十年越しの失恋
佐渡 寛臣
十年越しの失恋
人と見比べて、千奈美はいつも俯いてばかりいる。彼女が目を合わせるたびに見せる、誤魔化しの笑みにいつの間にか清二は興味を抱き、そうして見つめているうちに、惹かれていたのだろう。
清二がそれに陥って、そうしてそのことに気付くまで随分と時間がかかってしまった。それは互いが別々の大学へ進み、そして学生であることを終え、何の約束を交わすこともなく、毎日顔を合わせることもなくなり、それぞれの道へと別れてから、数年が経った後のことだった。
きっかけは、偶然、街ですれ違ったことだ。休日、乗り換えの駅のホームに向かう横断歩道、ほんの少しの道のりで、清二は千奈美とすれ違った。
清二は、彼女が千奈美であることに気付いたのは、振り返り、すでにその背中が見えなくなってからだ。相変わらず、下を見て、人に交わらないように影へ影へと進むように歩く姿は、昔と変わっていなかった。
しかし、清二は驚きを隠せなかった。千奈美が、子どもを連れて歩いていたからだ。小学生くらいの女の子だ。親戚の子ども、とは思えなかった。あまりにも顔は似ていたし、手を繋いで歩くことが自然であるように、慣れた様子で歩いていたからだ。
清二は、そのとき、初めて、学生時代、どんな気持ちで千奈美の笑みを眺めていたのかに気付いた。
心臓が強く打っているのが分かった。清二は痛む胸を抑えて深く息を吸い、呼吸を整える。しかし、頭の中は、もうあの頃の千奈美の姿に支配されていた。
――東條くんって少しイメージ違うね。
放課後、実行委員の書類を書く千奈美は、視線をノートに落としたまま言った。
――いつも、みんなこんなの一人に任せて帰っちゃうのに。
夕日の赤い日差しが、千奈美の頬を赤く染めていた。眼鏡のフレームに明滅するように反射する光に、清二は目を細めて、千奈美の動かすペン先を見つめていた。
(一人だと、大変だろうなって思って。でも手伝えることないってのももどかしいもんだな)
視界の隅で、千奈美が視線をほんの少し上げるのが分かる。目を合わせれば、きっと逸らしてしまうから、清二は感じる視線はそのままに、ただ走るペン先を見つめていた。
――帰ってもいいよ。退屈、でしょう?
言われて、清二はほんの少しだけ、視線を上げる。途端に千奈美はまた笑って、俯いた。
(いいや、残るよ。一人でいる方が退屈だ)
その日も、その日の後も、何があったわけではない。浮かぶ思い出はそんな他愛のない、日常の一ページにも満たないものだった。
清二はもう一度振り返り、その背中を捜した。
どこかに、まだ近くに、いるかもしれない。信号が点滅し、清二は、元来た道を走る。横断歩道を渡りきり、辺りを見回す。人ごみの中、それらしい姿はない。
無理だ、と誰かが胸の内で呟く。会って、再会を喜んだとしよう、それでお前はどうするつもりだ。清二の胸の内は、黒く、痛む。
歩道の左右を見る。駅のホームへ続く道と、正反対の道。
俯く千奈美がもし昔と変わらないままの千奈美なら。
清二は反対の道へ走り出した。人混みが苦手で、いつも学校の廊下の端を申し訳なさそうにとぼとぼと歩いていた。そんな学生時代の姿を思い浮かべた。
――学食って苦手。いつも混んでるから。コンビニでパンばっかり買って食べてるから、私って太ってるんだろうな。
(今日は学食のパンなんだな。それも残り物)
――遅刻しそうだったから寄れなかったんだ。人が散るの待ってたら、こんなのしか残ってなかったの。残念。
大笑いをしたら、ふくれっ面することもなく、千奈美は苦笑いしてまた俯く。笑いながら、清二は千奈美のコッペパンを手に取ると、半分に千切って、手渡した。きょとんとする千奈美に、清二は自分の惣菜パンをまた半分に千切って手渡した。
千奈美は、友だちが少なかった。引っ込み思案な性格は淑やかではあったが、周りとはあまり馴染めていないようだった。
今、思えば、千奈美は周囲から、特に女子からは無視されていたのかもしれない。ただ席が近いという理由だけで、清二は一人で食事をする千奈美に話をしていた気がする。
清二は、立ち止まって気付く。
それはもしかすると自分のせいだったのではないだろうか。元々引っ込み思案で、人と話をしない千奈美はいつの間にか、清二を介して男子の輪の中にいたように思う。
ぞっとするような想像が清二の脳裏に過ぎる。あの、困ったような笑顔の裏にはもっと多くのメッセージがあったのではないだろうか。
(僕は、謝らなくてはならないのではないだろうか)
そう、思ったときだった。
曲がり角から、その記憶の中の女の子が顔を出した。誰かを探すようにきょろきょろと、訝しんで、彼女を見る人の視線に俯きながら、それでも懸命に人を探している。
千奈美の、姿だ。
清二は思わず手を挙げた。自分のことではないかもしれない、きっと自分のことを探している。二つの声が重なりながら、思わず清二は、数年ぶりに、その名を呼んだ。
「千奈美!」
パッと、顔を上げた。
あ、と千奈美は声を出しそうになって、口を結んで、微笑む。目はしっかりと清二を見つめていた。
駆け寄ると、手を繋いで隣に立つ、千奈美にそっくりな子は親の影に隠れてしまう。そんな姿に思わずくすりと笑う。
――そっくりだって思っているんでしょう。そう、どこか不敵に笑う千奈美はあの頃と違い、その目は強く、清二の目を捉えていた。
不安も、胸の痛みが一瞬のうちに霧散する。先ほどまであった思考や想像をひっくり返してかき混ぜるほどに、幸福そうなその笑顔に、清二の胸はとくんと熱く、跳ねる。
千奈美の、どこか影のあるあの笑みに興味を持った。いつしかその笑みに、いや、その合間に時折見せる、ほんの一瞬のすぐに隠れてしまうような本当の笑顔に、清二はいつの間にか惹かれていた。
(あぁ、やっぱりこの子はこんなにも素敵な子だったんだ)
笑って、千奈美は娘の背中を押す。娘は、小さな声で自己紹介をする。微笑ましいそれに答えて、清二もまた挨拶を交わす。
二人は、その後、ほんの少し会話を交わし、別れた。
清二は、ゆったりとした足取りで、家路を歩く。時折胸が痛むけれど、それでも暖かく、心地の良い感覚があった。
――私といても、退屈しない?
(頷いた僕に、君が初めて、笑ってくれたんだ)
ずっと忘れていたはずなのに。
清二は痛く、熱く、跳ねる胸を手で押さえた。
これは失恋の痛みだろうか。十年越しの、失恋の痛み。
だけどそれ以上に熱く跳ねる心臓は、きっと幸せの高鳴りなのだ。
あの日と同じ夕焼けだった。晴れ渡る空を朱に変えて、空いっぱいに紅く染まる。記憶の中の千奈美も夕焼けに頬を朱に染めて、俯いて黙った。
携帯電話を取り出して、清二は千奈美の連絡先を表示する。苗字の変わった初恋の人の名前。清二はその名を口にするに留めて、そっとポケットへしまった。
十年越しの失恋 佐渡 寛臣 @wanco168
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