第20話

 スポットライトの熱が、優の肌に現実の感覚を呼び戻した。


 割れんばかりの拍手と、地鳴りのような歓声が、それまでの静寂を打ち破ってホールに流れ込む。まるで真空だった世界が、一瞬にして祝福の音で満たされたようだった。


 優は隣に立つ寧々に視線を向けた。彼女の瞳はまだ涙で潤んでいたが、その奥には強い光が宿っている。それは、優が今まで見たことのない、確かな輝きだった。


「……先輩」


 寧々が震える声で呟いた。その声には、喜びと驚きと、信じられないという感情が入り混じっていた。


「夢みたいです……本当に、私たち……」


「夢じゃないよ、寧々」


 優は優しく微笑み、力強く頷いた。自然と、相葉ではなく名前で呼んでいた。


「これは、俺たちが本気で、魂を込めて作った真実だ。俺たちの映画が、ここに、確かに届いたんだ」


 司会者の女性が、興奮冷めやらぬ様子で二人にマイクを差し出す。


「グランプリ受賞、誠におめでとうございます! 天音優監督、相葉寧々さん、今のお気持ちを一言お願いします!」


 優はマイクを受け取ると、一度深く息を吸い込んだ。眩いステージライトの向こうに、無数の観客のシルエットが見える。その一人ひとりが、自分たちの映画を見て、何かを感じ取ってくれたのだ。


「ありがとうございます。何を言えばいいか……」


 言葉に詰まる。頭の中は真っ白で、気の利いたスピーチなど到底出てきそうにない。けれど、伝えなければならない感謝だけが、胸の中心で確かな熱を帯びていた。


「この映画は、一人では絶対に作れませんでした」


 優は言葉を絞り出す。


「俺が挫けそうになった時、手を差し伸べてくれた人がいます。俺が撮りたいものを見失った時、レンズの前に立って、俺自身を物語の主人公にしてくれた人がいます」


 優は、隣に立つ寧々へと改めて視線を送った。スポットライトを浴びて、彼女の黒髪が琥珀色にきらきらと輝いている。


「あの時、俺は初めて、本当に撮りたいものを見つけられました。これは、俺自身の、そして相葉寧々の『本物』を映し出した作品です。完璧じゃないかもしれないけれど、だからこそ、心に届くと信じていました」


 優は深く頭を下げた。


「本当に、ありがとう」


 それだけ言うのが精一杯だった。優がマイクを寧々に渡すと、彼女は少し戸惑ったようにそれを受け取った。


 そして、小さく、しかし深くお辞儀をした。


「……ありがとうございました」


 たった一言。しかし、その短い言葉には、万感の想いが込められているのが痛いほど伝わってきた。彼女の潤んだ瞳が、それを物語っている。


 拍手が再びホールに大きく響き渡る。その時、審査員席から、白髪の老紳士がゆっくりと立ち上がり、ステージへと歩み寄ってきた。


 日本映画界の巨匠として知られる、今回の審査員長、黒澤監督だった。


「天音くん、相葉さん、素晴らしい映画だった」


 黒澤監督は、皺の刻まれた顔に温和な笑みを浮かべ、二人にトロフィーを手渡した。ずしりと重い、ガラス製のトロフィー。優と寧々は、二人でそれを支え合うように受け取った。


「君たちの映画には、魂があった」


 監督はマイクを手に取り、会場を見渡して語りかける。


「昨今、技術は目覚ましく進歩した。誰でも簡単に、見栄えのいい映像が作れる時代だ。だが、我々が心を揺さぶられるのは、完璧な映像美だけではない。むしろ、その逆だ。手ブレの中に、ピントの合わない一瞬に、ざらついたノイズの中にこそ、作り手の呼吸が、葛藤が、そして真実の息吹が宿る」


 その言葉は、まるで優たちの映画そのものを語っているようだった。そして同時に、その直前に上映された、親友と日葵の映画への、静かだが決定的な批評でもあった。


「『光の在り処』は、不器用で、荒削りかもしれない。しかし、そこには紛れもない“本物”の痛みが、そして、それを乗り越えようとする人間の確かな希望が映し出されていた。これこそが、我々が映画に求めるものだ。技術は、あくまで魂の器に過ぎない。君たちは、その最も大切な本質を、決して見失わなかった。本当におめでとう」


 黒澤監督の言葉に、会場は再び温かい拍手に包まれた。優と寧々は、何度も、何度も頭を下げた。スポットライトの下で、彼らの喜びと感謝が光を放っていた。


 その光景を、観客席の暗がりから見つめる二つの瞳があった。


 坂田日葵は、自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。涙はとうに枯れ果てていたが、頬を伝った感触だけが生々しく残っている。乾いた肌がひりひりと痛んだ。


 ステージの上で輝く優と、その隣で幸せそうに微笑む相葉寧々。


 あの場所は、本来なら自分がいるはずだった場所だ。優の隣で、ヒロインとしてスポットライトを浴びるのは、自分だったはずなのだ。


 いつから、道を間違えたのだろう。


 優の映画への情熱が、自分ではなく作品に向かっていると感じた時か。彼の撮るものが、退屈な自己満足に見えてしまった、あの瞬間か。それとも、「君こそが最高の被写体だ」という甘い言葉に、心を揺らしてしまった、あの時か。


 隣に座る男――かつての親友であり、自分の新しい監督だったはずの彼は、スクリーンが明るくなってから、ただの一度も動いていない。その顔は蒼白で、虚ろな目がステージの光を映しているだけだった。


「……なぜだ」


 絞り出すような声が、隣から聞こえてきた。その声には、狂気にも似た問いが込められている。


「なぜ、俺の映画が負ける……。AIの方が、技術は上だ。完璧な構図、完璧な色彩……人間の手じゃ不可能な映像を作り出したんだぞ……。それこそが“本物の光”だ。なのに、なぜこんな、手ブレだらけの“欠陥品”が……!」


 その呟きは、もはや日葵の耳には届いていなかった。


 彼女の脳裏に蘇るのは、優と二人で映画を作っていた頃の記憶だ。河原で夕日を待ったり、商店街を駆け抜けたり、部室で夜遅くまで編集したり――――。あの頃の自分は、確かに笑っていた。彼が向けるレンズの先にいることが、何よりも誇らしかった。


 それを捨てたのは、自分だ。


 もっと手軽な輝きを求めて、もっと分かりやすい「主役」の座を求めて。


 その結果が、これだ。


 ステージ上の優が、ふと客席に視線を向けた。一瞬、日葵と目が合ったような気がした。しかし、彼の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。まるで、そこに転がっている石ころでも見るかのように、彼の視線はすぐに通り過ぎていく。


 そして、隣にいる寧々に、優しい眼差しを向けた。


 ああ、終わったのだ。


 完全に。


 自分がヒロインだった物語は、もうとっくの昔にエンドロールが流れていた。今はただ、観客席の暗闇で、新しい物語の始まりを呆然と見つめることしかできない、名もなきエキストラの一人に過ぎないのだ。


 日葵は、音もなく立ち上がった。隣の男は、まだ虚空を見つめて呟き続けている。彼にもう用はない。誰にも、もう用はない。


 彼女は、誰にも気づかれることなく、静かにその場を後にした。ホールの出口から漏れる夜の冷たい空気が、燃えるように熱い頬を撫でていった。


 まるで、過去の情熱を冷ますかのように。


 誰も彼に声をかける者はいなかった。ただ、薄暗い客席で、虚ろな目をステージに固定したまま、理解不能なAIの呪文を呟き続けている男が一人。その姿は、まるで忘れ去られた亡霊のようだった。


 ◇


 映画祭の喧騒から逃れるように、優と寧々は会場を後にした。祝賀会にも誘われたが、二人とも丁重に断った。今の彼らにとって、そんな華やかな場所は必要なかった。


 市民会館から駅までの道は、街灯もまばらで薄暗い。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った夜道を、二人は並んで歩いていた。優の手にはガラスのトロフィーが、寧々の手には賞状の入った筒がしっかりと握られている。


 どちらからともなく、言葉はなかった。


 ただ、隣を歩く互いの気配と、規則正しく響く二つの足音だけが、心地よい沈黙を満たしていた。


 しばらく歩いて、川沿いの小さな公園に差し掛かった時、優はふと足を止めた。


「なあ、寧々」


「はい」


 寧々も立ち止まり、優の方を向く。街灯の頼りない光が、彼女の輪郭を柔らかく照らしていた。


「これから、どうする?」


 それは、漠然とした問いだった。明日からのことか、これからの人生のことか、優自身にもよく分からない。それでも、聞かずにはいられなかった。この物語が終わった今、彼女が何を見ているのか知りたかった。


 寧々は少しの間、夜空を見上げていた。都会の空にしては、星が驚くほど綺麗に見える。


「……分かりません」


 静かな声で彼女は答えた。


「でも、また、何かを撮りたいです。今日みたいに、誰かの心に届くようなものを」


「そうか」


 優は小さく笑った。その答えが、なぜかとても嬉しかった。


「……決まってるだろ」


 優は、前を向いたまま言った。


「次の映画を撮るんだ」


 その言葉に、寧々が息を呑むのが分かった。夜の空気が、一瞬にして変わったように感じられた。


 優は続ける。


「グランプリを獲ったから終わりじゃない。ここからが始まりだ。俺たちが本当に撮りたいものを、今度こそ、魂の赴くままに――――」


 そこで一度言葉を切り、優は寧々の方へと向き直った。そして、彼女の、賞状を握りしめていない方の手を、そっと取った。


 びくり、と寧々の肩が小さく震える。彼女の手は少し冷たかったが、すぐに優の体温がじんわりと伝わっていった。


「……俺と、寧々で」


 優は一度言葉を切り、寧々の瞳の奥に、その真剣な想いを注ぎ込む。


「俺は、寧々と共にいることで、最高の映像を、魂の物語を紡げると確信している。だから、これからも、共にフィルムを回してほしい。俺の隣で、俺の光になってほしい」


 真っ直ぐに、彼女の瞳を見つめて告げる。街灯の光の中で、寧々の顔がゆっくりと赤く染まっていくのが見えた。彼女は俯いてしまい、長い前髪がその表情を隠す。しかし、握り返してきた彼女の指先の力が、何よりも雄弁にその答えを物語っていた。優もまた、その力に応えるように、彼女の手を優しく握り返した。


 やがて、寧々は顔を上げた。


 涙の跡が残るその顔に、今まで見た中で最高の、愛おしい満開の花のような笑顔が咲いていた。


「……はい、先輩」


 彼女は、最高の笑顔で頷いた。その瞬間、優はたまらず寧々を腕の中に引き寄せ、優しく抱きしめた。彼女の体が、じんわりと優の体温に溶けていくようだった。


 物語は、ここで終わらない。


 むしろ、今、始まったばかりなのだ。失われた誇りを取り戻すためのリベンジの物語は終わった。これからは、自分たちの魂の声を、ただ誠実にフィルムに刻んでいく、新しい物語が始まる。


 二人の前には、無限の未来(フィルム)が広がっている。


 優のポケットで、スマートフォンが短く震えた。着信を知らせるバイブレーション。画面をちらりと見ると、ロック画面にメッセージの通知が表示されていた。


『坂田 日葵:おめでとう』


 たった五文字。そこにどんな感情が込められているのか、今の優にはもう興味がなかった。それは、もうとっくの昔に上映が終わった映画の、忘れられた小道具のようなものだ。


 優は通知をスワイプして消すと、何も見なかったかのようにスマートフォンをポケットにしまい込んだ。


 彼の視線は、過去の残像ではなく、今、隣で抱きしめている温もりと、その先にある未来にだけ注がれている。


「行こうか、寧々」


「はい、先輩」


 寧々の声は、夜の静寂に明るく響いた。


 二人は、再び歩き出す。


 まだ誰も知らない、新しい物語の、最初のワンシーンを撮るために。彼らの撮影は、これからも続いていく。



≪完≫

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恋人と親友が作ったNTR映像は傑作だと?――才能も居場所も奪われた俺が、信頼できる後輩と撮る映画で、お前らの偽物を完膚なきまでに叩き潰す! ネムノキ @nemunoki7

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