婀娜の事典――官能のレンズで

貝塚伊吹

第一項 唇――境界の官能

 世界で最も官能的なもの――それは、唇である。


 それは語るための器官であり、黙すための器官でもある。吸うことも吐くことも、触れることも拒むことも、すべてはここを通して行われる。唇は、人が世界と最初に交わる境界であり、また最後に閉じる門でもある。


 人の口をじっくりと観察したことがあるだろうか。誰でもいい。自分が思う、最も美しい唇を思い描いてほしい。男性のものであろうが、女性のものであろうが、どちらでも構わない。理想を描くとき、性別など気にしている暇はないのだから。


 上下から挟み込むようにして閉じられた口という、内臓への入り口。その正面には、二枚の肉々しい扉がある。上下で形を異にするその対は、見事な調和のもとに結ばれている。上唇は、なだらかな丘陵を左右に描きながら、わずかに前へ張り出し、頂点でかすかな窪みを見せている。それと比べて下唇はどうだろう。上唇よりもさらに柔らかく、ふわりとした滑らかな曲線を描きながら、半楕円のように穏やかでたおやかな弧をつくる。頭上から降るわずかな光が、下唇に上唇の影を落とすその情景は、雄々しく鎮座する富士と、本栖湖の湖面に映る逆さ富士の関係に似ている。


 さらに近づいてみよう。艶やかに濡れた表面は、仄かな温もりと柔らかさを宿し、唇の奥へと誘い込むような溝が櫛比している。呼吸や拍動のたびにわずかに震え、緩みそうになりながらも必死に外部の侵入を拒むその姿は、人の心の奥底に母性や庇護の情を呼び覚ますだろう。唇によっては、渇きの断裂や毛羽立ちが見られるかもしれない。柔らかさを失いかけながらも、なお柔らかく在ろうとするその姿――己の表層を切り裂き、破壊しながらも与えられた務めを果たそうとするその姿――なんと痛ましく、そして美しいことか。切れ目からわずかに滲む赤い血さえ、唇の紅をいっそう際立たせる装飾となる。


 唇とは、常に堅く閉ざされ続けるものではない。門扉が閉じるためにあると同時に、開くためにも存在するように、唇にもまた、わずかな緊張をもって開かれる瞬間がある。その刹那を観察してみよう。ぴたりと閉ざされていた唇は、開く直前、互いを恋しがるように触れ合い続けようとする。わずかな唾液とその乾きが生んだ執着は、使用者の意志――いや、エゴによって無惨に引き裂かれる。そうして分かたれた一対の唇は、美しい弧を描きながら、仄暗い深淵の縁へと開いていく。それはまさしく、「入口」として我々を誘い込むのである。


 ぽっかりと中央に暗い淵をたたえた唇。その外輪に注目してみよう。閉ざされている時とはまるで違い、全方向から引き寄せられるようにして、表面はいっそう緊張を帯びている。ふっくらとしていた厚みはわずかに薄まり、色味は黄みや白みをわずかに増す。櫛比した溝は浅く、広く開いていく。この変化は、出そうとするもの、あるいは受け入れようとするものが大きいほどに強くなる。柔らかく、たおやかだったその様相は、やがて緊張し、震え、微かな怯えを孕んで――さながら、憎女が真蛇へと変じるさまのように思えてしまう。


 ところで、唇のすぐ裏側に何が隠されているか、考えたことがあるだろうか。あの柔らかなもののすぐ背後に潜むのは、人体でもっとも硬い器官――歯である。歯については次項で触れるとして、ここではただ、その対比の妙を味わいたい。触れれば潰え、噛めば砕ける。そんな危うい境界を、唇はただ静かに覆い隠している。湿りを含んだ暗闇の中で、硬と軟、破壊と抱擁が、わずか一枚を隔てて共存している。その均衡を、呼吸と体温のリズムだけが、かろうじて保っている。


 古代の人々は、息を魂と呼んだ。息を吹き込めば生命が宿り、息を止めれば死が訪れる。旧約聖書には、神が土の人にその鼻から息を吹き込み、命を与えたと記されている(創世記 2:7)。――始まりに在ったのは、言葉でも、肉でもなく、息であった。その往還のすべては、唇を通して行われる。唇は、魂が世界へ出入りするための門であり、祈りと絶望の境でもある。誰かに祝福を与える時も、呪詛を吐く時も、人は唇を動かす。唇はそのどちらにも加担しながら、最後まで沈黙を守る。


 ――唇とは、生と死、赦しと暴力、そのあわいに立つ、最古の祭壇である。


 閉ざされた内と開かれた外を繋ぐ、数少ない境界線。

 世界で最も官能的なもの――それはまさしく、唇である。

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婀娜の事典――官能のレンズで 貝塚伊吹 @siz1ma

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