第三十八話:始まりの森

白灰の床に広がった波紋は、やがて静かに消えていった。

残されたのは、胸の奥で灯り続ける小さな光――“誓い”が確かにあったという確信だった。


私は震える手で涙を拭い、深く息を吐いた。

喉の奥がまだ張り付いたように痛い。けれど、呼吸のたびに少しずつ胸に空気が戻っていく。

先ほどまであれほど圧し掛かっていた孤独は、完全に消えはしない。

けれど――今の私は、その重さに膝を折られるばかりではなかった。


足音が廊下に戻る。

白灰の床を叩く小さな靴音は、孤独を刻む音でもあり、前へ進もうとする意志の証でもあった。


胸に揺れるサファイアのネックレスが、歩くたびにかすかな音を立てる。

それが唯一、私を繋ぎ止めてくれる確かな証。

その冷たい輝きは、触れれば必ず温もりを返してくれる。

私はその存在を確かめるように何度も指先で触れた。


(……進まなきゃ。ここで立ち止まっていたら、きっと何も掴めない)


そう自分に言い聞かせながら、庵の奥へ歩を進める。

廊下はどこまでも同じ景色の繰り返しに見える。

けれど――今は違った。

わずかに漂う空気の重なり、その奥に微かに揺れる波動。

それが、私をある一点へと導いていた。


やがて、見慣れない扉が現れた。

白灰の壁と同じ色で覆われていて、今まで気づけなかった扉。

まるで庵そのものが、私に「見せまい」と隠していたかのように。


だが今はわかる。

胸のサファイアが、淡く揺れた気がした。


「……ここ……」


震える声で呟き、私は手を伸ばす。

扉は冷たかった。石のような硬さと、何処か水面に触れるような柔らかさを併せ持つ不思議な感触。

指先に伝わるそれが、私の躊躇を試すかのようにじんわりと沈んでいく。


私は息を整え、軽く押した。

次の瞬間、きぃ……と低い音を立てながら扉は内側へと開いた。

白灰の壁を裂くように、光の筋が走る。

わずかな明かりが、閉ざされた空間に道を作った。


その先にあったのは、私が探している人の痕跡だった。


「……やっと……見つけた」


拭ったはずの涙が、また溢れだす。

けれどそれは、孤独や絶望に押し潰される涙ではない。

――私の世界に、あなたは確かに居るのだと確信できたから。


震える手が、その痕跡に触れる。

不自然に寝台に置かれた、黒く艷やかなローブ。

重く、柔らかで、わずかに冷たい。

私が着たら、頭から足の先まで隠れてしまうほど大きなローブだ。


「……ファル……」


胸が詰まり、言葉が続かない。

けれどその名を呼ぶだけで、心の奥に温もりが広がる。


ローブを抱きしめる。

その瞬間、全身を包む黒布の奥に、彼の気配が染み付いているような錯覚に囚われた。

血の匂いも涙の熱も、もうどこにも残ってはいない。

けれど、私が必死に抱き止めた記憶だけが鮮明に蘇る。


宝物を抱きしめるように、私はその大きなローブを胸に包み込んだ。


(絶対に……諦めない……)


それは、彼が確かにここに存在していたという証を私に示してくれた。

そして、サファイアのネックレスが僅かな熱を持ち、まだ繋がりが途切れていないという希望をくれる。

『何があっても護ります』そう言ってくれている気がした。


私はしばらく、その温もりに身を委ねていた。

庵の静けさは変わらない。

けれど、不思議と孤独を削り取っていたはずの沈黙が、今は私を守るように優しく寄り添っている。


やがて、涙が乾いた頃。

私は静かにローブを畳み直し、寝台に戻すと、その感触を忘れないよう掌で撫でた。

それは決して置き去りにするためではない。

未来を信じての、約束の仕草だった。



---


旅の支度を整え、庵の扉の前に立つ。

振り返れば、そこにあるのは静寂。

私を閉じ込め、削り、孤独を突きつけてきた檻。

けれど同時に、私に「二人の誓い」を思い出させ、歩き出すための光を与えてくれた場所。


私は扉に手をかけ、ゆっくりと外の光を覗く。

まだ世界は曖昧で、庵の結界に守られているのか、空気すら透明なままだ。

けれど確かに、そこには広がりがあった。


振り返り、小さく微笑む。


「……行ってきます」


それは、ただの別れの言葉ではない。

ファルと一緒にこの場所に帰ってくるという、私の覚悟の宣言だった。


庵の外に一歩を踏み出す。

足元の白灰の床が消え、代わりに草の柔らかな感触が靴底を支えた。

その瞬間、世界の音が私の耳に届く。

風の音、鳥の囀り。

全てが私を応援しているように感じる。


(待っててね、ファル……必ず……)


小さく呟き、私は前を向いた。

私が立っていたのは、あなたと初めて会った場所。

"私"の始まりの場所。


静寂の庵は背後に溶け、精霊の森の中を私は歩き出す。

それは荒れた道ではない。

精霊に歓迎された"彼"と同じ道だ。


拳大の光の玉が私の周りを飛び回る。その光は羽根のようにきらめき、空気を震わせるように囁いた。

風の精霊アイレーナの『いってらっしゃい』という声が聞こえた気がした。

その声は頬に風となって触れ、私の背を優しく押してくれた。



孤独の檻を越え、約束の灯火を胸に抱いて――私は新たな旅路を歩き出した。

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