第三十九話:ただいまの場所

森を抜けた瞬間、世界が広がった。

けれど胸の奥は広がるどころか、反対に押し潰されていく。


木々のざわめきは途絶え、代わりに風が草原を撫でる音が耳を満たす。

遠くに広がる畑は黄金色に染まり、鳥の群れが自由に空を舞っていた。

それは確かに、命に満ちた風景。

なのに――私は一人きりだった。


足を前に出しても、重さばかりが増していく。

ファルが隣にいたときには、こんなに心細くなかった。

魔術師団にいた時は帰り道があった。

でも、今は、帰りたい場所があるのに"道"が分からない。


「……っ」


目を閉じた途端、鮮やかに蘇る。

崩れ落ちた彼の身体。

腕の中で熱を失っていく感触。

血の匂いが鼻腔を突き、喉に苦いものが込み上げる。


(夢じゃない……全部、本当だった……)


立ち止まる。

息が詰まり、背中を押すものが何もない。

世界の色が薄れていくようで、心がまた壊れそうになった。


そのとき、遠くから人の声がした。

農夫たちの笑い声、子どもが駆け回る足音。

確かに、人の営みはここにある。

けれどその賑わいに、私は混ざれない。

声をかけることもできず、ただ通り過ぎていく。


「……私だけが……置いていかれてるみたい」


胸がきしむ。

孤独は景色よりも、そこに溢れる“他人の温もり”によって深く突きつけられる。


私は胸元のサファイアのネックレスを両手で握りしめた。

その冷たさは、現実を確かに繋ぎ止めてくれる。


「……ファル……」


名前を呼んでも、返事はない。

ただ、石がほんのりと温もりを返した気がした。

それは私の錯覚かもしれない。

けれど――その錯覚に縋るしかなかった。


(一人じゃない。あの人は、確かに私の傍にいた。……)


夜は嫌だ。

綺麗な星空が、あの日と変わらない世界を広げるから。

目を瞑ればあの光景が瞼の裏に浮かび、眠れない。


(歩こう…)


夜通し歩いた。馬も馬車もない

足が重い。座ってしまいたい。このまま横になって寝てしまいたい。


朝日が山の上から顔出すのとどちらが先か、風が髪を揺らし、視界の先に故郷の丘陵が見えてきた。

胸の奥の穴は塞がらないけれど、それでも私は足を動かす。

歩かなくては――。


揺らぐ孤独を抱えたまま、私はフェリシアへの道を進んでいった。



---


長閑な風景だ。

野をかける野ウサギ、日に照らされて光る畑の小道――どれも二人で来たときと変わらない。

変わったのは、畑の収穫が終わり、見通しが少し良くなったくらいだろうか。


けれど胸の奥には、旅の重さがまだ残っている。

身体の疲れなのか、心の疲れなのか私にはもう分からない。

サファイアのネックレスを指先で確かめながら、私は深く息を吸い込んだ。


私の両親は、ファルを知っている。

あの人の存在を知っている。


――歴史に記された「最後の皇帝ファルネーゼ」だけでは足りない。

ただの伝説や物語ではなく、私が見た“彼”を、私以外の誰かにも認めてほしい。


その想いだけが、今の私をこの場所へと連れてきた。


村の入り口に一歩足を踏み入れた瞬間、土の匂いが鼻先をくすぐる。

懐かしい声と風景が、胸の奥の何かを優しく揺らした。


「……サラちゃん?」


耳に届いた声に、思わず足を止める。

久しぶりに名前を呼ばれた気がした。

たったそれだけで、涙が溢れそうになる。


(私……まだ弱いままだ……)


「……ただいま」


震える声で答えながら、自分の顔に触れる。

今の私は、笑っているのか、泣いているのか――自分でもわからなかった。


「おばさん……ごめんなさい。疲れてるから……」


そう告げて、重い足を一歩ずつ前に進める。


静寂の庵を出たとき、私は進む覚悟をした。

けれど森を抜けた瞬間、心はまた不安に押し潰されかけた。


待っていれば、彼は帰ってくるのではないか。

そもそも――全部夢だったのではないか。


眠ろうとして目を閉じる度に、崩れ落ちたファルを抱き止めた瞬間が蘇る。

その感触も、血の臭いも、あまりに鮮明で……夢と現実の境界が曖昧になっていく。

目が覚めるたびに絶望が押し寄せ、私の決意を少しずつ削っていった。


気づけば家の前に立っていた。

けれど足は竦み、怖くて動けなかった。

もし――両親がファルを知らなかったら?


(進め……進め……進んで!)


心の中で必死に叫ぶのに、膝は笑い、手には力が入らない。

「ただいま」と言葉を紡ぐことすら、できなかった。


「サラ?」


背後から、お父さんの声がした。


「……ぅん」


「母さん! サラが帰ってきたぞ!」


私の小さな返事はお父さんの声にかき消され、代わりに家の扉が開いた。

お母さんが顔を覗かせる。


目が合った瞬間、唇が震え、喉にぎゅっと力がこもる。

目尻が熱くなり、堪えていた涙が一気に溢れた。


「サラ!?どうしたの!?」


お母さんが驚きに目を見開く。

私は答えられなかった。

ただ、声を上げて泣くしかなかった。


小さな子どものように。

迷子が親を探し当てたときのように――。


お母さんが私を抱きしめようと手を伸ばした、その瞬間、全身の力が抜けて膝がガクンと落ちた。

倒れかけた私を、お母さんとお父さんが同時に抱きとめる。

縋るものを見つけた私の手は、力が抜けた身体とは裏腹に、必死に両親の服を握りしめ、皺を深く刻んでいた。



-----


両親は私が泣き止むまでずっと寄り添い続けてくれた。


何も聞かず、何も言わず、ただ傍にいてくれた。


「……ごめん…私………」


漸く言葉が出ても、何を言えばいいか分からない私を、お母さんの細く優しい腕が抱き寄せる。


それは、私の脆い部分を補ってくれる温かさだ。


「おかえり…サラ」


私にはここにも帰る場所がある。

そう思ってまた涙が溢れてきた。


「ただいま…ただいま………」


私の視界の隅で、サファイアのネックレスが日の光を受けて光る。


その光が、私に"ここで止まってはいけない"と教えてくれる。


そうだ、違う。

私が「ただいま」と「おかえり」と言いたい相手はここにいない。


私はネックレスを優しく手で包み、胸に押し当てた。

慈しむように、想いを溢さないように。

"彼"の温かさを、忘れないように。


目を瞑り、呼吸を整える。

それは私だけの儀式、また私が立ち上がるための。


深く息を吐き、ゆっくり顔をあげる。

視界はまだ滲んでいる。

それでも、前を向こう。


私は両親の顔を見た。

何かを察したように2人が笑顔で頷いてくれた。 

私を心から愛し、信頼してくれている目だ。



「…お母さん、お父さん……私……ファルが好き。……だから……どんなに苦しくても、進むよ」


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黒の約束〜魔術師サラの探しもの〜 @kh262728

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