あの日、女になったのは

江藤ぴりか

あの日、女になったのは

 親友は自覚してしまった。自分が女であることに。

 それは私にとって、衝撃的な出来事だった。


 高校に入ってすぐ、彼女はバイトがしたいと言っていた。嫌な予感がした。中学時代、高校でもよろしくと言っていたのに。それでは私との時間が減ってしまうじゃない。

 私は反対するより、どんなバイトに興味があるのかと聞いた。よりにもよって飲食店でのバイトがしたいと、のたまった。

「飲食店は……変な客も多いんだからやめたほうがいいんじゃない?」

「社会勉強だって必要でしょ? 心配はわかるけど、放課後は一緒に帰れるよう、調整するから」

 ――そうじゃない。私は変な虫がつくことを危惧しているのだ。あなたは贔屓目かもしれないけど、可愛くて愛嬌があって、学校でもうまくやれている。男子だって「あいつ、可愛くない?」などと上から目線で品評している。そのたびに睨んで分からせてやるのだけれど。


 彼女はしょせん、他人だ。他人は私の思い通りに動いてはくれない。どんなに言っても彼女は意思を曲げなかった。これほどやきもきした気持ちになったことはないだろう。

 予想通り、週に何度かのバイトを始めてしまった。


 朝、一緒に登校して。昼に弁当を食べて。放課後はあの曲がり角でさよならする。真っ直ぐ進むはずだった道を逸れてあの店に向かうのだ。

 彼女の背中を見えなくなるまで見送って、カバンの持ち手を思いっきり握る。この時間が胸を締め付けた。


 帰宅してメッセージを飛ばしても数時間は返信も来ない。そこに彼女はいなかった。スタンプを送っても、おすすめの曲を共有しても、未読のまま彼女は私以外の時間を知らない誰かと共有している。

 堪えられなかった。小学校から一緒で、高校も彼女と同じ学校にしたのに。

「制服が可愛いから」なんて理由で勉強を頑張ったかわいいあなたが私のもとを離れようとしている。


「それでね、バ先の常連さんが店に来るたびいつも元気をもらってる、なんて言うの。やっぱり始めてよかったなぁ。……聞いてる?」

 聞きたくない。その常連とやらは悪い虫でしょ? 大学生で、いつものメニューをあなたからもらって、デレデレしているだけの悪い虫。

 私は黙って弁当を噛んで聞き役に徹していた。バイトなんてしなくたっていいじゃない。欲しいものがあるなら私が買ってあげるのに。

「よくみるとその人、結構かっこよくてさ。今度、勉強見てあげようかって言って――」

 その言葉が、私の不機嫌の最高潮だった。乱暴に弁当箱の蓋を閉じて、その場から離れた。


 やはり私の勘は当たっていた。それ見たことか。やっぱりこうなるって分かっていたんだ。彼女は女になってしまったのだ。

 笑うとクシャとなる目元も、上がった口角も、蒸気した頬も私のものだったのに。こうなる前に手を打つべきだった。私も同じバイトをして悪い虫から彼女を遠ざけて。でも実家の手伝いがあるので叶わなかった。

「学生のうちから家を手伝って、家業を継げるようになりなさい」

 窮屈な家。

 私は彼女といつまでも居たいのに。大人になったら彼女を家で雇って、これはと思う男と結婚させて、子供ができても家族ぐるみで付き合って。老後はきっと私たちのほうが長生きだから同じ老人ホームでも入って、墓も隣同士にしていつまでも一緒なのに。

 大人になってしばらくしたら、お酒でも呑んで「学生の時が一番よかったよね」なんて言いたかった。


 それももう叶わないだろう。

 彼女は私の知らない男と体を重ね、可愛げのない子供を産んで私のもとを離れていく。私の人生計画はここでおじゃんだ。


 人のあいだを縫うように廊下を走る。先生という役割の大人が喚いている。知らない、知らない!

 屋上に通じる扉の前で私は叫び、目からこぼれる涙を隠しもしなかった。誰もいない階段だけが私の喪失感を抱える。お前は自由だと語りかけるようだった。

 その優しさに身を委ねる。私は感情のままに弁当箱を投げ、顔を掻きむしり、地団駄を踏む。

「女の子なのだから、はしたないことはしないこと。感情を表に出すなど、もってのほかです。男女平等なんかありません。世間は役割を求めるものです」

 親が見たらこう言うだろう。でも、頼りの彼女は私の手からこぼれていく。両親が弱ったら施設に放り込んで、彼女と過ごすはずだったのに。

「知らねーよ、バーカ!」

 はしたなかろうが、なんだろうが私は私だ。人生は思い通りになんかいかない。そんなのは分かっている。でも、親の言うことを聞く、良い子の私の密かな夢くらい叶えさせてくれ。

 神様、かみさま。どこにだっている八百万の神さま。私は悪い子ですか? そんなにたくさん望みましたか? 依存だって分かっているんです。文字通り、彼女は心の拠り所です。親や先生の言う事を聞いて、親友の意思も尊重して私は良い子じゃないですか。どうして、どうして――。


 教室に戻ると、気まずそうな彼女が私に謝ってきた。意味のない謝罪なんていらない。私は良い子だから、謝罪を受け入れ今まで通り接することを約束した。

 ――本当に? 実は彼女に嫉妬していたんじゃないの? 一足先に大人になってしまう彼女に、焦りがあったんじゃない?

 考えがまとまらない。もう少し時間が必要だ。授業の声も、私の心の声が邪魔して耳に入ってこなかった。


「常連さんと付き合うことになったの」

 そうですか。やっぱりあなたは私のもとを去ってしまう。

「……そう。じゃあ、私とは今まで通りに帰れないね」

 嬉しそうな顔。否定の言葉はなかった。

「でも、お昼は一緒に食べよう? 朝も一緒に登校できるし」

 私も顔は曇っていたのだろう。焦ったような口調でまくし立てた。

「……うん。一緒しよ」

 その望みは叶うことはなかった。


 一緒にいるだけ、だった。

 彼女の生活は彼氏の存在で彩られていった。やれ彼氏がああしてくれた、こうしてくれた、惚気話が中心となっていった。

「でね、彼氏と家で勉強していたら腕が当たっちゃってドキドキしちゃった。ねえ、私ばっかり好きみたいで、なんだかなぁ」

「髪を、頬を触られてね……キスされちゃった。未成年だからここまでだからね。その先は大人になってから、なーんて言われちゃって。ドキドキが伝わらないか不安だったよ」

 どうしたの? と大きな目で見つめてくる彼女。私は目頭が熱くなっていたことに気づいて、なんでもないと答えるのに精一杯だった。


 彼女は女になったんだ。

 あの虫は口付けを交わす時に目を伏せて、息が当たらないよう呼吸を止めて、欲望のままに唇を吸ったのだ。その時の彼女の鼓動も、体温も、手の震えも、あの男のものになってしまった。

 この喪失感はなんだろうか。

 私が彼女に与えられないから?

 これが恋なら、愛なら、なんて陳腐な感情だろう。

 三ヶ月という月日は恋人にとって長く短く濃密な時間なのか。分からない、分かりたくない。


「若いうちは男なんかと付き合ってはいけません。余計な知恵や不必要な知識は、あなたにとって毒となります」

 そのはずだ。

 なのに、なぜ彼女はこうも楽しそうなのだろうか。

 昔、子猫を拾った時に猫の話題ばかりになったことがある。それと同じ? 刺激的で目新しいものを愛でているだけだと信じたい。

 時おり、遠くを見つめる目をし、切なそうに笑う彼女を見かける。どうしたのと聞いても、別にと答えるばかり。その目にはあの男が映っているんだろう。そこに私の居場所はなかった。


 私はどうすればいい?

 誰に聞くわけでもなく、自分に問いかける。ああしていれば、こうしていれば、過ぎたことを思い返しては拳を握り、枕に八つ当たり。

 頭では彼女の恋を応援すべきだと結論が出ているのに、脳みそがそれを拒絶する。

「彼女は私の親友。私だけの彼女だ」

 誰にも触らせたくない。彼女と一緒に過ごすのが安寧で、知らないことがあるのが悔しい、悔しい。

 ――それなら。


「ねえ、彼氏を紹介してよ。今度の日曜日とか放課後に会えないかな?」

 知ればいいんだ。

「えっ。もちろんいいよ。そういえば、最近惚気けてばっかでごめんね。私ばっか喋っててもつまんないよね」

 ううん。たくさんおはなし聴けて楽しいよ。

「いいの、いいの。今が楽しい時期なのは、なんか聞いてて分かるから」

 見ものね。変なやつならその場ではっ倒してやる。


「これが私の彼氏」

「お友達って聞いてるよ。いつも彼女がお世話になってるね」

「わっ、ホントにイケメンじゃん。こちらこそお世話になっています」

「ちょっとドリンク取ってくる。お茶系でいいよね?」

「ん、ありがとう」

 ファミレスのボックス席で彼氏と二人きりになってしまった。気まずい。世の中の大人はこの局面をどう乗り切るのかしら。

「聞いていたけど、君も可愛いね。小学校からの付き合いだって?」

 コップに口をつけてこちらをじっと見つめる。他愛のない会話、というやつか。経験値の差が出た気がする。

「そんな、そんな。あの子の働いてる店の常連だって聞きました」

「いやぁ、実は彼女を見かけてから店に通うようになったニワカだよ。下心ありありで通うようになったけど、彼女の働く姿にも更に惹かれてね。それで話のきっかけがてら苦手な勉強を見るようになって……って聞いてるよね」

 私は良い子だから顔に出さない。

「やっぱり。そうなのかなって思ってたんですよ。でもこうして会っていい人だから安心しました」

 豚の欲望に彼女を晒していたんだ。やはりバイトは辞めさせたい。

 本音を建前で隠す。家業で鍛えた表情筋はこの時のためにあるのだ。

「あー、私を差し置いて仲良くなってるー! この子は私のなんだからね?」

 その言葉に表情筋は崩れ、口元が緩んでしまった。


「この子は私のなんだからね?」

 私のもの、私のモノ。彼女もそう思っていたんだ! やっぱりあの子は私のなんだ。彼氏なんてどうでもよかったんだ。

 その先の記憶は、もう吹っ飛んでしまって、母に帰りが遅いと叱られたのも遠い記憶だ。

 ああ、あいつの顔も忘れてしまった。楽しそうな彼女に、腕を組まれて、高鳴る鼓動を脳に伝えて、光がまたたいた。それはクリスマスのイルミネーションよりも眩くて。星の輝きよりも強く煌めき、ドラムにギターにシンセに木琴。明るいメロディが耳に響いて、彼女の声だけが脳みそに届いた。

 やっぱり、やっぱり、そうなんだ! 嫌な予感なんて嘘だった! 私は今、幸福のシャワーを全身に浴びて踊っている。

「変わらなかった! そうだよね、そうだよね!」


 彼女の惚気話は半年を過ぎても止むことはなかった。むしろ、酷くなったのかもしれない。

 でも私は知っている。彼女は私に嫉妬させたいんだ。だからわざと彼氏の話を私にする。

 以前の私なら気持ちを隠して顔に出ないよう努めていただろう。でも今は違う。心の底から彼女の可愛い試し行為を受け入れられる。

 校則違反の甘い香水も、ほんのり色づいた唇も。これは彼氏のためじゃなく、私のためにしてくれている。

「最近、彼のために化粧をしているんだけど、動画の人は綺麗だから私じゃあんまり参考にならないかも」

 ほら、そうやって私の心を試している。


 傘に花びらと雨が打ち付ける春の朝。新入生が着慣れない制服をまとって登校しているある日。

 彼女の顔も曇り空だった。

「彼がね、別れてほしいって……大学に好きな人が出来たからって」

 湿気のこもった空気は花の香りが鼻をくすぐった。

 私はどんな顔をしている?

「……そう。辛かったね」

 傘が道路に飛び出て、彼女が私に抱きついた。何も香らない彼女は恋にやぶれて私のもとに帰ってきた。

 同じ制服の男女が私たちに視線を送る。長い髪が私の顔にかかって貼っついた。

「大切にするよって、言ってくれたのに! 私以外、見えないってあんなに言ってくれたのに!」

 私はそんなことしないよ。ここにいて、あなたのそばを離れないから。

「うん、うん。辛かったね。このままじゃ濡れちゃうから、早く学校、行こ?」

 連絡が取れなかったのは、薄情な彼のせいだったのね。

 校門に立っている先生に保健室に直行するのを伝えて、私たちは向かった。


「入学式には出られそう? 担任の先生には、体調が悪そうだから無理そうって伝えとくわね」

 保健室の先生はそう言って、出ていった。

「どうしても、自分の気持ちに嘘をつきたくないって。その人にも、私にも誠実でありたいからって……」

 消え入る声が私の胸に埋まる。これで私たち、二人きりだね。

「うん……。あなたは悪くないよ」

 悪いのは心変わりをした彼なのだから。

「でも、私、まだ彼が大好きで、大好きで。私にも誠実でいてくれた彼のことなんか、嫌いになれない!」

 分かっている。心を乱しているのは、まだ感情が整理できないからだからだね。

「……少し、落ち着いた? 今は泣いていいよ。私がそばにいるから」

「――――!」

 せきを切ったように泣いて、泣いて。彼女は私の体に縋り付いている。

 求められている。この背中から腰にかけて震える感覚はなんだろう?

 私は彼女の背中を優しく叩く。赤子をあやすようにゆったりとしたリズムで叩いた。


 ああ、私は。

 幸福に打ちひしがれている。全身の毛穴から汗が吹き出すこの感覚。

 彼女にはやっぱり私しかいない。

 窓に雨が打ち付ける。彼女の汗が、涙が。すぐそばにいる私のために存在している。

 湿気と彼女の体液が混じって、私の体液と睦み合う。

 先生はまだ帰ってこない。私たちだけの空間。


 献身的な私の世話のおかげか、彼女はなんとか立ち直りつつある。辛くなったら私が話を聞いて、涙を受け止めるからね。


 私はいつでもあなたのそばにいるから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日、女になったのは 江藤ぴりか @pirika2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ