12話 俺と奈々さんの夏休み


 木崎のアドバイスに従って、俺は俺の出来ることをする。奈々さんが歩き出せる手伝いをするのだ。


 そうと決まればいつまでも座っていられない。椅子から素早く立ち上がる。そして何度もテーブルとキッチンを行き来する奈々さんを通せんぼする。両手を広げた俺に奈々さんは目を白黒させている。


「あの、どうかした?」

「キリがないので、もう出かけましょう。奈々さんのタイミングで大丈夫です。ただ、下がるのは禁止します」

「そ、そうか。そうだね、出かけないと、遅刻しちゃうものな。でも、そんな通せんぼとかはしなくてもいいと思うんだけどね?」


 奈々さんの肩に手を当てて、くるりと玄関に振り向かせる。途端に奈々さんの体が硬くなったのが分かった。


「別に大丈夫です。奈々さんの行きたいと思った時で。でも一度行くってそう決めたら、真っ直ぐ一直線に行きましょう。疲れたらもたれかかってもいいです。今日駄目でもいいです。俺はいつでも奈々さんのために壁になりますから」


 ***


 靴を履かせる。まだ忘れ物があるかもとぐずる奈々さんに、代わりに取りに行きますといえば黙る。体育座りのように玄関に座ったまま、ゆっくりと靴紐を結ぶ奈々さん。俺はそれを後ろから見ている。


 びっくりするくらい、小さく見える。心細いと背中に書いてある。本当に、身動きできないんだろうと思う。自分でもきっと訳が分からないままに、ただ自由の効かないことに戸惑っていたのだ。自分以外を責められないから、自分の心が弱いんだとか、きっとそんなふうに責めていたんだろう。


 でもまあ、今日は別だ。俺がいる。背中に手を当てる。そのまま、熱が伝わるように、触れたままでいる。昔俺が何かを怖がってぐずった時、父さんはこうしてくれた。その時何を怖がっていたかは覚えてない。でも、大きなあったかい手が俺を勇気づけてくれたことは覚えている。俺のまだ小さな手でどこまで効果があるかは分からない。でも俺が足りないとしても奈々さんはそれで十分に違いない。


 そのまま、じっとしている。奈々さんは座ったままだし、俺は背中に手を当てたまま。そのままで、そのままにしている。


 大した時間はかからない。奈々さんが深く呼吸をする。ゆっくりと息を吸い、静かに吐き出す。背中が大きく膨らみ、すぼまる。きっちり3回だ。


「……もういいよ。ありがとう」


 手を離す。奈々さんが立ち上がる。振り向かない。奈々さんはそのまま一歩を踏み出した。手がドアのぶに触れて、中と外の空気が入り混じる。もう惑う姿はない。スッと伸びた背筋が、ドアを大きく開けて家から出ていく。俺も靴を履いて外に出る。

 奈々さんが横に手を伸ばし、鍵をぶら下げる。俺はそれを受け取り鍵を閉める。奈々さんは振り返らない。絶対に戻らない決意ということになる。いいですよと俺が言えば、マンションの共同廊下を歩き出す。少しだけ早足に、何かを振り払うように。


 エレベーターでも壁を向いたまま。俺が代わりに操作する。くるりと振り返った奈々さんは、口を引き結び真っ直ぐに前だけをみている。その横顔が、あまりにも、なんていうか、すごく──綺麗に見えて、俺はボタンの開を押したまま固まってしまった。だって、そんなふうに思ったのは初めてだったから。


 ***


 そこから先は何事もない。奈々さんは黙って前を歩き、俺が後ろにつく。時々奈々さんから名前を呼ばれて、その都度俺が答える。後ろを見れないから不安になるんだろう。俺が後ろにいるから、なのかな。もうそんなこと関係なく、奈々さんは前に進めていると思うけど、俺は勤めを果たす。それだけ。


 ただ、奈々さんが振り向かないのは正直助かったと思っている。何がかは分かんないけど、もしまたあの横顔を見たら、俺はどうなるか分からない。なぜかそう思った、その感覚を、もう少しの間しまっておきたいので。


 住宅街を抜けて学園通りへ。大きなTの字をしたモニュメントを抜けていく。ここから先は俺も初めて通る。大学校内になるはず。途中の案内センターをドキドキしながら通り抜けて、いくつか角を曲がる。他の大学生はそれなりにいるみたいで、時折笑い声が聞こえる。なんとなく楽しそうだ。そんなふうに周りを見ていたら、突然立ち止まった奈々さんにぶつかりそうになる。慌てて止まって、一歩下がる。


 奈々さんは、少し震えている。立ち止まり、目の前の校舎を見ている。ぎゅっと手が握りしめられていて、俺は何かいうべきなのか迷った。迷って迷って、結局何も言わない。だってまだ奈々さんは振り向いていない。俺を信じて前を見ているのだ。俺から声かけをしては台無しだ。立ち止まったままの俺たちを、時々他の学生が不思議そうに通り過ぎていく。まあ邪魔にはならないから許してほしい。もう少しだけ、きっとここが奈々さんにとって一番の踏ん張りどころだから。


 大きなため息が前から聞こえてくる。ついで、奈々さんが腕を大きく広げて、ラジオ体操でやるような深呼吸を始めた。そして、俺に向かってくるりと振り向いた。


「陽真くん。もういいよ。もう、大丈夫。本当に、ありがとう」


 少しだけ赤い頬が、大きくて光を映す目が、よく動く口元が、全力で嬉しさを表している。身体中から余計な力が抜けた自然な立ち方をしている。さっきまでのガチガチな雰囲気が嘘のようだ。


 多分、奈々さんはさっきのため息で全部を吐き出したんだろう。今まで溜まっていたよくないものが、全部でた。だからこんなに素直に笑っていられるんだと、そう思う。全く、よく晴れているせいで、眩しい日差しだ。そのせいでちょっと奈々さんが余計に眩しく見える。


「俺は、ついてきただけです。借りを返すためなので、気にしなくていいです」

「うん、そうだね。でも、ありがとう」


 なんともむず痒い。泣かれるのは嫌だけど、感謝されるのもこそばゆい。いつも通りに戻ってくれるのが俺にとっては一番嬉しいんだけどと、ぶっきらぼうになってしまう。


「分かったので、それはいいです。受け取りましたから。それより、案内して下さい。友達とかも紹介してくれるんでしょ?」

「もちろん! さあ、ツアーを開始しようね。さあ、ご覧ください、右手に見えるのは──駐車場です! あははっ!!」


 何があははだ。全く、本当に奈々さんは困った人だ。


 ***


 家の中でぽちぽちとスマホをいじっている。最近教えてもらった中学生向けのトレーニング動画を見ている。注意事項をメモしながら、軽く体を動かしてみる。


 ソファでは奈々さんが大学の資料を広げている。前期をまるっと落としたから、後期でどう取り戻すかが大事だと頭を悩ませている。あれから奈々さんは、無事に大学への通学を再開した。もちろん今は夏休み中だから、とりあえず図書館で勉強をしているみたいだ。リハビリみたいなものだと笑っていた。


 そういうわけで奈々さんのお手伝い時間はちょっと時間をずらして続いている。昼前に来てお昼をささっと作り、家事をしてから夕飯の準備。一緒に夕食を食べて、帰っていく。少しだけ変わったけれど、いつも通りの生活。もうすぐ終わる、いつも通りだ。


 明日、母さんが帰ってくる。父さんもだけど。そうしたら、奈々さんのお手伝いも完了となる。1ヶ月。4週間。30日で720時間。まるまる一緒だったわけではないけど、家族以外とここまで長く一緒に過ごしたのは初めてだ。だから、それが終わるというのがどうにも、モゾモゾとした気分になる。

 だから、別に部屋で見ればいい動画をリビングで見ているし、チラチラと奈々さんを見てしまうのだ。


 何度目かの俺の密かなため息に、奈々さんのそれが重なった。目があって、照れ臭くなって笑う。奈々さんは立ち上がって、俺の隣に座った。


「今日が最後だね。なんだか実感が湧かないけれど」

「俺もです。明日もこうしている気がしてます」

「うん。私も。でも今日までだよ。明日も一応ご両親に挨拶するから来るけど、それは夕方になる。きっとあまり話をする時間はないと思う。だから、今日のうちに君と話しておきたいんだ。時間をもらってもいい?」

「俺も、この1ヶ月のこと、奈々さんと話したいです。今日はもう、何もやる必要なんてないので、話をしましょう」


 じゃあ、とお茶を淹れようとする奈々さんを押し留め、俺が席を立つ。おやおやという目線の中、俺が用意したのはサイダーだ。俺だってたまにはジュースを飲む。本当はお酒の方がふさわしいんだろうけど、俺は未成年だし。ビールは炭酸だから、同じ炭酸のサイダーでもそんなに間違ってないだろう。


「乾杯っ」


 声を揃えて一気にサイダーを飲む。喉に炭酸の刺激が心地よい。コツンと机にコップを下ろして、ニヤリと笑う。同じように口角を上げている奈々さん。なんとなく、悪いことを共有しているようで、それが楽しい。


「1ヶ月、ありがとうございました。おかげさまで、快適に過ごせました。それに、勉強を見てもらったり、名古屋まで着いてきてもらったり、本当に助かりました」

「ん、いいよ。そういうお仕事だったし、掛け値なしにキミの相手は楽しかったから。それに、私もキミと会えてよかったと思う。正直理解に苦しむこともあったけど、色んな考え方があるのを学べたから。それに、キミのおかげでまた外に出られるようになったから。大学に行けるようになった。陽真くんのおかげだ。本当に、感謝してる。ありがとう」


 2人で頭を下げあう。俺は一番の友達と縁を繋ぎ直すことができた。奈々さんのおかげだ。奈々さんも自分を奮い立たせて大学に行けるようになった。俺も奈々さんも、2人でいたからそれができた。だからお互い様だ。


「これで全部チャラですかね?」

「借りの方が多い気がしてるけど」

「それはお互い様なので、チャラです」

「じゃあ、チャラだね」


 全部、チャラだ。笑ってコップをもう一度重ねる。きぃんと涼しい音が耳に残る。


 チャラになっても別に初めに戻ったというわけではない。俺たちの間に積もり重なった色々があって、その上に大団円的に乗っかったチャラだ。ただのチャラではないのだ。


 2人で笑う。サイダーを飲みながら、笑って過ごす。俺が奈々さんの友達に絡まれてタジタジだったこと。奈々さんのTシャツ選びのセンスがひどいこと(奈々さんに猛然と反論された)。筋肉付けるのもほどほどにしないと気持ち悪い扱いされること(烈火の如く反論した)。何を話しても楽しい。

 

 だからその日は、奈々さんが帰る時間が随分と遅くなってしまった。


「遅い時間なので送って行きます」

「気持ちだけ受け取っておくよ。未成年が出歩く時間じゃないからね」


 またもや年が俺の目の前を塞ごうとする。流石に送っていくのに保護者をつけるわけにもいかないから、俺は黙るしかない。


 ぽんぽんと俺の頭を奈々さんが撫でてくる。その目はどうにもむずむずするような、不思議な感じだ。


「じゃあ、明日は16時に来るから、そう伝えておいて。帰って来るのは10時とかそのくらいなのでしょ?」

「はい。そのくらいの時間になるって言ってました。奈々さんにもたくさんのお土産があるから、大きなカバンを持ってくるようにとのことです」

「まいったな、そんなに大きいカバンあったかなぁ……」

「俺のカバンを貸してあげますよ。俺が入るくらい大きいカバンを持っているんです」

「……じゃあ手ぶらでこようかな。ふふふ、冗談。いざという時使えないと君が困るだろ? でもその代わり、荷物持ちに君を借りるかもね」


 確かに、たくさんの荷物を持ち帰らせるなら、力が必要だ。都合のいいことに、俺はその力を持っている。少なくとも奈々さんよりはたくましいのだ、俺は。


「お手伝いさんとしては、明日で終了。でもさ、私はキミのこと、弟か親友くらいに思ってるよ?」

「俺も、奈々さんのことは、お姉さんか親友くらいに思ってます。わけわからない人だなとも」

「言うようになったなぁ全く。このへらず口はどうしたら無くなるんだろうね」


 保護者から悪い影響を受けたんですと嘯けば、なんて酷い保護者がいたものだと奈々さんが白を切る。それが楽しくて、少し寂しい。


「……つまり、なんというか、いつでも来てください。俺も困った時には相談しに行きますし、奈々さんも困ったら俺を頼ってください。日に日に大きくなっていく俺は、どんどん頼れる男になっていきますから」

「そうする。そうさせて貰うよ。キミの成長は楽しみだし、困った時には頼りにする。そうそう、そのうち木崎ちゃんも連れて遊びに来たらいいよ。腕によりをかけてごちそうするし、大学を案内してもいい。中学生でも大学デートくらいはしてもよかろうだしね」


 大学生か。そのくらい大きくなれば、俺も木崎も自分で住むところを選べるようになる。俺は好きにポスターを貼れる大きな壁を手に入れられるし、木崎の家の近くで毎日話をしてもいい。それは、とても素敵な将来だ。そこに奈々さんもいてくれるなら、もう万全としか言いようがない。


「ふふふ、木崎ちゃんとはね、キミという人間に振り回されたもの同士仲良くなれそうな気がするんだよね」

「振り回されたのは俺もですけど……。でも、そうしましょう。冬休みは多分木崎がこっちに来ることになりそうですから」


 話は絶えない。けれど終わりはある。もうずっと夜だから。


 ***


 それで次の日。


 奈々さんに本当に大量のお土産を渡す母さんや、予想通り俺がそれを運ぶことになったりと、蓋を開ければ騒がしくて湿っぽい雰囲気はほとんどなかった。


 でも、奈々さんのマンション、その玄関で最後の挨拶をする。


「じゃ、これで、だね。陽真くん。ありがとう」

「はい、じゃあこれで。奈々さん。ありがとうございました」

 

 それで、俺と奈々さんの短い夏休みは終わりになった。


 ***


 俺たちの夏休みは終わりはしたのだけど、当然普通にご近所さんだ。母さんは奈々さんを気に入っているし、奈々さんも学校の合間に時々遊びにくる。

 そして、俺が奈々さんをつければ多少の外出でも問題ないことを確認した母さんは容赦がなかった。今まで控えてもらっていた父さんの出張を解禁し、サクサク家を開けるようになったのだ。


 ピンポンとインターホンがなり、俺は玄関に向かう。ガチャリと開けたドアの前には──俺の一番尊敬する人が立っている。


「お手伝いに来たよ、陽真くん。また、よろしく」

「来てくれて心強いです。奈々さん、これからも、よろしくです」


 夏休みなんて短いものだ。当然、それ以外の時間の方が長い。まあつまり、そんなふうに俺たちの日常というのが続いていくんだろう。


 終わり








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読んで頂きありがとうございました。

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