦士といった方がふさわしいような威容をしている。
「遅れて申し訳ありません。大丈夫ですか、カラスの小鳥姫」
「……はい! で、でもナユタさんが」
「そちらは問題無いでしょう。選帝侯領鋼鷹騎士隊のネモと申します。貴女方を選帝侯領までお連れいたします」
大叔父からの呼び名を携えてきたその男――ネモを見上げ、アマラはようやく真の救援が来たことに安堵するものの、なおも血を垂れ流すナユタとネモを交互に見て困り顔をする。
「ごめんねえ、遅くなっだ。どごろでネモざぁん、ごれ、抜いてぐれる?」
「……」
ぼとぼとと血を零しながら、ごぼごぼと喉から不気味な音を立てながらへらへらと笑うナユタ。ネモが顔色も変えずにナユタに刺さったままの剣を残酷な音とともに引き抜くと、ナユタはのけぞりがっくりと倒れ込む。
「ひゃ……」
アマラが固唾を呑んで見ていると、やがてナユタは何事もなかったかのように起き上がる。その胸には穴も血も既に無い。
「ナユタさん……大丈夫、ですか」
「うん」
死なないとは聞かされていたとはいえ、アマラがその様子を目の当たりにするのは初めてだった。
「レフェッカ殿もご無事か」
「あ、ああ。かたじけない」
部屋から這い出てきたレフィに会釈をした後、ネモは表情を引き締め、昏倒させたシュレーフェン軍部の刺客を見やりながら、言った。
「急ぎましょう。ここが見つかったということは、残された時間は少ない」
そうしてネモという騎士に先導されながら、アマラとレフィ、そしてナユタは森の果てを目指した。
既に冬の気配が十分すぎるほど強まっており、空気は冷たく張り詰めている。道すがら、寡黙に先行するネモのかわりにナユタがへらへらぺらぺらと迎えにくるまでの事情を喋っていた。
「いやー、水が冷たくて気がついたら予想以上に流されちゃっててね、そこから歩いてグランブレウ選帝侯のお城まで馬車に便乗したり歩いたりして行って、事情を話して、なんかすっごく疑われて、頑張って説明して~ってやってたら時間かかっちゃってね」
「あの、本当にありがとうございます……」
歩きやすいように裂いたドレスがひらひらと不格好に泳ぐ。持っていた外套をレフィに被らせたアマラはすっかりみすぼらしい身形になってしまっていたが、それでも内側からにじみ出る気品は欠片も損なわれていなかった。
「へへっ。じゃあ、お嫁さんに――」
ナユタがそう言った瞬間ネモとレフィが振り向き視線で刺してくる。
「……なんでもなーい」
半ば自棄になって口を尖らせるナユタ。返事に困ったアマラが苦笑だけを返す。
ネモが三人を導いたのは、国境の峡谷ではあったが、先日レフィが見た焼かれ落とされた橋からは少し離れた場所だった。
「まあ、橋が……」
感嘆して足を止めるアマラの背を、ネモがやんわりと押す。
「お急ぎ下さい」
「は、はい。レフィ、気をつけて」
「了解です」
一行の眼前にあったのは、縄を渡して作った粗製の、橋と呼ぶにはおこがましいという程のものだった。
三本ほどの太い縄をそれぞれ木と岩に固定し、底には細い板きれが一本ずつ置いてあるのみ。平時ならば姫君の目に入れることすら許されないかもしれない。
「ナユタ殿、先頭を」
「ううん、ネモさん行って。早く」
いささか深刻そうな顔をしたナユタがそう言い終えないうちに、とす、と軽い音とともにその喉に矢が貫通し、身体がぐらりと揺れた末に斃れる。
「ナユタさん……!」
思わず足を止めるアマラの腰を掴み、ネモが軋み揺れる橋を無理矢理渡っていく。
「失礼する」
「ナユタさん!」
「あ、大丈夫っす」
そう言いながら、絶命を終えたナユタが喉から抜けた矢を投げ捨て、立ち上がる。
森を見ると、物騒な足音とともに数人の男達が凶器を携えてやってくるところだった。幸いナユタの復活には気づいていないようで、外したとでも思ったのか再び弓を構え矢を向けられる。
「ほら、レフィさんも。戦わないで良い、赤ちゃんのために今一番すべきことをするんだ」
「……分かった」
抜剣しようとしていたレフィを庇うように立つナユタ。レフィが頷き、ネモ達の渡り終えた橋に足をかける。
ぐらりと揺れる底板。はるか下の急流の轟きが湧き上がってくる。身重の女にはひどく険しい道だった。だがレフィは歯を食いしばり、十数歩の距離を何とか渡り終える。
「そういえば、言ってなかったね。なんで助けるのかって質問」
ナユタも橋の途中まで来て、そして足を止めていた。レフィが振り向くと、その不死の怪人は笑いながら手を振った。そのすぐ背後には既にシュレーフェン宰相からの追っ手が迫っている。
「答えはね」
追っ手の剣が振りかざされる。背を切りつけられる。
そんな中でも、ナユタは恐怖や痛みなど微塵も感じさせない顔をしていた。
「おれは、おれを好きになってくれる人間が、好きなんだ。何でもしてあげたくなる」
そう言って――ナユタは倒れざま、手にしていた短剣で傍らの縄を切る。ぶつり、と音がした瞬間、粗製の橋は呆気なく真っ二つに千切れ、余韻など何も無く橋に居た人間が一瞬で消え失せる。
「ナユタ……っ」
思わず手を伸ばすが、届くはずも無かった。レフィの目の前で、二人の追っ手を巻き添えにしながら、ナユタは渓谷の底に落ちていった。
最後に見えたのは、レフィに向かって朗らかに笑い手をかざす青年の姿だった。
「ナユタ…………」
恩人の消えていった先を見送ることもできず、レフィはその場から退き矢の届かないところまで走る。
かつては自分の目的のために殺した男だった。剣で袈裟懸けにして鎖骨と肋骨を砕いた。狼に食わせるべく瀕死の彼を森の地面に投げ捨てた。
「レフィ! 大丈夫……!?」
「ええ、ただ……ナユタが」
それにも関わらずへらへらと笑って再び自分の前に姿を現し、へらへらと自分達の頼みを聞き入れ、へらへらと助けを呼ぶため死に、へらへらとアマラを庇い死に、そして今、へらへらとレフィを庇って死んだ。
「……そうでしたか、分かりました。失礼な言葉ではありますが、彼ならばきっと大丈夫でしょう……行きましょう、レフィ」
「…………、はい」
僅か数日で為政者のごとく気品と風格を身につけた少女は悲しげに目を伏せるものの、それ以上の感傷を表には出さなかった。そして立ち上がり、レフィに手をさしのべる。
「いつか恩をお返しできることを願いましょう。今わたし達がすべきことは、彼が作って下さった血路を進み命を繋ぐことです」
レフィは頷きながらアマラの手に縋り立ち上がる。
「行きましょう」
「……はい」
そして、歩き出すアマラ。もはや振り返りはしなかった。レフィもそれに従う。
「ありがとう――ナユタ」
ただその一言だけを置き去りにし、未来へ命を繋ぐ使命を負った赤毛の女騎士は一歩を踏み出した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「――それで、ナユタはどうなったの?」
「それで、おしまい。さあ、もう寝なさい」
「えー……」
不満そうにむくれる少年。アマリアは愛らしい巻き毛を優しく撫で下ろし、額に口付けを落とす。
ろうそく一本の灯りで優しく照らされる寝室。寝台には幼い少年がとろんとした顔をして傍らのアマリアを見上げていた。
父親にも母親にも似た、利発で優しい男児だった。まん丸な瞳はアマリアと同じすみれ色をしており、確かな血脈の繋がりを感じさせた。
「その後、お母様とわたしは大叔父様のお城に行ってそこで暮らさせてもらって、あなたが生まれたの。お乳をやって、おしめを替えて……はいはいして、立って、歩き始めて……あっという間に、今になってしまったわ」
「ぼくもナユタに会いたかったなあ。どんな人?」
「そうね……不思議な人よ。栗毛をしていて、優しくて、面白くて……。
生きていれば、いつか会えるかもしれないわ。そのときはわたしとお母様の分のお礼もお願いね」
「死んだら、父様と母様に会えるけど、ナユタには会えない?」
甥の頬を撫でていたアマリアの手が止まる。
一瞬目を泳がせるが、やがて笑みを取り戻し、静かに囁く。
「……そうね。生きていないと、会えないわね。
ナユタはきっと今もどこかで元気に暮らしていると思う。お母様とお父様に会うのはうんと後、あなたが大きくなって立派になって、おじいさんになってからでいいのよ。命はとっても大事に繋げていかなければならないの」
「分かった。おやすみなさい。おばさま」
素直に頷き毛布にもぐり込む幼子にありったけの愛おしさを込め、アマリアは再びキスをしてからゆっくりと立ち上がった。
「おやすみ、ひばりの王子様」
産後の肥立ちの悪さから命を落とした義姉の代わりにその赤子を育て慈しんできた亡国の王女はろうそくに覆いを被せ、静かに灯りを消した。
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