【3】海辺にて


 ――これは、一人のひたむきな求道者に命を貸したナユタの話。



 海辺の風がぶつかり、ねっとりと肌を撫でてから次の獲物を探すかのように素早く去って行く。生ぬるいそれらを振り払うように身震いしてから、ナユタは大口をあけて欠伸する。

 太陽が水平線の縁から顔を出し、見る間に空へと上っていく。赤みを帯びていた空はやがて青き清浄な色へと染まり治し、一日の始まりを傘下の数多の生命へと報せていった。

 寝癖のついた頭をぼりぼりとかきながらそのまま岸辺で待っていると、やがてギイギイと音を立てて、先ほどまで遠くで波間に揺れていた小さな手こぎの船が眼前まで戻ってくる。

「おはよ。おかえり。おつかれさま。釣れた?」

 挨拶を並べたナユタに、船の漕ぎ手は満面の笑みで返してきた。

「大漁だ!」

 鼻息を荒くしてそう宣ったのは、青年のナユタの父親くらいの年の頃をした、小太りの男だった。男は砂浜まで小舟を引きずり上げた後、船底に置いてあった魚籠を持ち上げ、ナユタに示す。

「わあ、大漁だあ」

 言葉こそ喜ばしくしているものの、ナユタの顔色はけして明るいものではない。

「7匹だ! これだけあれば相当料理できるぞ!」

 自慢げに魚籠をかざす男。朝日にくすんだ金髪が映える。

「本当だねぇ……」

「早速帰って始めるぞ!」

 そう言って、男は意気揚々と砂浜を上っていく。その先には小さな林と、木造の小屋があった。

「腕によりをかけて絶品の料理を作ってやるからな!」

 背後のナユタに聞こえるようにそう叫ぶ男。ナユタは「はあい」と返事をしながら、肩をすくめた。

 やがて男が小屋の中に消え、その場に残されたのはナユタ一人となる。ざあざあと潮騒の音が続く中、ナユタは風に紛れるように呟く。

「参ったね、今日は7回か」

 小屋に向かう足がひどく重い。その理由は明白だった。あの男に殺されるからだ。男が釣ってきたのは、何者も食することが叶わない猛毒を抱く魚だった。

 七回、あるいはそれ以上の回数苦しんで死ぬことが確約された不死の男ナユタは、せめて料理が美味であることを願いながら、毒味役として従容として男の待つ小屋へと向かっていった。




 男の名はケスローといった。

 もとは西世界のとある王宮に召し抱えられた料理人だったそうだが、宮廷内の内紛に巻き込まれて、身一つで市井へと放り出されたのだという。

 培った料理の腕は彼の生活を助けた。豪奢な材料が無くとも素晴らしい味を生み出すことのできる彼は、一所に居所を定めることもなく、様々な地方で見知らぬ味を求め放浪しながら、路銀に困ればそこらの厨房に混ぜてもらいしばらく逗留し蓄えを作り、再び新たな食材を探すべく旅に出るということを繰り返していた。

 そして、この東の海にたどり着いた。

 東世界の果て。山と砂浜の繰り返す、入り組んだ海岸線をした地域だった。海には魚が豊富で、素人が釣り糸を垂らすだけであっという間に食いつき獲物を得ることができるくらいだった。

 だが、そうして釣った魚は人間が食すことのできる代物ではなかった。

 エルスト湾。入り組んだ地形をしたこのあたり一帯を指す名は、毒の海として名高い場所でもあったのだ。

 釣り上がる魚は大小問わず全て毒魚。見てくれこそよその海の幸と変わらぬものの、ほんの少しでも食した者はたちどころに倒れ死に至る。そんな物騒な魚しか居ない、人間にとっては死の海にも等しいところだった。

 ケスローとて死にたいわけではないし料理を食わせた相手を殺したいわけでもない。だが、ナユタとの不意の邂逅、そして地元に残っている僅かな伝承が、彼を奇妙な求道の方向へと導いてしまったのだった。



「ふむ、皮も駄目、はらわたも駄目なのは分かっているとして」

 ケスローが興味深そうに足下をのぞき込みながら呟く。

「どうやら、他にも取り除く必要があるようだな」

「……、……っ」

 その足下には、もがき苦しみ床と踊っているナユタがいた。喉をかきむしりぱくぱくと空気を求めるかのように口を開く。泡状の血がその端から漏れ出し、床に垂れて不気味な形を作った。

「骨だろうか?」

「……!」

 人ひとりが苦しんでいるというのに、ケスローは全くそれに構うことなく問いかける。だが死に瀕しているナユタに応えられるはずもなかった。

 ナユタは今、ケスローが試しに調理した毒魚を食べたところだった。薄く切られ香草を添えて出されたそれを咀嚼し嚥下したすぐ後に、ナユタは苦しみ出し椅子から転げ落ちてしまったのだ。

「よし、次は骨周りの身も取り除いてみるか」

 そう言って、痙攣しているナユタを捨て置き、ケスローは厨房の方へと向かっていった。残されたナユタはじたばたと痙攣した末、やがてばたりと四肢を投げ出して絶命する。

 やがて――

「ケスローさん、せめておれの返事くらい聞いてから次の料理法に移ってくれよう」

 何事も無かったかのように蘇ったナユタが床からひょいと立ち上がり、抗弁する。だが既に熱に浮かされたように次の一匹へと向き合っているケスローはナユタの声など聞こえていない様子だった。

「骨というか、もっと何かおれらに見えてないものに毒が入ってるぽいけどなあ……根本的にさぁ」

 しかしナユタの提案は基本的に却下される。彼の味覚は大変に鷹揚で、何でも美味しいとしか言わないせいだ。

「待っていたまえナユタ君。次こそは至上の美味を味わわせてやるからな」

 もはや何十回も聞かされた言葉だった。ナユタは「へいへい」といい加減に返事をして、来る苦痛に備えてつばを飲み込んだ。



 ナユタは死なない人間だった。病気で死んでも怪我で死んでも、殺されても自死しても、瞬く間に元通りに復活する、超常の秘蹟をその身に宿した栗毛の青年だった。その不死生をもてあまし適当に毎日を過ごしている彼が、食の求道者ケスローと出会ったのは、他でもないこの海岸でのことだった。

 純粋な好奇心から毒魚を釣り上げその場で捌いて食べようとしていたケスローを目撃し、慌てて制止したのがナユタだったのだ。

 そしてどうしても食べようとするケスローをもてあました末、仕方なくナユタは彼の眼前で毒魚の刺身を食べ、苦しんで死んだ後、しばらく死んだふりをしていたのだが……ケスローがなおも毒魚料理に未練を見せていたので仕方なくその目の前で復活してみせた。

 普通の人間ならば驚き逃げだしかねないほどのその秘蹟を目の当たりにして、しかしケスローは開口一番こう言った。

「味はどうだ? うまかったか? 食感は? どれくらいで苦しくなるのだ?」

 これにはナユタも動転した。復活の様子を見た人間はたいてい驚きおののき、そして疑う。さらに時間が経てば不気味さに逃げるか、逆に必要以上に興味を持たれてにじり寄ってくる。

 長い長いナユタの人生は、常にそうやってふつうの人間との難しい距離感を保ちながら歩むものだった。毒を食べて味を尋ねられたのは、勿論はじめてだった。


 

 魚は豊富といえど毒の海とあってはそのそばに定住する者は居ない。ケスローの狂気の厨房と化した小屋から最寄りの集落まで半日ほど内陸へと進んだ先にある。ケスローは自身の食糧なども確保する必要があるため定期的に街へと赴いていた。

 その間ナユタは放っておかれたり彼に同行したりと特に行動を定められては居ない。留守番するならでは行ってくると言われ、ついていくと告げればなら早く用意をしたまえと返事が返ってくる。

 何度も何度も毒で苦しみ殺されているのだから、隙を見て逃げ出してもおかしくない状況ではあったのだが、ナユタは敢えてそれをせず、ただひたむきに毒魚を捌き調理する男の酔狂に付き合ってやっていた。

 なぜならば、もしナユタが逃げ出したとしたらケスローはおそらく自身の舌で毒魚料理の試食をはじめてしまいかねないからだ。

流石に他の人間を巻き込みはしないだろうが、はじめて調理しいざ口に入れようとしていたときに見せた彼の輝かんばかりの探究心を思うと、いまさら実験台が失せたとしてもとりあえずそれまでの集大成として料理をして自身でそれを試し――そして毒に苦しむという未来がほぼ確実に訪れることになる。

 そう思うと、ナユタは苦しくても死んでも、自分が付き合ってやらねばならないという気になってしまうのだった。

 そしてもう一つ理由がある。むしろこちらの方が主たるものかもしれない。

 ケスローの料理は、たとえ毒だったとしても、とてつもなく旨いのだ。



 そうして何回の試行と死を繰り返しただろうか。煮る、焼く、揚げる、蒸す、干す、浸ける、そして生食。考え得る限りの部位を考え得る限りの調理法で試した結果、しかし可食部位は見つからなかった。

 毒魚の毒は、まず舌に来る。びりりと痺れた後、やがてそれは喉から全身へと拡がり、心臓すらも止まることによりその役目を全うする。

 さらに皮膚の内側を幾千もの針で刺されるような苦痛すら伴う。少なくとも人間が食べて良い代物ではないのだが、それでもケスローは狂気と紙一重の試行をやめようとはしなかった。

 ある日の晩、死に疲れた――ひとたび生き返れば疲労など残っているわけではないものの、苦痛の記憶だけは残っているので一日に何度も死ぬと流石に疲れるのだ――ナユタが寝床でまどろんでいると、依然として床につかず文机に向かって何やら小さな手帳に細々と書き物をしている様子が見えた。

「何してるの?」

 寝ぼけ声で呼びかけると、顔を上げたケスローは僅かに驚いた様子だった。

「……全ての記録を残しているのだ。わたしが叶わずとも後世の誰かがこの志を継いでくれるべく、な」

 そう言って、再び手を動かし始める。その文字として紙に沁みていく褐色の液体も、この湾でとれた海産物から採れた墨である。

「ケスローさんは、どうして、ここの魚を食べられるようにしたいの?」

「以前……諸国を巡っている際に、料理に関する様々な文献を読んでいた。海など存在しない砂漠の国で、古い文献を見つけた。ここの湾の魚は毒があるものの至上の美味であり、正しく調理すれば王侯の舌すら溶かすことができると」

「ふうん……でも、昔の魚と様子が違ってるのかもね。あの丸っこい魚とか。どこをとっても毒だし」

「その可能性は否めない。だが、ナユタ」

 そう言って、ケスローはゆっくりと寝床のナユタに向き直る。

 文机の上のランプの炎が揺らめいた。その淡い光を背にして、求道者の男は確固とした強い意志を宿した瞳をして、ナユタを見つめていた。

「この場で君と出会えたこと、ただの偶然だとは思えない。

 いや……偶然だったとしても、果然としたい。こんな天佑はきっともう私の今後の人生に訪れることは無いだろう。料理人として、この機を逃すつもりは無いのだ。

 何度も苦しめてしまって済まない。だが罪悪のこころを持ってしまってはきっとこれ以上続けることができない。だから、君の死について責任を感じるつもりはないのだ」

 ナユタは苦笑し、首を横に振る。

「いいよ。苦しいけど、誰かの役に立てることが嬉しいんだ」

「贅沢を言うならば、君が私の弟子になってくれれば何よりなのだが」

「ごめんよ、料理下手で」

 そうして二人して苦笑の末にくつくつと笑い合う。

 これまでナユタは長い生を歩んできた。誰かに利用されたことも、恐れられたことも、恨まれたこともある。そんな中で、自分にしかできないことを求められ、ある意味安穏と美味しいものを食べるだけというこの暮らしはけして悪いものではなかった。

 長い永い人生の中で、少しくらい一所でちんたらと暮らすのも悪くは無い。苦しいのは嫌だけど、美味しいのはそれ以上に嬉しい。そんな単純な考えをして、ナユタはケスローの差し出す毒を余さず食らっているのだった。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 求道と死は繰り返された。

 季節は移ろい、秋、そしてやがて冬へ。エルスト湾のあたりは氷に閉ざされるほど冷え込む地域ではなかったが、それでも朝方には雪がちらつくことも多く、風も強く波も荒れ、小舟で釣りに出るのはかなりの危険を伴った。

 日が昇る前からせっせと海に向かったケスローの船が黒く高い波に隠れて見えなくなったりすると、何度も殺されているナユタではあったがケスローが心配でならなかった。

 その日何とか戻ってきたケスローは、二匹だけ丸い毒魚を携えていた。いつもならば意気揚々と早速調理にかかるケスローだが、今回に限っては魚籠を船から取り出す前に、震えながらまず小屋へと向かった。

 ケスローは波をまともにかぶり、凍るように冷たい空気にさらされて、骨の髄まで冷え切っていた。ナユタは湯を沸かし火を焚き、何とかケスローの身体に熱を戻した。顔は白く唇は青く、すっかり生気を失っていたケスローはナユタの懸命の看病で夕刻頃にはようやく満足に指先までを動かすことができるようになっていた。

「すっかり遅くなってしまった。とりあえず、今から一匹だけでも捌いてみるか」

「……明日に延期しよう、みたいな感じにはならないのね?」

「むろん」

 即答だった。ナユタは、彼のそのひたむきな殺意もとい料理欲をくじくことはもちろんできなかった。



 そしてその夜――彼らはついに一歩だけ前進を果たした。

「あれ……?」

 いつも通りに死ぬつもりで投げやりにスープを飲み干してからさあ来いとばかりに床に大の字になっていたナユタは、いつまでたっても舌が痺れず死の苦痛が訪れないことに気づいた。

「ちょっと、ちょっと待って、ケスローさん!」

 既にナユタが一回目の試食で敢えなく死ぬことを想定して遠方のスパイスを練り込む準備をしていたケスローが、その声に驚き振り向く。

「おれ……生きてるよね?」

「生きている!」

 思わず飛び上がり、ナユタはスパイスの袋を放り出して駆けてきたケスローと手を取り合った。

「ついに……、ついに!」

 ナユタのつま先から頭のてっぺんまでをしげしげと眺めた後、ケスローは感極まって目を潤ませた。

「ついに……宿願が……!」

 目を真っ赤にしてケスローは鼻をすすった。

「どうやったか覚えてる?」

「もちろんだ!」

 そしてケスローはいつもの墨を用いて身を屈めて文机に向かい、熱に浮かされたような顔をして手帳に何かを書き連ねていった。

 だが、不意の福運は、永くは続かなかった。

「よかったねえ」

 にこにことケスローの書き物を眺めていたナユタだったが、少しすると身体の内側の些細な異変に気がついた。

「あ、れ……」

 舌が痺れ始めていた。次いでぐらりと身体が揺れ、やがてナユタは床面へと崩れ落ちた。

「けすろ、さ、……」

 明らかに、それは毒からくる症状だった。いつもよりも発露が遅れた、ただそれだけだったのだ。

「……駄目だったか。今度こそはと思ったのだが」

 失望を顔いっぱいにはりつけて、ケスローが見下ろしてくる。刺すような痛みがあるというのに、指一本すらも動かすことができない。

「いや……、ナユタ、もしかして、まだ生きているのか?」

 ケスローがのぞき込んでくる。確かに、いつもならばじたばたと痙攣した末に迅速に死に至るナユタだが、今回に限っては強い痺れはあるものの血泡も噴いていないし苦痛もそれほどではない。

「ふむ……」

 とはいえ全身が痺れるということは身体の内、臓腑の働きや呼吸すらも衰えることに繋がる。結局は肺に空気が入らなくなり、いつもよりも時間がかかって苦しみながらナユタは死んだ。

 だが、厨房が落胆に満ちることはなかった。たとえ失敗に終わったとしても、確かに一歩前進したことに違いは無かった。

 疲労も苦痛も残っていないものの、起き上がってぐったりとしているナユタに向かって、残りの一匹を取り出し、ケスローは宣言する。

「ナユタ君、悪いがこのまま続けさせて貰う。この感覚を覚えているうちに、確かな手法を確立させたいのだ」

「うん、いいよ。頑張ろう」

 不死者の青年の苦笑と頷きを待たずに、求道者の男は再び調理台へと向かっていった。




 その後も幾度かの試行と錯誤を経た末、ケスローとナユタはついに目的の答えにまでたどり着いた。

 エルスト海の毒魚の死に至るまでの猛毒を無効化できるのは、低温と乾燥だった。

かつて凍死しかけていたケスローが回復するまで砂地に毒魚を捨て置いたことが手がかりとなった。さらに、ケスローの言及していた砂漠の国での文献での記されていた料理も干物に近いものだったため、その二方面に絞って試作を続けた結果、ついにナユタが死なずに済む料理を作り上げることが叶ったのだ。

 内臓や皮を全て取り除いた身を薄く切り、まる二日ほど冬の日差しと風に晒しておいたものは、その後どう調理しようと毒が現れることが無かった。それどころか、ナユタにしてみればそれまで食べていたものよりも味すらも良くなっているように感じられた。

 一日目までは見向きもしない鳥が、二日を過ぎると途端に身を干している籠を狙い出すこともあった。人間には感知できない高度な嗅覚で毒が無くなっていることを嗅ぎ付けているのだろう。浜に打ち上げられ干からびた魚などを同じように毒の無くなったと思しき後に突いて食べていることもあるようだった。

 そうして、ナユタの役目は無事に終わることとなった。

 毒魚の調理法を確立したケスローは誇らしさに満ちた顔で、数え切れないほどの謝辞をナユタに捧げ続けた。皆が美味しく幸せになれる手助けができたという自覚で、ナユタも同じように誇らしさでいっぱいだった。

 だが――そんな誉れの時間は長く続かなかった。



「ケスローさん、どうして……」

 震えるナユタのその言葉に、眼前のケスローは応えなかった。ただ、蒼白な手に握りしめていたぼろぼろの手帳を、ナユタの腹に押しつけてきた。

 いつ頃からか、小太りだったはずのケスローがやけに細くなっていた。調理用の服も身頃があまり始めていた。それが顕著に表れ始めたのは彼の求道が終盤に差し掛かった頃だった。

 ナユタも気づいており何度か示唆したものの、それでも彼は自身で定めた目標までの道を邁進することをやめはしなかった。

 とある月の明るい晩のことだった。かつてナユタが幾度となく美味と死を享受し続けたなじみ深い小屋の中。食卓にはケスローがこさえてくれたささやかな宴を終えた跡が残っている。

 ナユタが毒味の役目を終え、晴れて解放されることとなった前日。成果を携え再び旅に出るはずだったケスローは、しかしナユタに最後の餐を振る舞った後、ぐらりと揺れて床に倒れ込んだ。それはまるで、毒にあたり死に至る途中のナユタのようだった。

「……ここを、読めばいいの?」

 ケスローがろくに動かない指で手帳の最終頁を示していた。薄明かりの中で目を凝らすと、震えながら書いたのか線が乱れて読みにくい字が紙面いっぱいに綴られていた。


 

 ――ナユタへ

 素手で毒を扱い続けていたのだからいつかはこうなることも覚悟していた。君が死ぬ様をゆっくりと辿っているのが自分でも分かっていた。既に手が痺れつつあるが、完全に動かなくなる前にひとまずの完成を自らの手で成し遂げることができたのだから、もはや悔いは無い。

 この覚え書きを、君の見定めた心ある料理人に託して欲しい。何度も苦しませた上で心苦しいが、死にゆく者の最後の頼みをどうか叶えて欲しい。

 いつか、この料理が再び遠くの世界にまで届くことを願っている。

 いままで、ありがとう。



 手帳から目を上げると、既にケスローは力なくただ横たわっていた。四肢に張りは無く、腹は窪んだまま動かない。物言わぬ骸と化した男はしかし、一つの目標へとたどり着いた誉れに満ちており神聖さすら感じるほどだった。

「ケスロー、さん……」

 おそらくは数日前から死に瀕していたというのに、ナユタの前では苦しい顔一つせず、頬の落ちるような料理をいくつも振る舞った上で、ついに力尽きたのだ。

何という強靱な精神力なのだろうか。ナユタは戦友のように暮らした相手にしばしの祈りを捧げた。

「ありがとう、人の役に立てて嬉しかった。美味しい料理を一杯食わせてくれて幸せだった。お礼を言わないといけないのは、おれの方だよ」

 一度きりの人生を、その価値を十分に知りながら眩い閃光のごとく力強く駆け抜けた男だった。ナユタは涙を拭い、がむしゃらに笑顔を作って、感謝の言葉を告げたのだった。



 ナユタがその地を発ったのはそれから三日後、ケスローの亡骸を丁重に葬って、小屋に火をつけ完全に燃え崩れ落ちたのを確認してからのことだった。自分達がこの小屋を後にしてから、調理場などに目に見えないながらも毒が残っている可能性もあるため、誰か事情を知らない人間が迷い込んでしまわないようにと元よりケスローと決めていた事項だった。

 浜にほど近い場所に戦友の亡骸を埋め、心ばかりの墓標を立てた。それを最後にもう一度見舞ってから、ナユタは海を離れ内陸を目指し、再び流浪の旅の生活へと戻ろうとしていた。

「ケスローさんの料理の味は、きっとこれから何度死んでも忘れないよ」

 旅立ちにふさわしい、冬の終わりの近い温かい日差しの日だった。澄んだ空気の先に、西世界への敷居のごとくそびえる気高い山脈が朧気に見えた気がした。

「よし、次はあっちに行ってみるかあ」

 嘯いてから、ナユタは一歩を踏み出した。その手にはもちろん、一人の求道者が作り上げた結晶たるぼろぼろの手帳があった。

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