とある死刑囚の独白

A1n_06

とある男の人生

 仕事を終えて会社を出たのは、いつもより少しだけ早い時間だった。

 週末前の金曜、空はまだうっすら明るくて、街の方へ伸びる道には人の流れができていた。

 俺はその流れとは逆に、人気のない裏道を選んだ。――早く帰りたかった。ただ、それだけだった。


 その道には、いつも湿った空気が漂っている。近くにあるのは古いアパートと、少し先のゴミ捨て場くらい。

 車の音もほとんど聞こえない。ただ、靴の底がアスファルトを叩く音だけが妙に響いていた。

 その音に紛れて、ふと、何かが混じった。

 最初は風かと思った。けれど次の瞬間、確かに誰かの声がした――かすれた、助けを求めるような声。

 立ち止まり、息を止めて耳を澄ます。

 ……静かだった。風も止まり、周りの空気が急に重くなった気がした。

 どこか遠くで金属が転がるような音がしたが、それもすぐに消えた。

 気のせいだ、と自分に言い聞かせて歩き出した。けれど背中のどこかが、ずっとざわついていた。


 家に着くと、玄関の灯りがついていなかった。

「珍しいな」と思ったけど、すぐに買い物でも行ってるんだろうと自分に言い聞かせた。冷蔵庫を開けて水を飲み、テレビをつけて、ソファに沈み込む。チャンネルをいくつか変えたけど、どれも頭に入ってこなかった。

 気づけば、二時間が過ぎていた。

 時計の針が十時を指しても、彼女は帰ってこなかった。

 スマホを手に取っても、連絡をする勇気が出なかった。

 何かを確かめるのが、怖かったのかもしれない。

 十一時を過ぎても、玄関のドアは静かなままだった。

 スマホの画面には何の通知もない。通話履歴を開いて、彼女の名前をタップしかけて、指が止まった。

 呼び出して、もしも出なかったら――その瞬間に何かが壊れてしまう気がした。


 けれど、何もしないまま座っていることの方が、もっと耐えられなかった。

 俺は上着を掴み、外に出た。夜風が顔に刺さるほど冷たかった。


 最初は近所のコンビニを見に行った。

 あの人はよくアイスを買いに寄っていたから。

 でも、店員は首を振るだけだった。「さっきまで誰も来てませんよ」と言われたその言葉が、やけに遠くで聞こえた。


 次に駅前まで歩いた。足が勝手に早足になっていた。

 道を照らす街灯がところどころ切れていて、影の中に何かが動いたように見えて、

 そのたびに心臓が跳ねた。スマホの時計は、いつのまにか深夜一時を回っていた。


 もう一度、家の方へ戻ることにした。

 その途中――ふと、あの裏道が頭に浮かんだ。

 行きも通った、あの人気のない道。

 さっき、あのとき、確かに何かの声が……。足が勝手に向かっていた。

 夜の空気は昼間よりもずっと重たく、呼吸をするたびに喉の奥がひりついた。

 ゴミ捨て場の手前で、鼻を刺すような臭いがした。

 そして――俺の時間は、そこで止まった。


 声も出なかった。

 何を見たのか、どこまで見えたのか、今でも思い出せない。

 ただ、その場から動けず、手だけが震えていた。

 を見た瞬間、世界の色が音もなく消えていった。


 ◇ ◇ ◇


 ……なんで……なんで、こんなことに……!

 俺は立っていたのか、座っていたのかも、覚えていない。

 光が眩しすぎて、視界が裂けるようだった。

 誰かの声が耳を突き抜けた気がした。でも、何を言われたか、頭が受け付けない。


 そして……数字を見た。

 二億。二億だと――!?

 ――なに、それで済むと思ってんのか!

 金で命を、あいつの存在を……決めやがったのか、あいつの価値を!


 怒りが全身を貫いた。

 心臓が破裂しそうで、声が出るかと思った。

 涙が勝手に頬を伝った。でも、それさえ怒りの炎に変わった。

 俺を見下して、金を渡す奴ら――憎い、憎い、憎い!

 全員、全部、壊してやる……!!


 そして俺は、思った――

 絶対に、絶対に許さない。

 あいつを奪った奴ら、俺の目の前で、俺の手で……

 死ぬほどの苦痛を味わわせてやる――!


 復讐だ。

 今、心臓を握り潰すほどの怒りとともに誓う。

 あいつのために、あいつを奪った奴らを……この世から抹殺する。

 絶対に、誰一人として、逃がさない。


 俺の全てを失ったとしても――――――――――――

 …必ず殺す!


◇ ◇ ◇


 日が変わるたびに、心はあいつに支配されていった。

 仕事をしていても、電車に揺られていても、視界の端にいつもあいつの姿があった。笑った顔が浮かぶたびに、俺の胸は焼けた。

奪った奴らの顔も、あいつと重なる。

 ――全部、全部、消してやる。


 手帳に書き込む指先は止まらない。

 加害者の名前、行動パターン、勤務先や帰宅ルート。

 細かい時間まで書き込んで、失敗の余地をゼロにする。

 でも、計算を進めるたびに、胸の奥で怒りの炎が燃え盛る。

 冷静さと激情が交互に襲い、頭の中が爆発しそうだった。


 友達と会うこともなくなった。

 誰かに話しても理解されない。

 電話もメールも、全部遮断した。

 俺の世界には、あいつと、奪った奴らの顔だけが残った。

 孤独は深い闇のようで、怒りをより鋭くした。


 夜になると、街を歩きながら計画を反復した。

 この店を通ると誰がいる、あの路地は逃げ道になる、ここで監視すれば完璧だ……

 頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。

 足音、呼吸、ドアの開く音、全てを想像して、手に汗を握った。


 そしてある瞬間、ふと気づいた――

 俺はもう、計画なしでは生きられない。

 あいつを奪った奴らへの怒りが、毎日の生活に組み込まれて計画を立てる事が日常になっていた。呼吸の度に燃えるような痛みが走る。

 でも、その痛みが、あいつを思い出させ、俺を突き動かした。


 あの夜から数日、俺は一度も眠らなかったわけではない。

 でも夢の中であいつの顔が笑い、奪った奴らの姿が浮かぶたびに目を覚ました。

 一人目を終えたときの、あの心臓が破裂しそうな感覚――

 それを忘れないように、胸に刻んだ。


 ――この手で、必ず終わらせる。

 全てを完璧に計算し、全てを抹消する。

 あいつのために、あいつの笑顔のために、俺は止まらない――絶対に。


 ◇ ◇ ◇



 夜の街は、いつもより静かだった。

 風の音が耳に鋭く刺さる。

 足音を抑えながら、街灯の影を辿る。

 一歩一歩が長く、重く、心臓の鼓動が耳まで響く。


 目の前のビル。加害者の一人が、いつも通り帰宅する時間。

 俺は影に隠れ、呼吸を整えた。

 手のひらは汗で濡れ、指先が微かに震える。

 怒りは燃えているのに、今はそれを押さえ込む。

 少しでも動揺すれば、全てが台無しになる。

 通りを歩く人影。犬の鳴き声。風で揺れる看板。

 すべてが鋭利な刃のように感じられた。

 時間がゆっくり、ずるずると伸びていく。

 俺はただ計画通りに、静かに、確実に進むしかなかった。


 角を曲がる瞬間、彼が目に入った。

 いつも通りの無防備な姿。

 怒りが胸に湧き上がり、全身の力がみなぎった。

 でも、息を呑んで堪える。

 今は冷静であることが、何よりの武器だ。


 一歩、また一歩――影に紛れ、距離を詰める。

 指先で道具を確かめる感触が、心を落ち着ける。

 すべてが計算通りに進めば、誰も助からない。

 助けを求める声も、怒鳴り声も、すべて俺の掌の中で消える。


 闇に紛れ、時間が止まったように感じる。


 ◇ ◇ ◇


 動揺すれば計画は崩れ、失敗は許されない。


 角を曲がる。背筋に寒気が走る。

 あいつの目の前に立つ瞬間、全身の毛穴が開いた。

 怒りと恐怖が混ざり、心臓が早鐘を打つ。

 だが、俺は深呼吸して抑え込む。

 今、全てはこの手の中にある。


 呼吸を殺し、距離を詰める。

 影の中で心の炎を燃やしながら、冷静に、正確に。

 すべてが計算通りに行けば、この二人目も……


 俺は、あいつを奪った全ての存在を、この手で終わらせる――絶対に。


 ◇ ◇ ◇


 手から血が滴り落ち、手袋の中にまで染み込む。

 ……俺が、殺した。

 血を見た事で人を殺した実感が湧いたが、それだけだった。

 一人でも殺せばこの復讐心も収まるかと思っていたが、

 結局復讐心は収まらず、俺の心は次の獲物を寄こせと叫んでいる。


 心に従って次の獲物を狩るべく、俺はその場を後にした。


 ◇ ◇ ◇


 二人目は、一人目とは違うタイプだった。

 用心深く、油断が少ない。

 だから、慎重に動く。

 街を歩く姿を遠くから観察し、帰宅ルートや日常の癖を書き込んだノートを見る。

 この時間、あいつはこの道を通るはずだ。


 道の先であの男が歩いているのが見える。

 もう一人が殺されたことを彼はまだ知らないのだろう。

 いつも通りのふざけた姿で通りを歩いている。

 俺の血は熱くなったが、息を整え、心を殺した。


 一歩一歩、影を伝うように近づく。

 胸の奥では怒りが熱を帯びて燃え上がる。

 けれど、表面上は冷静に、計算通りに動く。


 足音を消し、影に溶け込む。

 呼吸を制御し、指先で道具を確かめる。

 計画通り、すべては冷静に。

 少し冷静になり、また一歩、もう一歩――距離を詰める。


 街灯が揺れるたび、心臓が跳ねる。

 風の音、車が走り去る音、酔っ払い達の声。

 すべてが鋭利な刃のように俺を刺激した。

 でも動揺はない。すべて計算済みだ。


 目の前に立った瞬間、俺は心の中で叫んだ――

「これで終わりだ。あいつのために、絶対に終わらせる!」


 そして、すべてが完璧に決まった瞬間、

 怒りと緊張が一気に解放された。

 静寂が残り、夜が深く沈む。

 俺は、あいつを奪った全ての存在を、この手で葬った。


 ◇ ◇ ◇


 夜の静寂が、何か重たいものを胸に落とすように感じられた。

 俺はその場に立ち尽くし、深く息を吸った。

 全てを終えたはずなのに、胸の中は不思議と空虚なものだった。


 その時、偶然近くにいたお兄さんの目が、俺を捉えた。

 驚きと恐怖が入り混じったその瞳を見て、初めて自覚した――

 俺は、恐れられる様な事を、あいつらと同じような事をしてしまったのだ、と。


 体が震えた。怒りや復讐の熱は、瞬く間に冷め、胸に冷たい現実が押し寄せる。

 そして、お兄さんが持っていたスマホを見て、こう言った。


「……スマホを貸してください。警察に連絡…自首します…」


 お兄さんは少し驚きながらも、うなずいてスマホを手渡してくれた。

 俺はその手に持ったスマホで、全てを告白した。

 冷静に、しかし心の奥ではまだ怒りと悲しみが渦巻き、言葉に詰まりそうになるのを必死で抑えた。


 こうして、俺の手で終わらせた復讐は、法律の前に裁かれるために、自らの手で報告されることになったのだ。

 夜は深く、街灯の光は遠く揺れ、俺の心もまた、微かに揺れていた。


 ◇ ◇ ◇


 警察に連絡し、自首した夜、冷たい手錠の感触が現実を突きつけた。

 怒りと悲しみ、虚無感と安堵――複雑な感情が、胸の中で絡まり合った。


 裁判は想像以上に早く進んだ。

 俺は全てを告白し、罪を認めた。

 死刑宣告を受けた瞬間、驚きも恐怖も、ほとんど感じなかった。

 ただ、彼女を失った怒りと悲しみが、静かに胸に残っただけだった。


 刑務所では孤独な時間が流れた。

 俺は自分の貯金を孤児院や恵まれない子供たちに寄付し、少しでも誰かの助けになればと願った。それは、俺なりの償いだった。


 そして、出版社を通じて、この物語を小説として世に出すことにした。

 文字にするたび、俺は彼女の顔を思い浮かべた。

 これで、彼女と、同じ場所に行けるとは思えないが、少しでもその可能性が上がるのならば――そんな思いが胸にあった。


 最後の瞬間、執行室の光が目に入る。

 恐怖や後悔はもうなく、ただ静かに、深く息を吐いた。

 心の中で、彼女に語りかける。


「終わったよ、佳奈。

 俺の人生は無駄だったかも知らないけど、

 どこかこことは違う場所でまた会えたら嬉しいなぁ…」


 そして、全ては終わった。

 暗闇の中で、俺の存在は消え、ただ彼女の記憶と、残した物語だけが残った。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


『君と世界がマワル時。』の合間に少しずつ書きました。

 この作品を書いている時、もし自分が同じ立場になったらどうするかと考えてしまい、疲れました。ゲームでのSAN値が削れる感覚が現実にあれば、きっとこんな感じだと思うような精神状態になってしまい大変だった事をここに記載しておきます。


(´-ω-`)この作品を書いたことで落ち込んでしまったメンタルはイッヌを見る事で癒します。…イッヌは可愛いハッキリ分かんだね(見て来た)


(・ω・)ノ よろしければこちらも見て下さい。


 君と世界がマワル時。

 https://kakuyomu.jp/works/16818622176528032497


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