第一章

第1話 朝

朝の通勤電車。ぎゅうぎゅう詰めの車内で、天野真は吊革につかまりながら、

「…今日も会社に行きたくないな」と心の中でため息をついた。


周囲を見回すと、押し合う人々の間に微かなため息や、スマホを覗き込む真剣な眼差しが交錯している。外の光はまだ柔らかく、窓ガラスに反射した街の景色がぼんやり揺れていた。天野は、押し付けられる感触と、隣の人の腕に肘鉄を食らう微妙な痛みを感じながら、ますます気分が重くなる。


目の前の二十代後半くらいの青髪の男が、満員電車の中でスマホゲームに夢中になっていた。周囲を気にする様子もなく、肘で他人を押しのけながら、指をせわしなく動かしている。ドアが開いても、微動だにしない。


天野は心の中で毒づいた。

――さっさとどけよ、このクズが。


心の奥では、今日一日のやる気のなさ、上司の理不尽、同僚の妙な笑顔、そして部下の無責任さがぐるぐると渦巻く。朝の混雑のなか、まるで小さな戦場に迷い込んだかのような気分だ。


アナウンスが流れる。

「歩きスマホや混雑時のスマートフォン操作は、他のお客様のご迷惑となります。ご注意ください。」


その注意喚起の声も、車内の誰も聞いていないようだった。電車を降りても、ホームでは画面を見ながら歩く人々が列をなし、ぶつかりそうになっては無表情で避ける。まるで、誰も彼もが自分の世界に閉じこもっているかのようだった。


改札を抜けると、ニュースモニターが目に入った。

〈県知事・セクハラ疑惑で不信任も、再選を果たす〉

キャスターの声が続く。

「一度目の不信任決議では世論が無関心で否決されましたが、二度目の不信任では一転、SNSを中心に『けじめを取るべきだ』という声が広がり、可決に至りました。ところが再選挙では、今度は逆に擁護論が急増。『あれは誤解だ』『オールドメディアが偏っている』という投稿が相次ぎ、最終的に知事は再選を果たしました。」


天野は無関心にその報道を聞き流しながら、心の中で小さくため息をつく。

――またか、世の中はいつも同じことの繰り返しだ。


いつもの通勤道路、灰色のオフィス街の中で、ひときわ目を引く白い高層ビル――〈高橋ビル〉が朝の光に反射して輝いていた。そのエントランスから、一人の女性が現れる。


整った顔立ち、白いブラウスにグレーのスーツ。その姿は、この街に似つかわしくないほど洗練され、どこか透明感があった。髪は肩のあたりで柔らかく揺れ、歩くたびに軽やかに風を受けている。


その瞬間、横からスマホを見ながら突っ込んでくる自転車。女性はとっさに避け、バッグから何かが落ちた。小さな金属のカチャリという音が、混雑の中で微かに響く。


天野は反射的にそれを拾い上げる。それは、古い車の形をした小さなキーホルダーだった。手に取ると、ひんやりとした金属の感触が指先に伝わる。


「大丈夫ですか?落としましたよ。」


差し出すと、女性は驚いたように顔を上げ、髪をそっと抑えながら、やわらかく笑った。その笑顔に、朝の喧騒がふっと遠のいた気がした。


「ありがとうございます。助かりました。」


綺麗な人だな。あの高橋ビルの住人か。

――あぁ、天上人ってこういう人のことか。


女性はキーホルダーを手に握りしめ、天野とは別の方向へお辞儀をしながら歩き出す。


天野も会釈をしながら軽く肩をすくめ、心の中で思った。

――まぁ、一生縁のない人だな。


ふとした瞬間、女性は立ち止まり、何かの拍子で天野の後姿を振り返る。

ほんの一瞬、彼女の視線が天野の背中に留まった。その後、再び足を進め、街の流れに溶けていった。

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